ハルキゲニアのふたり
忘れられない人がいる。
物静かで、綺麗な顔立ちの男の子。春樹くん。
彼は、いつも少し寂しそうな顔をしていた。だから、彼が恋をしていることに気づいた時、私はどうしても、彼の背中を押してあげたくなったのだ。
春樹くんの心にあったのは、ラグビー選手の、年の離れた、大きな男の人。
私の強引な後押しで、彼は勇気を出して、その人に会いに行った。そして、恋を実らせた。
卒業式の後、彼はわざわざ私のところへ来て、「ありがとう」と、はにかみながら言ってくれた。その時の、迷いの消えた晴れやかな笑顔を、私はきっと忘れないだろう。
彼が幸せになれたのなら、それでいい。私のお節介が、ほんの少しでも彼の未来を照らしたのなら、こんなに嬉しいことはない。
そんな感傷に浸っていた、先週末のことだ。
休日、私は近所の大きな公園を散歩していた。桜並木の下、たくさんの人々が花見を楽しんでいる。その喧騒から少し離れた、小高い丘の上。一本の大きな桜の木の下に、見覚えのある二人の人影を見つけた。
春樹くんと、あの大きなラグビー選手の人。
春樹くんが、桜の花びらが舞い落ちるのを見上げて、嬉しそうに何かを話している。その隣で、大きな男の人が、愛おしそうに、そして少しだけ照れくさそうに、その横顔を見つめている。春樹くんが、男の人の肩にそっと頭をもたれかかると、男の人は、大きな手のひらで、その色素の薄い髪を、優しく、優しく撫でた。
穏やかで、満ち足りた、完璧な時間。
誰にも邪魔することのできない、二人の世界。
私は、遠くからその光景を眺めながら、静かに踵を返した。
それでいい。それが、彼にとっての幸せなのだから。
カンブリア紀の奇妙な生き物、ハルキゲニア。
発見当初は、どちらが上で、どちらが下か、背中と腹さえも分からなかったという。トゲの足で歩くのか、それとも背中のトゲで身を守っていたのか。長い間、研究者たちを悩ませ続けた。
だが、研究が進み、やがて、その奇妙な生き物の、本当の姿が明らかになった。さらには体の前後すら、これまでの認識が間違っていたという。
人も、きっと同じなのだろう。
何が正しくて、何が間違っているのか。どちらが上で、どちらが下かなんて、誰にも決められない。長い時間をかけて、迷い、悩み、そして、自分たちだけの「本当の姿」を見つけ出していく。
彼ら――ハルキゲニアのふたりは、きっと、その答えを見つけたのだ。
私には、できなかったことだ。自分の本当の気持ちに蓋をし、誰かを心から愛することからも逃げ、ただ平穏な毎日を装って生きている。でも、彼らは違う。彼らは、これから、二人で支え合い、堂々と生きていくのだろう。
「――何をぼーっとしてるんですか。次の授業の準備、手伝いますよ」
聞き慣れた声に、はっと我に返る。
「ああ、すまない、少し考え事をしていた」
「もう、しっかりしてくださいよ、白木先生」
隣に立った同僚の男性教員が、呆れたように笑った。最近、少し気になっている彼に――私は愛想よく話しながら、生物の授業で使うプレパラートを手に取った。
あの日、準備室で私は春樹くんに嘘をついた。私が『ストレートだ』と。そうでも言わなければ、繊細な彼が、私に心を許してくれることはないと思ったからだ。
今まで私は、ずっと仮面をつけて生きてきた。だから、こんなことには慣れている。慣れているはずなのに。
春の風が、窓を叩く。窓の外、数えきれないほどの桜の花びらが、祝福のように舞い上がっていた。
ハルキゲニアのふたり。
これからの未来に、幸あらんことを。
心の中で、そっと、そう願った。
(了)




