18.呪縛と救済
カトラリーを持つ手が緊張で震えそうになる。
(失礼がないようにしないと…)
これまで、きちんとした装いをして食事をする場面には必ずメロウナがいた。彼女の視線と叱責に怯えながら必死にマナーを思い出して手を動かす。それがエリーナにとっての食事の時間だった。
今は怯えなくていいのだと言い聞かせても身体が覚えている。あの時のひりつくような心の痛みと身体の痛みを。
その時、また強い風が吹いた。
視界のあちらこちらに色鮮やかな花弁が舞う。それが堪らなく美しくてつい目で追ってしまう。
(まぁ。なんて素敵な光景なのかしら。)
自然と顔も綻ぶ。
(え…?)
なんとなく見られている気配がして顔を向けると、目を細めてこちらを見ていたフィニアスと目が合った。それが無性に恥ずかしくて慌てて俯くエリーナ。
「そう構えなくていい。この邸にいる者達全員がエリーナの味方だ。誰も君を責めたり害したりしない。」
「…っ」
涙が込み上げそうになる。
たったの一言なのに、それが今までずっと自分が欲しかったものだと気付かされた。
ずっと誰かに言って欲しかった言葉。
それを今目の前にいるフィニアスがくれたことが信じられない。
「ありがとうございます。」
涙を堪えて、そう返すので精一杯だった。
どうしようもなく嬉しいけれど、それをそのまま言葉にしたら更に欲が出てしまいそうで怖かった。フィニアスの負担にはなりたくない。
気持ちを閉じ込めるように、胸の前でぎゅっと手を握りしめる。これまでに感じたことのない多幸感を抱きしめた。
「これは提案なんだが、ケルフェン伯爵家から籍を抜かないか?もちろん、妹も一緒に。受け入れ先はもう決めてある。」
フィニアスが隅に控えていたロナウドに視線を向けると、彼は安心させるように淡く微笑んで頷いた。
「それは…」
思いがけない提案に、エリーナの中で動揺が広がる。
普通なら劣悪な環境から脱却するため喜んで受け入れる提案なのだろうが、メロウナの毒に晒され続けたエリーナは正常な判断が出来ずにいた。
「あの家に戻りたいか?」
「………分かりませんわ。」
正直な胸の内だった。
育ってきた家を見捨てることなど簡単に出来るものではない。エリーナの性格ではそれがより顕著であった。何より、模範的な淑女であれと育てられてきた彼女に、家出同然で出てきてそのまま縁を切るなど突飛なことをする勇気はない。
「エリーナと俺が正式に結婚した後、君の妹はどうなる?あの家に戻すのか?それともあの母親が見つけた相手の元に輿入れさせるのか?」
フィニアスの率直な物言いに、エリーナが言葉に詰まる。あの家との繋がりを残しておくのは、間違いなくマリエッタのためにはならない。
「妹は君の代わりをさせられるのではないか?」
「…………それは嫌ですわ。」
エリーナの中に、初めて強い嫌悪が生まれた。
マリエッタが自分と同じ仕打ちを受けるなど、絶対に耐えられない。もしそんなことになれば、自分自身も許せそうにない。
意地悪い言い方をしてしまいフィニアスの心がざわつくが、エリーナの心を解放するためには必要なことだ。嫌われる覚悟で畳み掛ける。
「それなら今決断した方がいいだろう。格上の相手と結婚するために養子入りするなど、貴族には良くあることだ。妹の方は、行儀見習いとしてしばらくこの邸にいればいい。」
「私も孫娘を迎えること楽しみにしておりますぞ。」
ちゃっかり後ろから加勢してくるロナウド。エリーナに向ける眼差しが優しく、目尻の皺が深くなる。
「本当にそこまでご厄介になって良いのでしょうか?ただでさえ、格差婚でご迷惑をお掛けしますのに…私に返せるものなど何もありませんわ。」
マリエッタのため実家と決別する決心はついたものの、今度はフィニアスの手を借りる勇気がない。自己肯定感の低い彼女は、どうしても自分にその価値があると思えないのだ。
「好きな物を教えて欲しい。」
「え?」
唐突なお願いに、脈絡がなく戸惑うエリーナ。エメラルドグリーンの瞳が揺れる。
「いつの日か、好きなものに囲まれて心の底から笑う君を見たい。それがエリーナのためになりたい理由だ。」
事務的な口調なのに、エリーナを映す金色の瞳が優しく煌めいている。その言葉に偽りは感じられず、本心のように聞こえた。
「だからエリーナは何も気にしなくて良い。すべて俺のためにやっていることだからな。」
「でもっ…私、自分の好きなものなど一つも分からなくて…だからっ…」
急に言葉が拙くなるエリーナ。変に焦ってしまい上手く言葉が出てこない。
フィニアスの言葉はどこまでも真っ直ぐで、恥ずかしさと嬉しさが同時に込み上げる。感じたことのない未知の感情に心は悲鳴を上げていた。
「分からないのなら、一緒に見つけていけばいい。その過程も楽しみたい。」
真顔のフィニアスが当たり前のように言う。
自分の言葉がとれだけエリーナの心を揺さぶっているか気付きもしていない。
頬を赤らめたエリーナは俯き、こくこくと頷くことしか出来なかったのだった。




