Ep.1 side 春樹
ぽかぽか陽気のひなまつりの日。ぼくは、近所の大学生のお兄さん、玄弥さんの家に向かっていた。ほんとうは、お母さんが作った桜餅がたくさん入った、ずっしり重いお重箱を持っていくはずだったんだ。
でも、玄弥さんに会えると思ったら、なんだか胸がドキドキして、そわそわして、玄関を出る時にうっかり足元の段差につまずいちゃって。
お重箱はひっくり返さなかったけど、危うく桜餅をぶちまけそうになった。それを見たお母さんが、「もう、春樹は落ち着きがないんだから! これは後で私が届けるわ。先に行ってらっしゃい」って。
だから、ぼくは手ぶらで玄弥さんの家に行くことになった。ちょっと恥ずかしかったけど、早く玄弥さんに会いたかったから、すぐに駆け出した。
「ごめんくださーい!」
元気よく声をかけると、中から「おー、春樹か? 鍵は開いてるから勝手に入って来い! 今手が離せない!」って、玄弥さんの声が聞こえた。
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
そっとドアを開けてお邪魔すると、和室の真ん中で、大きな大きな玄弥さんが、小さな小さなお雛様と格闘していた。
玄弥さんは、名門大学のラグビー部のすごい選手。スクラムっていう、みんなでぎゅうぎゅう押し合う時に、一番前で頑張るポジションだって、前に教えてくれた。
だから、山みたいに体が大きくて、筋肉もむきむきしてる。でも、お腹のあたりはちょっと……うん、柔らかそうだなって思う。今日みたいに普通のTシャツを着ていると、まん丸なのがよくわかって、なんだか葉っぱにくるまった桜餅みたいだ。
そんな玄弥さんが、指先ほどの大きさしかない三人官女の小道具を、太い指でつまんで、そーっと飾っている姿は、なんだかとても不思議で、ぼくは思わずくすくす笑ってしまった。
「なんだよ、笑うなよ。これ、姪っ子のためにやってんだ。細かい作業は苦手なんだよ」
玄弥さんは、ちょっと顔を赤くして、いがぐり頭をガリガリとかいた。その顔がまた、なんだか可愛くて、ぼくはますます笑顔になった。
「わあ、すごい! 七段飾り、本物で見るの初めてです!」
金色に輝く屏風の前に、きらびやかな衣装をまとったお人形たちがずらりと並んでいる。まるでおとぎ話の世界に迷い込んだみたいだ。ぼくは夢中になって、一番上のお内裏様とお雛様に近づいた。
立派な黒い烏帽子をかぶったお内裏様と、十二単を着た綺麗なお雛様。二人並んで座っている姿を見て、ぼくはふと思った。なんだか、おっきな玄弥さんと、その隣にいる、ちっちゃなぼくみたいだなって。
「わっ!」
お人形に見とれていたぼくは、畳のへりに足を取られて、ぐらり、と体が傾いてしまった。
「おっと、危ない!」
倒れそうになったぼくの体を、玄弥さんの太くて力強い腕が、ぐっと支えてくれた。大きな手のひらが、ぼくの肩をしっかりと掴む。びっくりして顔を上げると、目の前に玄弥さんの顔があった。
チクッ。
その瞬間、ぼくの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。ぼくの左の頬に、何かが触れた。ほんの一瞬だったけど、ザラッとした感触。玄弥さんの顎のあたりだ。
息をのんだぼくを見て、玄弥さんも少し驚いた顔をした。昨日、おひげ、剃らなかったのかな。玄弥さんの大きな手は、まだぼくの肩を掴んだままだ。
「――――」
玄弥さんが何を言ったのか、よく聞き取れなかった。でも、「よせ」って聞こえた気がして、ドキッとした。何についてなんだろう? 玄弥さんに近づきすぎたってことかな? 急に不安になって、顔がカッと熱くなるのがわかった。
「あ、あの、すみません……倒れそうに……」
ぼくがもごもごと言うと、玄弥さんは慌てたみたいにパッと手を離した。
「……いや、こっちこそ、いきなり掴んで悪かった。怪我はないか?」
なんだか、すごく気まずい空気が流れる。
「だ、大丈夫です!」
さっきのチクッとした感触が、まだ頬に残っている気がして、ぼくは自分の頬にそっと手を当てた。玄弥さんは、少し照れたように頭をかく。
「そうだ、春樹。ちょっと手伝ってくれないか? この五人囃子の太鼓、どこに置くんだったかな……」
「は、はい!」
ぼくは嬉しくなって、玄弥さんの隣にちょこんと座った。二人で説明書を見ながら、小さな楽器を持ったお人形たちを並べていく。玄弥さんの大きな指が、ぼくの指に時々触れそうになって、そのたびにドキッとした。玄弥さんは、ぼくが隣にいることを、どう思っているんだろう。
「よし、できた!」
全部飾り終えて、玄弥さんが満足そうに言った。七段飾りが完成して、和室がぱっと華やかになった。一番上で、寄り添うように座っているお内裏様とお雛様。
玄弥さんが、最後に二人をそっと並べた時、その手がすごく優しくて、なんだかぼくは、自分がお雛様になったような、不思議な気持ちになった。
もし、玄弥さんが、ぼくのことを、あんな風に大切に、そっと触れてくれたら……。そんなこと、考えちゃだめだってわかってるのに、胸の奥がきゅーって締め付けられる。
ちょうどその時、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「あ、お母さんかな。桜餅、持ってきたんだと思う」
玄弥さんが立ち上がって玄関に向かう。
ぼくは一人、完成したひな壇を見上げていた。柔らかな灯りに照らされたお人形たち。そして、さっきまでの玄弥さんの温かい手の感触と、頬に残るチクッとした秘密の感触。
戻ってきた玄弥さんは、お母さんから受け取ったお重箱を手にしていた。
「ほら、春樹。約束通り、桜餅。一緒に食おうぜ」
玄弥さんは、やっぱり笑うと目が優しくなる。玄弥さんの隣に座って、桜餅をいただく。甘いあんこと、桜の葉のしょっぱい香りが、口の中に広がる。さっきよりも、ドキドキは少しだけ落ち着いていたけど、玄弥さんの体温がすぐ隣にあるのを感じると、やっぱり胸が温かくなる。
ひなまつりの特別な日。玄弥さんの家の和室で、二人きりで過ごした時間。頬に触れた、ほんの少しのチクッとした感触は、ぼくだけのもの――ほかの誰にも渡したくない。この気持ちに名前はまだないけれど、春の匂いと一緒に、ぼくの中で、ゆっくりと、でも確かに、膨らんでいくような気がした。
来年のひなまつりも、また玄弥さんと一緒に過ごせたらいいな。そんなことを、そっと願った。