35.決別
長年使われていなかった部屋はいくら換気してもカビ臭さが取れず、黄ばんだ壁紙は所々剥がれかかっている。
開けっ放しにされた窓からは秋めいた風が入り込み忙しなくカーテンを揺らすが、この部屋の主人がそれを気にする様子はない。
簡素なベッド脇に置かれたロッキングチェアに腰掛け、隈の出来た目で意味もなく壁の一点を見続けている。
ドアをノックする音が聞こえたが、何一つ反応を示さない。一拍置いてから部屋に客人が入って来た。
やってきた彼女は部屋に入りドアを閉めてすぐ、深々と頭を下げた。
顔を上げて刹那、目の前にいる変わり果てた元主人の姿に目を瞬いたがすぐに平常心へと戻る。
「お久しゅうございます。メロウナ様。」
声に感慨深さは微塵も感じられない。手本のような形式的な挨拶だった。相手に向けた視線は冷え切っている。
「…………おまえ…セラ…か…?」
メロウナの口から漏れ出たのは、聞き逃してしまいそうなほどの掠れ声であった。
虚だった瞳に光が戻り、セラに焦点が定まる。彼女を見る目に期待の色が浮き出ていく。半開きの口の両端が上がった。
「何という幸運…私のためによく来てくれましたね。」
深く腰掛けた椅子の上で前のめりになり、芝居じみた動作で両手を差し出すメロウナ。その希望に溢れた視線はセラを捉えているようで、その先にある何か別のものを見ているようであった。
セラは怪訝な顔をするも口を挟まず、メロウナの出方を静観している。
「セラ、命令です。私もあの娘達と同じ家に籍を入れなさい。ケルフェン伯爵家にもう用はありませんから。」
「は?」
メロウナの口から出た荒唐無稽な話に、セラが苛立ちを露わにした。この後に及んで何を言っているのかと、目眩すら覚える。
(これはもはや自分勝手などという次元ではない。お二人をあんな目に合わせて反省の色ひとつ見せず、まだこんな戯言を口に出来るとは…)
ふつふつと怒りが込み上げてきた。増幅する怒りのままに椅子を蹴り飛ばしたい衝動を抑え、最大限の侮蔑を込めた視線を向ける。
「この人でなしが。」
「は………?」
これまで聞いたことのない低い声と向けられた明確な殺意。メロウナが抱いていた淡い期待は霧散し、混乱の表情で狼狽する。
(なぜ…?なぜセラがあんな態度を私に…?尽くすべき主人対してこんな…私のおかげで生きているというのにどうして…)
目の前で起きていることが現実に思えなかった。
「私はもう貴女の召使いではありません。正式に公爵家に仕えることになりましたから。ただ、これまで面倒を見ていただいた御恩は感じております。」
「そ、それならっ…」
瞬く間に歓喜するメロウナ。両目に涙を浮かべて立ち上がろうとする。それを一瞥して黙らせると、セラは懐から取り出した小さな紙の包みをテーブルの上に置いた。
「これで一気に楽になれますよ。」
救いを提示するかのように柔らかな声音で言う。
まるで聖職者のように慈悲深い顔で微笑みかけたセラ。その目は全く笑っていない。
「お前っ………」
メロウナの顔が憤怒の表情に変わる。セラの示唆することを理解して烈火のごとく怒り出した。
「このっ…ただの平民風情があああああっ!!!伯爵夫人である私に盾付きやがって!恥をしれええええっ!!お前なんかお前なんかお前なんかお前なんかお前なんかお前なんかっ……」
「チッ」
罵詈雑言をぶつけられたセラが思い切り舌打ちをした。こんな奴と話しても無駄だと踵を返す。元より相手にする気はないらしい。
気の触れたメロウナが武器となりそうな物を目で探すが、前科があるためこの部屋には最低限の備え付けの家具しか置かれていない。
怒りをぶつける矛先を見つけられず、メロウナの怒りが最高潮に達する。今にも血管がブチ切れそうだ。
「ちなみにそれ、当て付けで邸の者に飲ませても無駄ですよ。解毒剤を渡してありますから。それではこれにて失礼致します。」
「お前ええええっ!!!これ以上この私を侮辱するなあああああ!この不届者がああああああっ!!!いい加減にしーー」
荒ぶるメロウナを無視してさっさと部屋を出る。あそこまで落ちぶれては視界に入れる価値もなく、心は何も感じなかった。
あまりの騒音に、ドアを閉めてもなお耳鳴りが止まずこめかみを抑える。
「嫌な役を押し付けてしまいましたな。」
「ロナウド殿、こちらこそ無理を言いまして申し訳ありませんでした。」
廊下に控えていたロナウドに、姿勢を正して几帳面に頭を下げるセラ。その横顔は憂が晴れてスッキリとしていた。
「区切りはつけられましたかの?」
「はい。本当は頬の一発でも殴って差し上げようかと思っていたのですが、その価値もありませんでした。」
「それは良かったですぞ。手が痛みますから。」
ロナウドが和やかに笑う。
ー 自害するように仕向けろ。成果は問わない。
これが今回フィニアスから命じられたことであった。
ロナウドが遂行するつもりだったが、セラに一度だけメロウナに会わせて欲しいと懇願されたことからその役を譲ることとなったのだ。
「これでお二人の門出をお祝い出来ますな。」
「はい。」
硬い表情で頷いたセラが決意する。
今日この日のことは墓場まで持って行こうと。あの二人の人生に一つの翳りもあってはならないと、二度と思い返すことのないよう自分の中の深い所に仕舞い込む。
用の済んだ二人は、来た時と同様伯爵家の馬車に乗り、その足で公爵邸に向かったのだった。




