プロローグ
「お初にお目にかかります」
三つ指をつき、深く礼をした女性の鈴を転がしたような美しい声が耳に届く。
目の前にいるというのに、どこか現実味のない遠くから響いているようなその声に聞きほれていると、下げられていた頭がゆっくりと上げられる。
黒曜石を思わせる艶やかな射干玉の黒髪がわずかに揺れ、健康的な白い肌と薄く紅を挿した唇が目を引く。
わずかなあどけなさを感じさせる可愛さと美しさを両立させた顔立ちは、思わず見惚れてしまうほどに整ったものだった。
華やかな和装に身を包んだその少女は、まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい姿と所作で目の前に淑やかに咲いていた。
※※※
「人生は山あり谷ありか」
車窓から見える田園の平野を見ながら、青年――「国本日幸」は、そんなことを独り言ちる。
そこにうっすらと映る自分の顔と見つめ合った日幸は、こうなった経緯を思い出していた。
これまでの日幸の人生は、華やかとまではいわないが、平凡で順風満帆だったといっても差し支えないものだった。
学校の成績は上の下、あるいは中の上、運動もそれなりにでき、人間関係も良好。彼女はできなかったが、友人と馬鹿をやって充実した日々を過ごしていた。
特に夢などはなかったが、これからもそんな日々は変わらず、無難な日常を送るのだと心のどこかで思っていた。
だが、そんな日幸の未来予想は、ある日突如大きな変化を余儀なくされた。
『お父さんの会社が倒産した』
その時、今車を運転している父から告げられた事実に、日幸は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えたことを覚えている。
『それで、これからのことなんだが、父さんは母さんと田舎のおじいちゃんの家に帰って、仕事を手伝おうと思う。この時期で悪いが、二人には転校してもらいたい』
申し訳なさの浮かんだ真剣な表情で、自分と二つ下の妹である「安奈」に言った父の顔を日幸は忘れることができない。
やむを得ない事情とはいえ、これまでの環境を変えさせる申し訳なさ。家族を支えることができなくなった情けなさ。様々な感情を抱きながらも、家族のために下した決心がそこからは感じられた。
そんな父の言葉を受けた日幸と安奈には、その申し出を受け入れる以外の選択肢はなかった。
もしかしたら、バイトなどをして無理にでも残るという手段もあったかもしれないが、日幸も妹の安奈も、そこまでして残るほどの理由はなかった。
※※※
(けど、本当は安奈は残りたかったのかもしれないな)
田舎ではあるが、しっかりとコンクリートで舗装された道を走る車から伝わってくる轍の振動を感じながら、日幸は後ろの席に座っている妹――安奈へ一瞥を向けて心の中で呟く。
日幸の妹である安奈は、身内の贔屓目なしに見てもそれなりに整った容姿をしている。
わずかに染めた髪やピアスが遊んでいるような印象を感じさせるが、性格は至って真面目で勉強も日幸とは比べ物にならないほどにできる。
そんな妹は高校受験を控えており、かなりの進学校を希望していた。というのも、安奈には女子アナになるという夢があるのだと、日幸は母に聞かされていた。
志望校を変えるつもりはないといっていたが、さすがに中学生を一人暮らしさせるという訳にもいかず、こうして祖父の家へと向かうことになったのだ。
もっとも、高校に合格したらどうするのかまでは日幸も与り知らぬことではあるが。
「なに?」
「なんでもない」
そんなことを考えていたところ、視線に気づいた安奈に怪訝な表情を向けられた日幸は、そっけなくそう答えると、前へと視線を戻すと手にしたスマホへ視線を落とす。
日幸の父方の祖父は農家をしているが、後を継ぐつもりがなかった父は家を出て都会で働いていた。
年に一度か二度、お盆か正月の際には帰省していたのだが、今回のことがあったためこうして帰郷し、家の仕事を継ぐことにしたのだ。
実際、五十路の父が今から就職活動をしても期待は薄く、日幸の学費に加えて安奈の高校、いずれ二人が通うことになるであろう大学の学費のことも考えれば他に選択はなかったのかもしれない。
そうして車にしばらく揺られていると、日幸にとっては見慣れた――懐かしい家が見えてくる。
昔ながらの母屋と離れがあり、蔵までもがあるその家こそ、日幸の父の実家だった。
「来たか」
日幸達が乗った車がその敷地へ入ると、到着を待っていたのか祖父と祖母が姿を見せる。
農家をしているためか、日に焼けて浅黒くなったまま戻らなくなっている祖父は、七十歳を過ぎているというのに腰がほとんど曲がっておらず、溌剌とした活力が漲っているように感じられた。
そんな祖父と笑顔を絶やさない祖母は一見元気に見えるが、以前に見た時と比べて明らかに衰えており、時間の経過と共に訪れる人間として逃れられない確かな衰えを感じて物悲しい感情を覚えてしまう。
「親父」
「これからお世話になります」
「息子の所為で大変な目に合わせて悪かったね」
「いえ、私も職場の人間関係に疲れていたところですから。丁度いい機会でした」
両親が挨拶をすると、祖父が日幸と安奈の母――「美里」に謝罪するが、当の本人は義両親との同居への抵抗を感じさせない様子で言う。
その本心は日幸には計りかねるが、実際母が職場の人間関係にストレスを覚えていることは感じており、先の言葉は全くの嘘ではないように思われた。
「日幸も安奈も、都会とは勝手が違うだろうが、自分の家だと思ってゆっくりしてくれ」
「ありがとう。爺ちゃん」
「よろしくお願いします」
そのまま祖父に声をかけられた日幸が感謝の言葉を述べると、安奈もそれに倣って目礼をする。
「一応離れを片付けておいたから、自由に使っていいぞ」
引っ越しとはいえ、勝手知ったる祖父の家。まして職場の倒産というやむを得ない事情で戻ってきた息子夫婦を邪険に扱う理由もないのだろう。
簡単な挨拶を済ませた日幸達は、祖父の言葉に倣って離れ――母屋とは別にある屋敷へと向かう。
日幸の父方の実家である国本家は、歴史のある由緒正しい家柄という訳ではない。だが、古くから農業を営んでいる田舎の家というものは大抵広い敷地を持っているものだ。
祖父の家も例にもれず広い敷地の中に母屋と離れが存在しており、日幸達四人家族が同居するのには何ら困らない。
家の構造上、台所や洗面所、風呂といった生活に必要な施設は母屋にしかないが、生活するのに心理的な面を除けば不便はない。
「私、ここに入るのは初めてかも」
「そうだな。子供の頃、一階ではよく遊んでだけど、二階に来ることはなかったな」
離れの二階へと上がった安奈が小さく呟くと、日幸も記憶を辿って答える。
農業を営んでいる祖父の家の離れの一階は作業場や道具置き場になっており、子供の頃はここで遊んだりもしたものだが、二階へ上がることはなかった。
そんな二階には人が十分に使える部屋があり、しかもその部屋は以前住んでいた家の部屋と比べても遜色のない広さを有していた。
「二階には三つ部屋があるから、お前達は好きな部屋を選びなさい。父さんと母さんは二人で一つの部屋を使うから」
「分かった」
「じゃあ、私一番奥の部屋」
父の言葉に日幸が頷くのを横目に、安奈は自分が使いたい部屋を早々に決める。
「あ、ズルいぞ」
「早い者勝ちだもんね~」
それに抗議をするものの、話し合いに応じるつもりのない安奈は早々に一番奥の部屋へと入っていってしまう。
「くっ」
それを悔しげに見ながらも、そんなことで喧嘩をするほどに感情的ではない日幸は、早々に妥協してその隣の部屋へと入っていく。
こうして日幸の新しい生活が始まった。
だが、これから自身の身に更なる大きな変化が起きることを、この時の日幸は知る由もなかった。