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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編ホラー

御噂

作者: 壱原 一

旧来の住宅地と新興の住宅地とが隣り合った場所です。


それぞれの小学校を卒業した児童らは同じ中学校へ入学します。甲と乙と丙は、同じクラスに分け入れられた縁で親しくなりました。


甲は新興地の、乙は旧来地の小学校出身です。甲は気が強く嫌厭(けんえん)され気味で、乙は根が暗く侮られがち。入学早々、甲が、席の近い乙に声を掛けたのがきっかけでつるみ始めました。


丙は中学入学の時期に新興地へ移り住んできました。虚弱かつ呆然とした印象で、移動教室を前にぼんやり残っていたところ、甲と乙から声を掛けられた流れで仲間に加わりました。


3人は、うまくかみ合いました。甲が頑なに我を通そうとし、乙が鬱憤を募らせる間に、どこ吹く風の丙が挟まって緩衝していました。


そのうち甲と乙は互いの距離感を体得し、当初から一貫して中立し続けてくれる丙を、個としても、関係の軸としても、尊重するようになりました。


放課後や休日に遊んだり、乙と丙の家の間に位置する甲の家へ集まったりを繰り返し、地域の例祭が近付く頃には、すっかり気安い仲でした。


このため、例祭の太鼓ばやしに参加しようとの甲の誘いを、乙と丙が「面倒」「家の事情で」と断っても、甲が大袈裟に不満がりこそすれ、(いさか)いにはならず、それなら出店は一緒に回ろうとすんなり話が決まりました。


*


例祭は、地域の伝統行事です。太鼓ばやしは、一帯の児童生徒が任意に参加できます。


太鼓ばやしに参加する児童生徒は、数日間、午後から宵まで、地域の大人達の指導を受けて練習します。午後の授業を公欠扱いで早退できるので、非日常感を味わいたい手合いに人気でした。


初回から2回、3回と、甲は楽しく練習へ通いました。甲は、気が強く主張の激しい質で、そのぶん教師や先輩に臆面なく懐くため、目上の層からかわいがられる質でもありました。


その性質が練習でも発揮され、指導者たる地域の大人に気に入られました。筋が良いと褒められたり、練習後、迎えに来られない甲の親に代わって、車で送られたりしていました。


練習の翌日、学校で顔を合わせる度、昨日の練習でこんなことを話し、そんなことを聞き、あんなことをしたと語る甲に、乙と丙は、へぇ、そう、良かったじゃんと生ぬるく応じました。


気のない相槌を打たれても、甲の機嫌は上々でした。


うん。面白くて良い人いっぱいでほんと楽しい。今年からじゃなくて、もっと早く参加すれば良かった。一緒にやれればもっと楽しかったのに。来年は絶対いっしょにやろう。


はしゃぐ勢いに気圧されて、顔を見合わせた乙と丙が、やれやれと笑みを交わしてしまうほど、とても楽しく練習へ通っていました。


*


そんな調子でしたから、いよいよ例祭が迫った最後の練習の翌朝、教室へ来た甲が、血の気の引いた怖い顔で、乙と丙の「おはよ」に短いうめき声を返し、席に着いて、机へ両腕をすがらせ、俯いて動かなくなった時、乙と丙は、尋常でないことが起きたとすぐに察しました。


昼休みに人気のない階段の踊り場へ連れ立って、乙が、うずくまる仲間を遠巻きに窺う動物よろしく、丙を相手に益体のない話を紡いでいると、普段通りの雰囲気や、そこへ滲む気遣いに励まされた風に、青白く黙りこくっていた甲が、引き結んでいた口を抉じ開け、ようよう絞り出す具合で一言ぽつりと零しました。


丁に。


乙と丙がぴたりと会話を止め、昨日、と続けられる言葉に耳を澄ます間もなく、甲は声を消え入らせ、背を屈め、小さく丸まって、ぶるぶるわなないて顔を伏せ、息を荒げて歯ぎしりしました。


丁は、甲を筋が良いと褒めたり、練習後、迎えに来られない甲の親に代わって、車で送ったりしていた、太鼓ばやしの指導者たる地域の大人です。


甲の楽しい練習の話に、最も多く登場してきた、面白くて良い人を象徴する、指導者たる地域の大人でした。


気が強く、主張の激しい甲が、懐いていた丁を呼び捨てにし、言葉に窮してしまうほどの何があったのか。


青筋を浮かべる握り拳と、硬く縮まって力む肩、鳥肌立つ項垂れた首元や、歪んで潜められた息と、沈黙が、暗然と知らしめていました。


乙は、絶句して、無意味に口を震わせた後、どっと氾濫する感情が独りでに溢れて濡れた頬を素早く服の袖で拭いました。丙は、いつも生気に欠ける顔をより悄々とかげらせて、甲を引き寄せ、繋ぎ止めるように、甲の腕をぐっと握りました。


甲は、乙の身じろぎや丙の握力をたどる風に、背を屈め、顔を伏せたまま、浅く早まる息を堪え、上擦る声を抑えました。


一切口にしたくないのに、少しも留めておきたくない。全て隠しておきたいのに、残さず吐き出してしまいたい。


そんな両極の葛藤に、絶え間なく追い立てられているような、甚だしい強迫を滲ませて、訥々と話し出しました。


*


甲は、一人親家庭です。親は熱心に働いて、甲は学校と家事に勤しみ、叱り甘えるというよりは、互いに尽くし支え合って、二人三脚で暮らしています。


甲は、親が大好きです。親も甲が大好きです。甲の親は甲を信頼しており、甲の友達ならいつでもと、快く乙と丙を家へ上げてくれます。


多忙のため雑然としていても、甲の家は温かです。甲と親の家族写真や、甲の絵や工作や賞状、日頃かわす他愛ない書き置きや、各々の予定が記されたカレンダーなど、親子が想い合う表れが至る所に満ちています。


甲が、気が強く主張が激しいのは、大好きな親が、甲の態度や言動によって、なめられたり、あざけられたり、そしられたりしないためです。


付け入られる隙を与えないよう、不当な扱いには対抗し、いたずらに陰口を叩かれぬよう、明るく愛想よく振る舞います。


特に、溌溂と笑顔でいることは、周りに目をかけてもらって、親の目の行き届かないところでも自然と助けてもらえるよう、甲の親が甲に授けた、処世の術の一つでした。


親に放置されて寂しい子が、大人の歓心を買おうと媚びていたのではありません。


仮にそうだったとしてさえ、居直られる余地はありません。


その気にさせた自業自得と、当の大人にうそぶかれる道理は、断じてありませんでした。


*


家の前で車から降ろされる時、にこにこしているせいと言われたと話し終えて、甲の声が途絶えました。


丙が甲の腕を握ったまま、乙が最悪むかつくと毒突くと、甲はそろそろと顔を上げ、心底ほっとしたように、ほんとそれと笑いました。


誰にどう受け取られるか、すっかり分からなくなってしまった顔で笑い、その顔を目の当たりにした乙へハンカチを渡した後は、常の如く元気に過ごしましたが、次の日からとても戸惑って外へ出られなくなりました。


甲にとって、親は甲こそが支えたい二人三脚の相棒です。親が甲を思って授けた振る舞いを盾に、親が最も大切にする甲自身を粗略にされたとは、決して知られたくありません。


まして、一人親で寂しい子だからと、あらぬ受け取られ方をしたら、そんな軽侮や屈辱は、想像するだけで堪え難く、乙と丙にも頼むからと口止めしたくらいでした。


そのため、乙と丙が見舞いに訪れた席で、「太鼓ばやしはお休みするって連絡したら、大丈夫ですよお大事にねって丁さん心配してくれてたよ」と親から告げられた甲は、親が仮病を疑わないほど嫌悪に褪めた顔色で、うんと一心に笑いました。


乙と丙はそれを見ていました。


*


帰り道、乙は立ち止まり、元から暗い性分を更に鬱々とさせて、むかつくむかつくとなじりました。


むかつく。むかつく。ざけんな。むかつく!


地団太を踏んで、ぽたぽたとアスファルトを濡らし、終いにはひぃと(しゃく)りを上げ出す乙の隣で、丙が凝然と立ち止まり、乙と同じくアスファルトを見詰め、それから静かに呟きました。


この後、ちょっと付き合ってくれる。


突然の珍しい申し出に、乙が虚を突かれてついて行った先は、今いた甲の家のもっと先、乙の家の反対側、新興の住宅地の、真新しい丙の自宅でした。


*


乙が丙に伴われてリビングへ入ったところ、無人と感じられたそこに、5人の男女が居ました。


いずれも丙のように虚弱かつ呆然とした印象で、どことなく丙に似ていて、誰を丙の親と言われても違和感のない風体に見えます。


乙が動転して曖昧に会釈する傍らで、内の1人から決めたんだねと言われると、丙は小さく顎を引いて、これからやると答えました。


男女はふらふら寄り集まり、血色の悪い顔に精一杯の薄笑いを浮かべ、丙の肩に手を置いたり、乙に腕を伸べたりして、リビングの奥へ促します。


導き入れられ、置き去られた場所は、和室でした。一方に4枚建ての襖が備わっており、上部の欄間越しに覗く天井から、襖の先にも和室があると分かります。


窓のない静かな和室の、白々した蛍光灯の下、乙が丙に疑問を呈する前に、丙が乙を見て言いました。


家には独自の信仰がある。先祖らに甲のことをたのむ。


先祖らにたのむのは自分だけど、1人でたのむのは怖いから、ここで一緒に居てほしい。


普段ぐったりした丙の目が、蛍光灯の明かりを貪るようにぎらぎら輝いていました。いつも弛んだ表情が、額の際から口端までぴんと張り詰めていました。


あまりの気迫に萎縮しながら、丙をこれほど豹変させた甲の笑顔を思い出し、同じ憤激を逆巻かせて、乙は無言で頷きました。


*


乙は丙と共に襖の前、丙より少し斜め後ろへ、言われるまま正座しました。


丙は真っ直ぐに背を伸ばし、畳に両手を突いて平伏し、聞いたことのない声量で明瞭に名乗った後、古めかしい言い回しで己が誰の孫か、誰の子か述べ、ふっと軽やかに立ち上がって、頭を下げ、襖の奥へ呼び掛けました。


御噂申し上げます。


途端、襖の奥の和室で、ぎしぃと畳が軋みました。乙がぎょっと身を竦めると同時、丙はぱっと正座して平伏し、また扇られる風に起立して、頭を下げ、奥へ呼び掛けます。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


体力のない丙のことです。あっと言う間に顔が青黒く、汗が流れ息が乱れます。指先や腿が震え出し、立ち上がりざまにふらついて、肩が落ち、顎が上がりますが、丙は止まりませんでした。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


御噂申し上げます。


呼ばわり続ける声は嗄れ、ひび割れて、鉄臭を来します。


思わず乗り出して支える乙の腕にすがりつつ、丙は実に37度、襖の奥へ呼び掛けました。


襖の奥の和室では、丙に呼び掛けられる度、ぎしぃと畳が軋みます。


丙の声が遂に止んだ時には、暗い天井を透かす欄間から、今にも誰かが覗きそうなほど、みっしりと人の気配が満ち満ちていました。


*


丙の脂汗に負けず劣らず冷や汗を滴らせる乙は、干上がった喉に固唾を飲んで、目前の襖を見詰めます。


丙は、ぜいぜい畳にへばりつき、ぎくしゃくと姿勢を整えて、がくがく手を突いて平伏し、全身全霊の力を残らず振り絞らんばかりに、深々と息を吸いました。


そうして、腹に轟く低い声で、刻みつけるように明々と、粘りつくように陰々と、番地まで含めた住所と、そこに住まう者の姓名、齢いくつのその者が、由無く、誰に何をしたか、まるで書付を読み上げる風に、淀みなく語り上げました。


斯様に耳に入りまして、御噂申し上げました。


噎せて咳き込むのを堪える声で、丙が苦しく締めくくると、襖の向こうで一斉に、ぞろりと畳を擦る音がします。


次いで、弱い風鳴りを束ねたような、厚くざわざわと芯のない、胡乱な声の重層が、前触れなくどっと吹き降りる(こわ)い山風の波濤の如く、凄まじい勢力を帯びてびょうびょうと返りました。


確と耳に障りました。


それは恐らく37名が、丙と同じく平伏し、そろって応えた音声でした。


襖の向こうに満ちる気配は、追って銘々に立ち上がり、するする、のしのし、とんとんと足音を立てて出てゆきます。


異様な密度の緊張が霧消するや否や、和室に男女が立ち入って、頽れる丙を抱き留めました。


丙に似た覇気のない顔に渾身の薄笑いを滲ませ、乙に向けて、お疲れ様とか、ありがとうとか、これからも丙と仲良くしてねと口々に言い、言いながら乙を玄関へ押し流します。


最後に死人めいた無表情を並べ、萎れた花のように頭を垂れました。


乙は碌に挨拶できないまま丙の自宅から帰路につきました。


翌日は当然のように、丙も学校を欠席です。


乙が1人で帰りしな、まず甲の家へ見舞いに赴いて呼び鈴を鳴らす寸前で、すうっと車が寄って停まり、運転席の窓が開いて、面白くて良い人そうな大人が親しげに身を乗り出してきました。


*


大人は爽やかに微笑んで、乙の制服を目でなぞり、どこそこ中の子か、甲の友達かと、朗らかに訊ねてきました。


乙が向き直って見据えると、意を得たとばかりに合点して、自分は甲の親とも親しい甲の友達で、最近甲の元気がないと聞き心配しているのだけど、甲の様子はどうか、なにか聞いていないかと、いかにも面倒見の良い人のように気安く訊ねてきました。


よもや答えが返らないとは想像もしない風情で、寄越された陰気な顔の、敵意と怒りの表情に、きょとんと口をすぼめます。


やがてじわじわ口角を吊り、美酒に酔いしれて盛り上がる頬を微かに震わせ始めました。


それは、相手が「知っていて黙っている」と覚り、柵越しに口枷をはめられて杭に繋がれた猛犬を気分よく眺める顔でした。


わざとらしく恐縮した声と面持ちで、ごめんごめん知らない人に教えられないよね親御さんちゃんとしつけてるなぁと頻りに感心して見せて、甲の親か甲に直接きくから大丈夫だよと気兼ねなく寛大に応じました。


乙は、頭が白熱して歯列が締まり、一言も発せない己が厭わしくて仕方ありませんでした。


こいつ。こいつ。こいつ。


こいつが。


逆上のあまり眩暈を起こしながら罵倒するために息を吸った刹那、その息に吸い寄せられるように、ぞわっと人が(たか)りました。


輪郭が宙に溶けたような白っぽい透けた人垣が、小首を傾げて背を屈め、車の前方を取り囲みます。


しげしげ大人を見る様子で、伸し掛かるように張り付いて、うねうねゆらゆら揺れながら、(こわ)い山風の波濤の如き、胡乱な重層を吹き荒らしました。


御噂は、かねがね。


かねがね伺っております。


*


大人は不意に目を丸くし、勝ち誇った得意げな笑顔から、奇異を察した表情へ顔面を作り変える途中で、瞼や頬の肉を流し、髪や片手を浮き上がらせ、残像と空気の波動を置いて車を急速発進させ、凄まじいエンジンの音と共に矢の如く電柱へ突っ込みました。


どしゃあとぶつかる衝撃音がガラスと一緒に散らばって、大人はつんのめって倒れ伏し、まだ薄明るい夕方の住宅地にぱーーーーとクラクションを響かせます。


騒音にじっと聞き入るように、周りはとても静かでした。


乙は、己の度を超えた驚きゆえ、視野が狭まり、自身の心拍しか聞こえず、近所の人達が跳び出て来るのに気付けていないと感じました。


けれど少ししてそうではなく、これだけの事故が起きたのに誰も来ないと気付きました。


窓から見て通報しているのか、危ないから近寄らないのか、それともまさか全て留守なのか、一向に誰も出て来ません。


白日夢を見る心地で、ぱーーーーと鳴り続けるクラクションの波間を搔き分け、恐る恐る車に歩み寄ります。


中で大人が痙攣し、歪んだドアから外へ出ようと片腕を揺らしていました。


白っぽい透けた人垣が隈なく周りを取り囲み、うねうねゆらゆら揺れながら、僅かに開いては閉じるドアにもべったり張り付いています。


乙は控えめに人垣へ分け入り、大破した車体へ張り付いて、間近で大人を見下ろします。


「大丈夫ですか」と声を張って、歪んだドアに片手を添え、もう片手でドアハンドルを掴みます。


肩をいからせ、腰を落とし、片足を斜め後ろへ下げて、あたかも外側へ力むかのように、抜かりなく体勢を整えました。


*


甲や、もしかすると丙の家庭と違って、乙は二親家庭です。両親は一般に社会的意義が高いとされる職業と奉仕活動に従事していて、経済的な余裕があり、子供の自主性を重んじて、乙さえ言い出せばいつでも乙の話を聞いてくれます。


インコを飼いたい。プログラミングを習いたい。天体望遠鏡が欲しい。


鉛筆が欲しい。筆箱が欲しい。ご飯を食べたくない。教科書が欲しい。学校を休みたい。運動着が欲しい。学校を休みたい。学校に行きたくない。学校に行きたくない。学校に行きたくない。


次第に寝られなくなって、頭やお腹が痛く、口が渇き、汗が出て、人の目を見られなくなり、どうにも自分の手に余って意を決し両親に「つらい」と訴えた時、両親はほんのり眉を寄せ、目元をやんわり硬くして、口の両端を少し下げ、即座に微笑みへ切り替えて、「じゃあどうしたい」「何をしてほしい」と訊きました。


乙は、じめじめと内向的で、思慮深く聡い性分です。


過去に寂しいと言った時、一緒に居てと言った時、達成基準が曖昧で時間的拘束が長く情緒的労力を要する交流を両親に求めた時、この表情を向けられて、それがどんな気持ちの表れか、薄々と感じ取り、しみじみと沁み入って、このとき誤魔化しようもなく、明白に理解しました。


まるで自分の事のように、怒ったり悲しんだりしてほしい。


言えずに乙は卒業して、中学へ上がり、甲から声を掛けられました。


感情論に陥らず、具体的行動によって多くの人を救済支援する両親を、乙は尊敬しています。最大限愛されていると分かっています。


同時に中学で甲を知り、甲の気性に、親や家庭に、強く惹かれたのも事実です。


甲の傍で日々すごしていると、知らぬ間に穿たれていた、しっとり冷えた暗い部分に、軽やかで温かい光と風が行き渡り、ほっとする、少し浸みる心地を、ぼんやり味わうようでした。


乙にとって甲は憧れで、そしてある種自分でもありました。


互いに話し、聞いて、喜んだり、楽しんだり。


聞き苦しい気持ちを打ち明けて、まるで自分の事のように、怒ったり悲しんだりし合える、大切な存在でした。


この気持ちはきっと甲も丙も同じです。だからこそ甲は話してくれたし、丙は、昨日、あの和室で、乙にはとても計り知れない、なにか重大な決意を持って、険しく恐ろしげな道へ進んだに違いないと感じられます。


「怖いから」と乙を頼ってくれて、岐路まで共に居たのですから、乙は丙にその先だって一人で行かせるつもりはありません。


険しく恐ろしげな道で隣に立ち、丙の手を取り握るように、ドアハンドルを掴む手が、強く握り締められました。


*


「大丈夫ですか」「出られますか」と焦った声を上げながら、乙は、中のものがこちらへ出てこないよう、巧みに力を込めました。


脳を突く刺激臭が濃くなって、ぶすぶすと煙が上がり、ばちばちと火花が散って、間もなくめらめら燃え出します。


ひと時も目を離さず持ち堪え、周囲で上がり始めた様々な声の幾つかから、もう良い危ないと引き離されて、遠くへ退避させられます。


甲高いサイレンが駆け付けて、白っぽい透けた人垣が散り、どうにか消し止められるまで、車は長々燃えました。


誰しも目を背けるような深刻な損傷の下、ドライバーは命を取り留めました。


遠方の大病院で長年治療を続けましたが、段々身近な人々が当人を支えきれなくなり、辛い顛末になったようです。


翌日学校へ来た甲も丙も、乙と全く同様に、事故に触れませんでした。


迎えた例祭の当日は、甲の誘いで出店を楽しみ、以降は行ったり行かなかったりしながら、甲と乙と丙は、てんでに進学したり、成人したり、家業を継いだり、地元を離れたりしました。


*


乙が店内を見回すと、先に着いていた甲と丙が、向かい合って座る席からそれぞれ手を上げて乙を呼び寄せました。


甲と丙が「お疲れ様」と労い、乙が「お待たせ」と詫びながら甲の隣に座ります。斜め向かいの丙に「直で会うの久し振りだね」と笑い掛け、丙が「そうだね」と応じます。


合間に甲が飲み物を注文し、全員の飲み物が揃うと、乙が丙に「今日はありがとう」と礼をします。


相変わらず陰気そうな乙と、眩いばかりの笑顔の甲に、丙が、ゆるゆると首を横に振り、飲み物のグラスを掲げます。


*


家の独自の信仰のせいで、色々よくない噂が立って、親族らと逃げるように越してきた新天地でした。


思い掛けず友達が出来てすこぶる嬉しい一方で、強気に屈託なく踏み込まれると、気詰まりで心苦しい場面がありました。


受け流せず心が塞ぐ度、我が事のように汲み取っては果敢に噛みついて話を逸らしてくれ、それでいて、何をしてやった風も見せない優しく損な性根を、丙は、友達として同じくらい、いつしか友達とはまた違う領分で、大切にするようになりました。


先祖らの力をたのむため、先祖らと同じ道へ入る時、一緒に居てくれたので怖くありませんでした。


疲れ果てて臥せた夢現に、険しく恐ろしげな道の隣で強く握り締められているのを感じ、これ以上望むものはないし、後悔しないと思いました。


*


丙が、上げて下ろせずにいた我が身の末路への一歩を踏み出したほどです。


普段の陰鬱や皮肉から一転、まるで自分の事のように切々と怒り悲しむ様に、どれほど心動かされたことでしょう。


まして途方もない不条理を、頑なな気概のみで堪え忍んでいた当人にあっては、掛替えのない安らぎを受け取り、寄り添って返し、報いたい、傍に居たいと望むようになってゆく移ろいも、ごく当たり前のこととして受け入れられたようでした。


あれから数年の間、気を強く主張し続けた末に、ことさら難しい顔をしてそわそわ落ち着かなげな隣で、心からの喜色満面に吉報を告げられた瞬間、丙は、思わず口を開け、けれど結局、これから口にする言葉と同じ言葉を言いました。


強く握り締められている手の感触を、握り返すように拳を結び、丙に倣ってグラスを掲げる乙と甲へ、虚弱かつ呆然とした顔が、精一杯の薄笑いを浮かべます。


いまや引き返しようもなく、家の信仰の一員です。


今後も幾度の噂を重ね、いずれ聞く側へ回ろうと、この感触さえ共にあれば、これ以上望むものはないし、決して後悔などしません。


おめでとうと述べた声に、ありがとうとはにかむその姿は、丙に纏わり付くのと同じ、2度と晴れぬ影を負いながら、丙の視界を何よりもきらきら綺麗に輝かせました。



終.

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