Ep.3 side 春樹
じりじりと肌を焼くような日差しが窓から差し込み、むわっとした熱気が教室にこもっている。夏休みまであと少し。そのせいか、周りはなんとなく浮ついた空気だけど、僕はといえば、クーラーの頼りない風と寝不足気味の頭で、少しぼんやりしていた。生物学の先生の声が、遠くで響いている。今日のテーマは、カンブリア紀のヘンな生き物たち、だったっけ。
「……さて、このハルキゲニアですが、発見当初はその上下すら不明で、まさに幻覚のような姿からその名が付けられました。ラテン語の『hallucinatio』と……」
先生がレーザーポインターでスクリーンを指す。そこに映し出されているのは、細長くてトゲトゲした、奇妙な生物の復元図。
ハルキ、ゲニア。僕の名前――そして、彼の名前の一部。
ドクン、と心臓が大きく鳴った。さっきまでの眠気が嘘みたいに吹き飛んで、意識が急にクリアになる。周りのざわめきも、窓の外でうるさく鳴く蝉の声も、全部遠ざかっていく。代わりに、脳裏に蘇ってきたのは、あのぽかぽか陽気のひなまつりの日。和室で太い首を少し傾げ、分厚い肩を丸めながら、小さな雛人形と格闘していた玄弥さんの姿だ。
結局、二回目のひなまつりは来なかった。
父さんの転勤で、僕の家族はあっけなくあの街を離れた。小学生の時の話だから、もう何年も昔のことだ。最後に玄弥さんに挨拶に行った時、泣きそうになるのを堪えるのに必死だった。「元気でな、春樹。また連絡しろよ」って、玄弥さんはいつもみたいに笑って、僕の頭を大きな手でくしゃくしゃ撫でてくれた。あの手の感触、まだ覚えてる。
今じゃ、玄弥さんはすっかり遠い世界の人だ。大学を卒業後、社会人ラグビー部で活躍して、ついに桜のジャージ――日本代表に選ばれたらしい。たまにスポーツニュースでも見かける。テレビで見た玄弥さんは、前よりもっと大きくて、たくましくて……僕の知ってる近所の優しいお兄さんではない。違う世界にいるスター選手って感じだ。きっと、もう会うことなんてないんだろうな。そう思うと、胸の奥が少しだけ痛む。
あのひなまつりの日から、僕の中で何かが変わってしまったんだろう。頬に触れた、チクッとした無精髭の感触。支えてくれた太い腕。こっちを見て少し照れたみたいに笑う顔。全部、忘れられない。
そして気づけば、無意識に、玄弥さんみたいな、ちょっと太っていてガッシリした体型の人を目で追うようになっていた。
中学の時の体育教師が、少しだけ玄弥さんに似ていた。短く刈った髪とか、分厚い胸板とか。きっと、無意識に目で追っていたんだと思う。ある日の授業後のことだった。
「おい、春樹。前から言おうと思ってたんだ。何、人のことジロジロ見てんだよ」
体育教師から、誰もいない体育教官室に呼び出された。どうして、なんて説明できるわけもなく、僕が黙っていると、突然「なんだその目は!」って、理由にもならない理由で、思い切り頬を張られた。
パァンッ!
乾いた音がやけに響いた。痛みより、驚きと恐怖で体が固まった。体育教師の目が、汚いものを見るみたいに冷たかったのを覚えてる。「気持ち悪い」――言葉にはされなかったけど、その目がそう言っていた気がした。
それ以来、僕は必死でその癖を隠すようになった。誰かを見てしまいそうになったら、すぐに視線を逸らす。あんな思いはもうしたくないし、誰かに「気持ち悪い」って思われるのが怖かった。
それから中学を卒業して、この高校に入った。新しい環境になって、少しはマシになったかな。幸い、ここにはあんな暴力教師はいない。だからなのか、最近また、玄弥さんのことを考える時間が増えた気がする。無理やり押さえつけてた気持ちが、少しずつ顔を出そうとしてるのかもしれない。
ふと、教壇に立つ生物学の先生に視線を戻す。白衣を着ていても、肩幅が広くてがっしりしているのがわかる。短く整えられた髪には、光の加減か少し白いものが混じっているように見える。日に焼けたのか、少し浅黒い肌。チョークを持つ指は太くて、ごつごつしている。歳は……四十代と言っていたな。落ち着いた低い声。
玄弥さんも、あと十年、いや十五年くらい歳をとったら、こんな感じになるのかな……。いや、でも、玄弥さんはもっと……なんていうか、笑った時の目が優しい感じが、この先生とは違うかな。……いやいや、僕は一体、何を考えてるんだか。
「――はい、今日の授業はここまで。次回は小テストやりますから、しっかり復習しておくように」
チャイムが鳴り、先生が告げる。周りが一斉にざわつき始め、教科書やノートを片付ける音が響く。僕もぼんやりとノートを閉じかけた、その時。
「ねえ、春樹くん」
隣の席の女子、佐々木さんが、遠慮がちに声をかけてきた。僕の顔を見て、少し頬を赤らめているように見える。
「今日の生物、ちょっと難しくなかった? よかったら、後でノート見せてもらってもいいかな?」
「あ、うん。別にいいけど」
僕は短く答えた。佐々木さんは「ありがとう!」と嬉しそうに笑って、友達のほうへ駆けていく。こういう風に声をかけられることは、中学の頃より増えた。自分ではよくわからないけど、背が伸びて、少しは見た目がマシになったのかもしれない。
でも、こういうやり取りは、正直苦手だ。中学の頃のこともあって、人と……特に自分のことを気にかけてくれる女子とどう接したらいいのか、まだよくわからない。周りからは、僕が「物静か」とか「クール」とか見られているらしいけど、本当はただ不器用なだけだ。
教室に残っている生徒もまばらになって、僕は窓際の自分の席で、頬杖をついた。窓の外は、ギラギラした真夏の太陽が照りつけていて、遠くで入道雲がもくもくと形を変えている。どこまでも青い空。
玄弥さん、今、何してるんだろう。
スクラムとかの厳しい練習かな。それとも、チームメイトと笑い合ってるのかな。結婚はしていないみたいだけど、彼女とかいるよね。
もう会うことはない、遠い世界の人。
それでも、あの日の記憶と、この胸の奥で静かに疼く気持ちは、夏の暑さみたいに、ずっと僕の中に残り続けている。