プロローグ
砂が鳴いた。
夜は浅い。星は冷たい。風は川面をなで、匂いだけを残していく。ここは玻瑠海峡。砂王国の砂海と、高原連邦の断崖を分ける大河だ。
年に一度、魔が弱まる聖日が来る。贖宵。その前夜は、どこの陣でも静かにならない。
川の音は遠い太鼓みたいだ。岸では杭を打つ音がまじる。布で包んだ金具の小さな触れ合いも、よく聞けば分かる。
敵の岸には灯が一つ二つ。見張り塔の緑の紋が、眠そうに点いたり消えたりする。対空の塔だ。あれが目を大きく開けば、空は低く飛べなくなる。地上の人は、頭を下げて走るしかない。
砂色の外套の少女が旗を抱えている。名は、ライラ。
彼女は兵の列を見て、呼吸をそろえるのが上手い。長い演説はしない。十数える間に言葉を置き、うなずいて、前に立つだけだ。人の心は、旗の布の動きと一緒に上を向く。
けれど彼女は知っている。旗は上げっぱなしでは燃える。上げる場所と、下ろす時刻がいる。
別の影が、足もとに棒で線を引く。細い線だ。砂の粒がその線に沿ってころがる。名は、シュン。
彼は兵ではない。刃は苦手だ。だが段取りを描く。水の角度。時間。踏み石の場所。退く時の道。
「ここは、ほどける」
川べりの砂堤を指して、彼はそう言った。砂は砂だ。水をあて続ければ、ほどける。崩れる。橋は、そこから始まる。勝ちとは、橋の向こうに止まる場所を残すことだ、と彼は信じている。
断崖の上では、別の男が望遠鏡を拭いている。セイランという。
彼は恐れを隠さない。「恐れは前に置け」と兵に言う。言葉にしておけば、噛まれない。谷は狭い。岩は硬い。少数でも相手を遅らせられる。追わないことが勝ちにつながる日もある。
砂も風も、誰にでも平等ではない。地形は人格を持つ。セイランは、それを兵に配るだけだ。
城の灯の下、宰相ナジュムが紙を見つめている。インクの匂い。短い文。約束の言葉。
戦は剣だけで動かない。痛みの配分で動く。誰が、いつ、どのくらい痛むのか。紙の上で割る。割った痛みを、人が飲める形にする。それが彼の役目だ。
遠い海の街からは、別の紙が来る。船の路の遅れ。琥珀の値札。灯が早く消えたという報。世界は海峡を見ていないふりをしながら、海峡で息をしている。
僧兵長アズラは、塔の紋を見上げる。祈りは短い。
「守るために、壊す。長くは使わない」
彼は線を持っている。やってはいけない線。越えたくない線。戦は線をかすめる。線を踏む足は、自分のものか、誰かのものか。祈りは短く、手は速く。彼の信仰は、現場のために削がれていくのではなく、現場のために研がれていく。
海の上では、別の戦が始まる気配がある。夜の海は黒い。星だけが道しるべだ。
海の魔矢という新しい矢が生まれた。船から船へ、目で追って曲がる。囮の灯、妨げの幕、同時の号令。海の道も細い。一本切れれば、遠くの工房で煙が止まる。
「戦は遠いのに、夕飯は近い」と海都の母親は言う。配給の列に並びながら。灯油の壺は高くなり、誰かの仕事が軽くなる。軽くなることは、やさしいと同じ意味ではない。
海峡の両岸では、似た形の井戸がある。段を降りていく階段井戸。
昼は涼しい話の場所。夜は時々、声がこだまする。音は上へ、すぐ広がる。
街は狭い道と高い壁でできている。そこでは、勇気よりも慎重が役に立つ。勝つことより、残すことが役に立つ。誰が残るのか。何を残すのか。言葉は短く、重くなる。
城の奥には、重い箱がある。灰都化呪の鍵箱だ。
開けないために、鍵が三つある。王の鍵。僧の鍵。民の鍵。箱は厚く、鈍い光を持つ。普段は地下の暗さの中にあるが、ときどき人の前に出る。見せるために。
塔の高みにかけられた札は紅灯段。数字は五から始まって、一で終わる。札は両面だ。裏返す手は、いつも震えてはいない。だからこそ、怖い。
札が動くと、世界は少し冷える。誰かが息を止める。誰かが息を吐く。紙の音は小さい。けれど砲百門より重く響く時がある。
砂は覚えている。最初の旗の色。最初の橋の手ざわり。最初の退き道の曲がり角。
海は覚えている。捨てられた箱の音。救いの縄の重さ。遅れて届く重低音。
石は覚えている。誰がここを通り、誰がここで止まったか。名前は薄れ、足跡だけが残る。だから国は碑を立てる。記憶碑。名を刻む石。雨に濡れても、読み上げる声が戻るなら、名はもう一度、息をする。
物語は、ここから始まる。
砂王国ザハールは、海峡の東岸を取り戻したい。高原連邦オルドは、台地を守りたい。峡谷王国サリアは、断崖の北翼をもう一度自分の地図に塗りたい。
遠い白日帝国は、友を負けさせたくない。玄月共同体は、影を伸ばしたい。海都連盟は、灯を消したくない。
みんなが「少しだけ」を望む。けれど、その少しは、ときに世界を傾ける。
ライラは旗を巻き、深く息を吸う。
「私が前に立つ。けれど、止まる場所は持っていく」
短い声は、列の中を走る。兵は足の裏で砂を感じ、膝で風を感じ、頬で夜を感じる。
シュンは棒で線を引き、指で砂をつまむ。
「行く。けど、戻る道を先に作る」
図面はきれいではない。砂の上だ。けれど、道はある。道があれば、恐れは小さくなる。
セイランは望遠鏡を置き、部下に札を配る。三行だけの札だ。
退く時刻。合図。誰を残すか。
言葉は短い。だが手に取ると、心は軽くなる。恐れは、口に出した時、半分になる。
ナジュムは机上の紙に印を置く。印章は赤い。丸い。
「取引の核は、痛みの分け方だ」
彼はそれを繰り返す。自分に言い聞かせるように。相手に聞かせるように。
遠い港では、クレーンがゆっくりと動きを止める。灯は早く消える。配給の札の色が変わる。街の呼吸は浅くなる。
それでも、紙の上で道を開けることができるなら、灯はもう一度強くなる。彼はそう信じたい。
アズラは塔の足元に片膝をつき、紋の脈をなぞる。
目を潰す矢がある。空裂矢。使いどころをまちがえれば、線を越える。
「禁域は守る。町の上は打たない。祈りは短く、手は速く」
彼は若い僧兵にそれだけを言い、うなずいた。若者は目を見開く。自分が守るのは石ではない。人だ。祈りは、守るためにある。
海峡の風は変わりやすい。上流の雪が早ければ、川は膨らみ、橋の板はきしむ。
下流の潮が強ければ、潮目がずれて、舟の腹が岩に触る。
風は予告をしない。太鼓は合図をくれる。紙は始まりを決める。けれど、自然は、いつも少しだけ、聞いていないふりをする。
ある夜、星がひとつ落ちた。
見張り台の兵は、「砕けた」と言った。工兵は「跳ねた」と言った。僧兵は「兆し」と言った。
言葉はちがう。けれど、誰もが、同じ方向を見ていた。川の向こう。橋の先。旗のこれから。
砂は乾いていた。良い兆しだ。足跡が残る。足跡は道になる。道は線になる。線は、越えるか、守るかを決めさせる。
夜の底で、短い笛が鳴った。
ひと息分。風に紛れる長さ。近くの者だけが分かる音。
誰かがうなずき、誰かが手を上げ、誰かが息を止めた。
太鼓が、ゆっくり三つ。
海峡は黒い。けれど、川の底には、古い石の道が眠っている。人はそれを知らないまま、同じ場所に橋をかける。
だから物語は、似ているのに、いつも少しちがう。
これは戦の話だ。だが、剣のきらめきより、段取りの白い粉が光る。
これは国の話だ。だが、国旗の色より、配給札の色が人の心を動かす。
これは禁呪の話だ。だが、札が裏返る音より、鍵が卓に置かれる音の方が冷たい。
これは希望の話だ。橋の上に市が立つ日を、先に図面に描いてしまう人たちの話だ。
砂は鳴く。星は冷たい。風は川面をなでる。
旗は巻かれ、棒は砂に触れ、望遠鏡は静かに閉じられる。紙は折られ、印はふかく押される。祈りは短く、手は速く。
贖宵は近い。
太鼓はもう、練習ではない。
玻瑠海峡は、今日も大河だ。けれど、誰かが渡る気配を、砂は知っている。
そして砂は、誰が戻るのかも知りたがっている。
——旗は、前にも、退きにも立つ。
物語は、ここから始まる。