2.転落
葬儀が終わるまでとても目まぐるしかった。
だが、忙しいと何も考えないで済んだ。
やるべきことがすべて終わり弔問客が帰っていくと、どっと現実が押し寄せてくる。
家族が死んだ。父も、母も、兄も。――いや、殺されたのだ。メリーティアだけが無事だったことから、あのワインに毒が入っていたのだろうと推測できる。ワインは中身を残したまま保存してあった。今のところ怪しいのはアイボリー家だ。徹底的に真実を調べ上げなければならない。
だというのに、気力がわかない。
メリーティアは喪服のまま、聖堂でただ祈りを捧げていた。
「神様……神様、なぜ家族は殺されなければならなかったのでしょうか」
膝をつき祈るメリーティアの前には、ヴェドニア帝国の唯一神――ニルスの彫像があった。
今は心の拠り所が神しかない。メリーティアはずっと昔からニルスを信仰していた。
幼い頃に悪夢に悩まされていたとき、藁にも縋る思いで「神様、怖い夢からわたしを助けてください」とニルスに祈ったところ、翌日からぱたりと悪夢を見なくなったのだ。そのときから神を信じ、毎日祈りを捧げている。
神に祈ったところで家族は帰ってこないだろう。それでも祈らずにはいられなかった。
両親と兄の訃報を伝えたのに、グウェンダルは葬儀に参列するどころか手紙すら寄こさない。気づけば、ホールトン邸を飛び出して二週間も経っていた。
どうしてつらいときにそばにいてくれないのだろう。グウェンダルの父が亡くなったときにメリーティアがともに涙を流したように、彼に慰めてほしかった。悲しい気持ちを分かち合ってほしい。
メリーティアはニルスの彫像の足元に額を押しつけた。
「……ッお嬢様!」
ハイゼンべルグ邸の執事が聖堂に飛び込んでくる。
メリーティアが生まれる前から仕えている彼も、深い悲しみに打ちひしがれていた。この二週間のうちにとてもやつれてしまったように思う。しかし今はさらに10歳は老け込んだ顔をしていた。青褪めている執事は手に何かを握っている。新聞だ。メリーティアのそばに膝をつくと、震える手で一面を見せつけてくる。
メリーティアは心ここにあらずといった様子で誌面に目をすべらせ、それからわなわなと唇を震わせた。
どうやら悪いこともまた、立て続けに起こるものらしい。
「わた、わたし……っ、帝都に戻らないと」
「おもてに馬車を用意いたしました! お急ぎくださいっ」
メリーティアは馬車に乗り込むと、急いで走らせた。
新聞には、『ホールトン公爵、第一皇子暗殺未遂で処刑か』と書かれていた。
グウェンダルが葬儀に来なかったのも、手紙の返事をくれなかったのもこれのせいだったのだろう。
「どうして……っ、グウェンダル」
グウェンダルがそんなことをするわけがない。絶対に、絶対に、ありえない。
たしかにグウェンダルは第一皇子ではなく第二皇子を支持している。ホールトン公爵家が支持したほうが次期皇帝になれる、とまで言われるほどの影響力を持っていた。それなのにわざわざ危ない橋を渡るなど考えられない。
第二皇子も、暗殺を指示するような人ではないはずだ。
誰かがグウェンダルを陥れようとしている。
今から向かったところで間に合うかどうかわからない。しかし公爵という地位にある彼を、すぐに処刑することはないだろう。まずは裁判が行われるはずだ。そこでグウェンダルの身の潔白は明らかになる。きっと。だって彼は絶対にやっていない。
誰か――たとえば第一皇子やその支持派閥がグウェンダルを計略にかけようとしているとしても、身の潔白さえ明らかになれば処刑は免れる。
グウェンダルがそんな人ではないと、貴族のほとんどが知っているのだ。皇帝だってグウェンダルの人柄を知っている。それにグウェンダルは帝国を守る騎士団長だ。皇帝とて彼を失うのは惜しいだろう。どんな人物が黒幕であろうと、きっと彼を庇ってくれる。
最悪の場合、メリーティアは自身が皇帝に縋ることも考えていた。未だに皇帝からは恋文が届く。愛するメリーティアのためならば、願いを聞いてくれる可能性が高い。
「あぁどうか。どうか。神様、わたしの夫をお守りください」
メリーティアはひたすら祈りながら、休む間もなく馬車を走らせた。
◇◇◇
メリーティアは走った。
馬車が通り抜けられないほどの人だかりを掻き分けて、広場の中心へ急ぐ。メリーティアの目線の先には、ギロチンの刃が見えていた。
「あのホールトン公爵が第一皇子殿下を暗殺しようとしたなんて、本当なのかしら……」
「でも現場からはホールトン公爵の剣が見つかったって。副騎士団長がホールトン公爵の剣だと証言したそうだから、間違いなはずがないだろう」
「被害者の第一皇子殿下が、犯人はホールトン公爵だと証言したらしいぞ」
「あぁお労しい。第一皇子殿下はひどいけがをしていらっしゃるようだ」
野次馬の言葉が耳を右から左へ抜けていく。
必死で進んでいくが、なかなか最前までは辿り着けない。処刑を見物しているだろう皇帝のもとに行かなければならないのに、もどかしくてたまらなかった。
やっとのことで前のほうまでくると、メリーティアは思わず立ち止まる。
処刑台の上には、拷問をされたのかボロボロになったグウェンダルの姿があった。彼は、処刑人たちによってギロチンに固定されるのを粛々と受け入れている。
――どうして諦めたような顔をしているの! どうして抵抗しないの!
裁判がどう進行したのかわからない。けれどこんなに早く死刑が執行されるということは、グウェンダルの言い分などひとつも通らなかったのだろう。
「……グウェンダル……!」
声を張り上げるけれど、群衆のざわめきにかき消されて彼には届かなかった。
グウェンダルは顔を伏せた状態でギロチンに固定されている。太陽の光を反射した刃がぎらりと光った。
メリーティアは視線を彷徨わせ、皇帝の姿を捜す。
処刑台が見える高座で椅子にゆったりと腰かけた皇帝は、人混みの中にいるメリーティアを見つめていた。彼の隣には皇后がいて、グウェンダルの死刑が執行されるのを今か今かと待ち構えている様子だ。そこには第一皇子の姿もあり、三角巾で腕を吊った彼はバツが悪そうに視線を伏せていた。
「陛下! 皇帝陛下……! お願いですっ、どうか……!」
遠くから必死に叫ぶメリーティアの様子を、皇帝はほの暗い笑みを浮かべてただ眺めていた。聞こえているはずなのに、取り合おうとはしてくれない。
直後、わっと群衆が声を上げる。メリーティアがつられて視線を向けると、ギロチンの刃が落ちるところだった。
肉と骨がぶつりと切れる音がして、すぐに重いものが転がる。
「…………ぁ、いや、いやよ……そんな……」
真っ赤な血飛沫が散るさまを目にして、メリーティアの目の前が暗くなった。足から力が抜けてしまい、立っていられずに崩れ落ちる。人に踏まれても、蹴られても、立ち上がることができなかった。
「――あら、そこにうずくまっているのはメリーティアかしら?」
遠のきかけた意識を引き戻したのは、この場に不釣り合いな弾んだ声だった。
「……トリー……」
メリーティアが顔を上げると、その悲惨な姿を目にしたトリーはせせら笑った。
グウェンダルとともにゴシップ誌に報じられた女だ。彼女もグウェンダルのことを愛していたはずなのに、トリーはちっとも悲しんでいる様子はなかった。
「……どうして笑っていられるの」
「どうしてって? 愉快だからよ」
「愉快? あなたもグウェンダルのことを愛していたのではなかったの……?」
メリーティアが据わった目で尋ねると、トリーは鼻で笑い飛ばす。顎をツンと上げた彼女はゴミを見るようなまなざしで、処刑台の上のグウェンダルだったものを一瞥した。
「あたしを好きにならないなら、死ねばいいのよ」
「――――は?」
「あの夜の真実を教えてあげるわ。あたしが彼に媚薬を盛ったの。……でも、あの男は介抱するために休憩室にいっしょに入ったあたしをテラスに追い出した。あんなに朦朧としていたくせに! あんたじゃなきゃ抱かないって言うのよ……! 彼がそのまま気を失ったものだから、あたしは一晩中テラスで過ごす羽目になったわ! あんな屈辱……許せるものですか! ……フン、いい気味よ」
最後の言葉は、グウェンダルとメリーティアのふたりに対して吐いたものに感じられた。
「あんたのそういう顔をずっと見てみたいと思っていたわ」
トリーは扇の先でメリーティアの顎をすくった。
いつも幸せそうに笑っていたメリーティアが、家族とグウェンダルの死により打ちのめされている。これを愉快と言わずしてなんと言うか。
トリーは昔からずっとメリーティアが嫌いだった。
実家は同じ爵位で、同じような事業を手がけているのに、ハイゼンベルグ家のほうが何事も上手くいく。トリーの容姿は華やかさに欠け、いつもメリーティアの引き立て役だった。トリーが好きになる男はみんなメリーティアを好きになってしまう。グウェンダルもそうだ。トリーの夫になった副騎士団長はさえない容姿で、家柄も大したことはない。いいものはなんでもメリーティアが持っていってしまう。
トリーはメリーティアからすべてを奪ってしまいたかった。
それが今やっと叶ったのだ。
だが群衆に揉まれて薄汚れていようと、絶望の涙に濡れていようと、彼女の美しさは損なわれない。トリーは大きく舌打ちした。
もっと絶望すればいい。輝く瞳を曇らせたい。この顔を歪ませるにはどうしたらいいだろうか。
「――ああ、そうだ。『ヴィネコット』はお口に合ったかしら?」
「……まさか」
「ふふっ、アイボリーはあたしの母の生家よ。皇后陛下に頼まれてあたしがハイゼンベルグに贈ったの。びっくりして死んじゃうくらい、とっても美味しかったでしょう?」
「……どうしてわたしの家族を殺したの? わたしのことが嫌いなら、わたしだけを殺せばよかったじゃない……っ」
目を真っ赤にして震える声を出すメリーティアの姿に、トリーはぞくぞくと背筋を震わせた。
「知らないわよ。言ったでしょ、皇后陛下に頼まれたって。あんたたちが第二皇子なんかを支持したのが悪いんじゃない? ほんとバカよね。冷酷無比な皇后陛下が、自分の息子を皇帝にするのに邪魔な存在を生かしておくはずがないじゃない。グウェンダルの剣はね、あたしの夫が盗んだのよ。ぜーんぶ第一皇子と夫の自作自演。あんたらがバカなおかげでうちの一族が皇后陛下に贔屓されて、あたしの夫が次の騎士団長よ。愚かでありがとう」
にっこりと微笑むトリーの顔を両目に映して、メリーティアは何も言葉にならなかった。
ハイゼンベルグ家も、グウェンダルも、皇位争いに巻き込まれて死んだのだ。第二皇子は一体何をしているのか、と姿を捜しても、この場には見当たらなかった。いたとしても、彼は力のない皇子だ。いくら人柄が優れていようと、それだけで皇帝になれるほど甘くはない。
今まではハイゼンベルグ家とホールトン家が彼の強力な後ろ盾だった。だが彼を支持していた家門はこれからどんどん背を向けるだろう。第二皇子を支持すればこうなる、というのを今まさに見せつけられたのだから。
「あんたが帝都にいて皇帝陛下に媚びを売って懇願していれば、グウェンダルは命だけでも助かったかもしれないのにね」
メリーティアが家出をする原因を作ったくせに、トリーは他人事のように笑っている。
「そもそもグウェンダルはあんたと結婚したのが間違っていたのよ。第二皇子を支持していたハイゼンベルグと縁故にならなければ、ホールトン家は中立でいたはずだわ。あんたを妻になんかしなければ、グウェンダルが皇帝陛下に目をつけられることもなかった。自分でもそう思うでしょう? あんたなんかと結婚したから不幸になったんだわ」
「……黙りなさい」
「えー? なんて?」
「黙りなさいって言ってるのよ……!」
トリーに掴みかかろうと腰を上げたとき、近衛騎士たちがメリーティアを取り囲んだ。
「邪魔よ! どきなさい!」
「メリーティア・ホールトン様。皇帝陛下がお待ちです」
「どういう意味よ? どこに連れていくつもり? 離してっ、離しなさい――!」
叫ぶメリーティアを、近衛騎士たちは丁重かつ強引に連行していく。
グウェンダルが第一皇子暗殺未遂で処刑されたいま、妻であるメリーティアにも同様の容疑がかかってもおかしくはない。このまま牢獄に入れられていずれは処刑されるのだろうか。
抵抗する気力が失せ、メリーティアは乾いた笑いをこぼす。
死んだほうがマシだ。家族もグウェンダルも殺された。生きていたって何の意味もない。
――ああ、でも。
メリーティアは自身のおなかを見下ろし、ぐっと下唇を噛み締めた。グウェンダルとの子どもの命がそこに宿っている。
初めて身体の内側からおなかを蹴られた感覚がして、涙がこみ上げた。
――死ぬわけにはいかないわ。