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【BL】ハルキゲニアのふたり  作者: 平手武蔵
春夏『秋』冬
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Ep.5 side 春樹

 夏休みが終わり、二学期が始まっても、教室に満ちる熱気はなかなか引かなかった。窓の外では、まだ蝉が最後の力を振り絞るように鳴いているけれど、朝晩の空気は少しずつひんやりとしてきて、空の色も高く澄んできた気がする。季節は、確実に秋へと移り変わろうとしていた。

 それなのに、僕の心はどんよりとした曇り空のままだった。原因は、夏休み明け早々に起きた出来事――


「私と……付き合ってください!」


 隣の席の佐々木さんに、呼び出されて告白された。真っ直ぐな好意を向けられて、戸惑った。嬉しくないわけじゃなかったけど、僕には応えられない理由があった。うまく言葉にできなくて、曖昧な返事しかできなかった。それが、かえって彼女を傷つけてしまったみたいだった。泣きそうな顔で走り去っていく彼女の後ろ姿を見て、僕の胸もズキリと痛んだ。

 それ以来、佐々木さんとは気まずい空気が流れていたし、僕自身も、誰かを傷つけてしまったという罪悪感と、自分のどうしようもなさに対する自己嫌悪で、すっかり塞ぎ込んでしまっていた。授業にもあまり集中できず、ぼんやりと窓の外を眺めていることが増えた。


 そんな僕の様子を見かねたのかな。ある日、生物学の授業が終わった後、生物の先生――白木先生が僕を手招きした。


「春樹くん、ちょっといいかい。準備室まで来てくれるかな」


 低い、落ち着いた声。どことなく玄弥さんを思い起こさせる声色に、少しドキッとする。一体何の用だろう。最近の僕の態度について、注意でもされるのかもしれない。少し憂鬱な気持ちで、白木先生の後について生物準備室へ向かった。

 古い薬品の匂いが微かに漂う準備室。先生は僕を中に入れると、静かにドアを閉め、カチャリ、と鍵をかけた。


 その音を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。


 中学時代の体育教官室。冷たい目。頬の痛み。あの時の恐怖と屈辱が、一気にフラッシュバックする。どっと汗が噴き出す。体がこわばり、呼吸が浅くなるのがわかった。どうしよう、また、何かされるんじゃ……。


「あ……あの、先生……」


 声が震えていた。白木先生は、少し驚いた顔をした後、ふっと柔らかく笑った。


「ああ、ごめんごめん。他の生徒が入ってくると話しにくいかと思ってね。心配しないで。君をどうこうしようってわけじゃないさ」


 その優しい口調と、心配そうな眼差しに、強張っていた体の力が少し抜ける。


「実はね、春樹くん。君が最近、少し元気がないように見えて、気になっていたんだ」


 白木先生は実験台のそばのスツールに腰掛け、僕にも座るように促した。


「……何か、悩みでもあるんじゃないか? もし、私でよければ話を聞くよ」


 まっすぐな視線。どうして、この先生は僕のことをこんなに気にかけてくれるんだろう。戸惑いながらも、僕はぽつりぽつりと、佐々木さんのことを話した。告白されたこと、うまく断れなかったこと、彼女を傷つけてしまったこと、そして、そのことで自分も落ち込んでいること。

 白木先生は黙って、時々相槌を打ちながら、僕の話を聞いてくれた。話し終えると、ふう、と小さく息をついた。


「そうか……。それは、君も辛かっただろうな。でも、相手の気持ちに応えられない時、どうしたって傷つけてしまうことはある。大切なのは、そのことから逃げずに、誠実に向き合おうとすることじゃないかな」


 優しい言葉が、ささくれた心にじんわりと染みていく。


「……それとね、春樹くん」白木先生は少し言い淀むように続けた。「これは、私の勘違いかもしれないんだが……君が私のことを、時々、特別な目で見ているような気がしていたんだ」


 心臓が跳ねた。もしかして、気づかれてしまったのかな。僕が男の人を好きだってことを。顔がカッと熱くなる。


「いや、変な意味じゃないんだ。ただ……君自身、自分のそういう視線というか、もしかしたら、自分の気持ちのあり方について、悩んでいるんじゃないかと思ってね」


 白木先生の声は、あくまでも穏やかだった。


「実はね、私もこの見た目だろう? 学生時代から、同性に思いを寄せられることが多くてね。まあ、私はストレート……異性愛者なんだが、そういう経験があるから、君みたいな若い子が、そういうことで悩む気持ちも、少しはわかるつもりなんだ」


 白木先生は少し困ったように笑いながら、自分の肩幅の広い体を示すような仕草をした。日に焼けた肌、太い指。その笑顔が、ふと、あのひなまつりの日に僕を見て少し照れたみたいに笑った……あの人の顔と重なって、心臓がドキリとした。


 ああっ、玄弥さん……!


 その瞬間、僕の中で何かが弾けた。ずっと一人で抱え込んできた悩み。誰にも言えなかった苦しみ。それを、この人は理解してくれるかもしれない。わかってくれる人が、ここにいる。

 そう思ったら、涙がぶわっと溢れてきた。歯を食いしばっても、熱いものが止めどなく頬を伝ってくる。声を殺そうとしても、抑えきれない嗚咽が喉から漏れた。

 白木先生は驚いたようだったけど、何も言わずにティッシュを差し出してくれた。受け取って乱暴に目元を拭うけれど、涙は後から後から溢れてくる。

 しゃくりあげる僕の背中を、大きな手が優しく撫でる。その温かさが、まるで玄弥さんの手のようで、僕はさらに涙が止まらなくなった。


 白木先生は何かを決心したように、ふっと息を吐いた。そして、ためらうように、けれど確かな力で、僕の肩をそっと引き寄せた。

 僕は驚いて顔を上げそうになる。けれど、それよりも早く、先生の腕が僕の背中に回り、大きな胸の中に、ふわりと抱きとめられた。


「……大丈夫だ。もう、大丈夫だから」


 白衣と、その下に着ているシャツの生地の感触。厚くて、硬い筋肉と、それを覆う柔らかな肉の感触。残暑のせいか、先生の体温と、汗の匂いが混じった、男の人の匂いが強く香った。でも、それは全然嫌じゃなかった。むしろ、不思議なくらい安心できた。

 僕が落ち着くまで、白木先生は何も言わず、ただ、ぽん、ぽん、と大きな手で僕の頭を優しく叩いてくれていた。そのリズムが心地よくて、僕はしばらくの間、その温もりに身を委ねていた。


 ◇


 それから、僕は時々、生物の授業が終わった後に準備室を訪ねるようになった。白木先生はいつも快く迎えてくれて、僕のくだらない悩みや、中学時代のトラウマについて、根気強く耳を傾けてくれた。先生と話していると、少しずつだけど、心が軽くなっていくのを感じた。

 そんなある日の放課後。図書室で本を探していると、偶然、佐々木さんと二人きりになった。夏休み明けの告白の一件以来、ずっと気まずいままだった。いつもなら、すぐにその場を離れてしまうところだけど、今日だけは、逃げちゃいけない気がした。深呼吸を一つして、僕は彼女の方へ歩み寄った。


「……佐々木さん」


 呼びかけると、彼女は少し驚いた顔で僕を見た。


「あのさ……この間のこと、本当にごめん。ちゃんと話も聞かないで、曖昧な態度とって……傷つけたと思う」


 勇気を出して、自分の言葉で謝罪する。声が少し震えたかもしれない。佐々木さんは、僕の言葉に少し目を見開いた後、ふっと表情を和らげた。


「ううん。私の方こそ、急にあんなこと言って、困らせちゃったよね。ごめん」

「……ふふ、お互い様、かな」


 僕も小さく笑うと、二人の間にあった重たい空気が、少しだけ軽くなったような気がした。佐々木さんは、それから少し真面目な顔になった。


「そういえば、春樹くん。最近、白木先生と、よく話してるよね?」

「え? ああ、うん……」

「進路相談とか?」

「いや、まあ……ちょっと、個人的な相談というか……」


 僕が口ごもると、佐々木さんは何かを察したように、少しだけ間を置いてから、悪戯っぽく笑った。


「ふーん? ……もしかしてだけどさ」


 彼女は声を潜めて、僕の顔を覗き込むようにした。


「春樹くん……白木先生のこと、好きだったりする?」

「ち、違うよ! そんなんじゃなくて、ただ、本当に相談に乗ってもらってるだけで……!」


 慌てて否定する僕を見て、佐々木さんは「あはは、ごめんごめん!」と笑った。でも、その目はすぐに真剣な色を帯びた。


「……でもさ、もしそうじゃなくても、春樹くんって、もしかして……男の人が好きなの?」


 ストレートな問いかけ。でも、そこには揶揄するような響きはなかった。むしろ、心配そうに僕の反応をうかがっている。僕は、何も言えずに俯いた。それが、肯定の代わりだと、彼女にはわかったようだった。


「そっか……」


 佐々木さんは、小さく息をついた。少し驚いたような、でも、どこか納得したような表情。


「……うん。教えてくれて、ありがとう。……正直、ちょっとショックだけど」


 彼女は少しだけ視線を落としてから、顔を上げて、はにかむように笑った。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、澄んだ秋空みたいに清々しかった。


「でも、これで、私も変に期待しなくて済むかな。ちゃんと、諦めがつくよ。……だからさ、これからは友達として、よろしくね!」


 そう言って、少し照れたように右手を差し出す。僕は戸惑いながらも、その手をそっと握り返した。心のつかえが取れたような、なんだか不思議な心地がした。


「……それでさ。他に、本当に好きな人とか、いるの?」


 友達になった途端の遠慮のない質問に苦笑しつつも、僕はつい、口を滑らせてしまった。


「……いる、けど……もう、なかなか会えない人」

「えーっ、誰それ! ちょっと気になる!」

「いや、それは……昔、近所に住んでた、年上の人で……」


 僕は、玄弥さんのことを、ぽつりぽつりと話した。ラグビーをやっていたこと、優しかったこと、そして、今はもう遠い存在になってしまったこと。


「へえー! ラグビー選手! それも日本代表なんだ! ……もしかして、連絡先とか、まだ知ってたりする?」


 佐々木さんが探るように聞いてくる。僕は小さく頷いた。


「……うん、まあ……一応」

「えー! すごいじゃん! ……ねえ、連絡してみたら? 久しぶりの連絡で、びっくりするかもだけど、嬉しいと思うよ!」

「いや、でも、もう何年も連絡してないし、それに、向こうは日本代表とかで忙しいだろうし……迷惑かも……」


 僕がいつものように躊躇していると、佐々木さんは「もう、春樹くんは心配性なんだから!」と呆れた顔をした。


「大丈夫だって! ダメ元でかけてみようよ。ね?」


 彼女は僕の手からスマホを半ば強引に受け取ると、連絡帳を開くように促した。僕がためらいながら、玄弥さんの連絡先を表示させると、彼女は「よしっ」と頷き、


「じゃあ、かけるよ? いい?」


 と一応確認してから、発信ボタンを押した。そして、「ほら!」と僕にスマホを押し付ける。


 トゥルルル……トゥルルル……。


 コール音が、やけに大きく心臓に響く。覚悟を決めて、何を話そうか、必死で頭の中で言葉を探す。期待と不安で、胸が張り裂けそうだった。

 しかし、コール音はただ虚しく響き続けるだけだった。やがて、呼び出し音が途切れ、留守番電話サービスに接続されたことを告げる無機質な音声が流れた。


「……あー、出なかったかあ」


 佐々木さんは、本当に残念そうに肩を落とした。


「でも、日本代表ってきっとすごく忙しいんだよ。練習中だったのかも。また、かかってくるかもよ?」


 彼女は努めて明るい声で言ったが、その表情には僕を気遣う色が浮かんでいた。


 その日は、それで終わった。佐々木さんの前向きな言葉とは裏腹に、僕の心は重かった。もしかしたら、もう僕のことなんて忘れてしまったのかもしれない。知らない番号からの電話には出ないのかもしれない。


 ……やっぱり、迷惑だったのかもしれない。


 そんな考えばかりが頭をぐるぐる巡る。


 一日、二日、三日……。スマホを握りしめ、着信を知らせるバイブレーションを待ち続けた。けれど、玄弥さんから折り返しの電話がかかってくることは、なかった。

 秋の空は高く澄んでいるのに、僕の心には、また分厚い雲が垂れ込めていくのを感じていた。

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