呼び出し
転校した初日の放課後、日幸は生徒指導室へと呼び出されていた。
その隣には学校の制服を校則通りに楚々と着こなした花純がたおやかに佇んでおり、二人の正面には机に座った担任の女教諭――「桃山涼音」と、もう一人年配の少し目つきが鋭い女性教諭が座っていた。
後に知ることになるのだが、その年配の女性教諭は生徒指導係であり、事の真相を確かめるために同席していたのだ。
「校内で噂が立ってるんだけど、あなた達許嫁なんだって?」
(やっぱその話か)
「はい」
自身の担任から告げられた言葉に、日幸は内心で呟きながらはっきりと答える。
そんな日幸の言葉に重ねるように、隣に佇む花純も同様の肯定を発していた。
帰りのホームルームが終わった際に桃山教諭に後でここに来るように伝えられ、さらに部屋の前で花純と出会った時点でそういう話であることは容易に想像がついていた。
友人同士、クラス同士スマホで繋がっているのだから、昼食の時に話したことが知られていても何ら不思議はない。
「……なるほど」
簡単に自分達の関係と、こうなった経緯を説明すると、桃山教諭は小さく呟く。
隣にいる生徒指導の女性教諭と声を潜めて一言二言話した桃山教諭は、姿勢を正して日幸と花純に向かい直る。
「話は分かりました。互いが了承してるなら、今のところは学校としてあなた達の関係に口を挟むことはしません。ただ、一応公序良俗というか、常識は弁えてね。たとえば――子供作るとか」
極めて珍しい例ではあるだろうが、生徒同士が実は許嫁でした、と言われても、学校として止めろというわけにはいかない。
教師としては真偽の把握と共に、最低限の注意をすることくらいしかできることはない。
「分かってます」
「もちろんです」
青春の若い情動のまま、過ちを犯さないようにだけ釘を刺した二人の教師に、日幸と花純は素直に了承の言葉を返す。
実際、二人の関係はまだ婚約者候補の許嫁であり、そういった事態に至るにはまだ付き合った時間は短い。
興味が全くないとは言わないが、日幸も花純もそこは弁えている。
「じゃあ、話は終わり。帰っていいわよ」
その言葉を聞いた桃山教諭は、ひとまずそれを信じることにする。
転校生である日幸はともかく、花純は優等生として教師の間でも認識されているため、このくらい信頼を置いた対応で十分だと判断したためだ。
「失礼しました」と言いながら、二人が出ていったのを見送った桃山教諭は、毅然とした教師の顔を崩して、深くため息を吐く。
「許嫁かぁ、羨ましい」
「桃山先生」
羨望の色を隠さない心からの声を零した桃山は、上役でもある生徒指導担当の女性教諭に窘められて姿勢を正す。
「すみません」
桃山涼音。三十三歳。結婚歴無し。独身。現在彼氏募集中。婚活真っ只中である。
※※※
「思ったよりあっさり終わったな」
「そうですね」
生徒指導室を後にした日幸と花純は、互いに視線を交わしてどちらからともなく笑みを零す。
「そういえば聞いてなかったけど、花純さんは何か部活とかしてるの?」
「いえ」
暗に「この後時間はあるか?」と尋ねられた花純は、目を伏せて応じる。
「じゃあ、一緒に帰りますか」
「はい」
日幸が少し照れくさそうに言うと、花純も少し気恥ずかしげに目を伏せる。
「お互いの家が学校の反対側だから、一緒に登校できないのは残念ですね。帰りも、あまり長い間はご一緒できません」
「俺は、途中まで送ってから帰っても全然いいんだけど」
共に自転車通学のため、駐輪場へと向かった日幸と花純は、それぞれの自転車を押しながら言葉を交わす。
「それはさすがに申し訳がありません。それに、それを言ったら『私が朝迎えに行きます』と言ったのに、悪いからって断ったのは日幸さんが先ですよ?」
「そうだった……」
不満気な花純の言葉で先日のやりとりを思い返した日幸は、渋い表情を浮かべる。
日幸の家と花純の家は、学校を挟んで反対側にあり、一緒に登校しようと思うと、一度学校を通り過ぎてから合流し、再び学校に来るという手間をかける必要がある。
そのため、日幸も花純も互いに気を遣って、別々に登校してきたのだ。
「そうか。けど、クラスも別、登校も別ってなると、少し寂しいな。
俺的には、なにか許嫁っぽいことした方がいいのかと思うんだけど、よくよく考えたら許嫁っぽいことって何か分からないんだよな」
「確かにそうですね」
許嫁がどんなふうに接するのか分からないという日幸の言葉に、花純も微笑んで頷く。
婚約を前提としているが、恋人として付き合っているわけでもない。
今の関係で、どのような距離感が適切なのかは、日幸も花純も手探りの状態だった。
「花純さん的には何かしたいこととかある?」
「そうですね……今は、ひとまず日幸さんに呼び捨てで呼んでもらうのが目標ですね」
日幸に尋ねられた花純は、少し考えてから答える。
その微笑は陽だまりのように温かく、すこしだけ悪戯めいた愛嬌があった。
「……それはもう少し待って」
花純の言葉に、日幸は痛いところを突かれたとばかりに目を細める。
そんな日幸の姿を横目で見た花純は、少し前のやり取りを思い返していた。
※※※
『話しやすい言葉遣いで話してもらってかまいませんよ』
許嫁になって連絡先を交換してから何度か連絡を取った時、花純は日幸にそんな提案をした。
比較的パーソナルスペースが強い花純は、初対面から馴れ馴れしくされるのがあまり好きではない。
だからお見合いの時、最初は敬語を使って話してくれた日幸への好感度は高かった。
とはいえ、ある程度親しくなってきたのならば、慣れた口調で話してもらった方が嬉しいのだから、面倒なものだ。
『じゃあ、花純さんも普通に話してください』
そんな提案をすれば、当然日幸からも同じ言葉が返ってくる。
『私は誰に対してもこうやって話すんですよ』
『そうなの?』
『距離を感じるみたいに言う人もいますけど、敬語は人を敬うために使う言葉ですから。日幸さんは私の許嫁ですから、しっかり敬いたいので』
花純は一番の友人である弥生に対しても、何なら祖父母に対しても敬語を使う。
だが、それは別に人を遠ざけたいわけではない。
例えば「~だよ」と言うよりも、「~ですよ」と言った方が語気や柔らかく感じられるように感じられる。
そんな言葉の端々に宿る柔らかな響きが好きだったからだ。
『でも、日幸さんが気になるなら直します』
とはいえ、そこまでこだわりがあるというわけでもない。
日幸が望むなら、言葉遣いを多少直すくらいはするべきなのだろうとも考えていた。
『それが普通なら別に構わないです。話しやすいように話すんだから、話しやすい言葉遣いでいいと思いますよ。じゃあ、俺は普通に話すようにするよ』
だが、日幸はそれを否定せず、話しやすい言葉でいいと言ってくれた。
《ねぇ、何でそんな話し方なの?》
《同級生なんだし、敬語なんて使わずにため口使ってよ》
今日まで男女問わず、特にクラスメイト達からはそんなことを言われてきた。
それは当然の感覚であろうし、何の悪気もない――むしろ、友好関係を築いてくれようとする好意であることも分かっている。
そうしてくれることが嫌だったとは言わない。だが、少しだけ寂しかったのも嘘ではない。
自分の好きなことが、自分の感覚が、少しだけ周りの人と違うだけなのだと分かっていた。
だから、日幸がそう言ってくれたことは花純にとってはとても嬉しいことだった。
そのことにどれほど感謝しているのか、日幸は気づいてさえいないだろうが。
「……やっぱり、いい人ですね」
自転車を押し、隣を歩く日幸を一瞥した花純は、小さく呟いて目を細めるのだった。