彼氏持ちのクラスメイトの女の子から「寝取ってくれない?」と頼まれました
「西潟くん、ちょっといい?」
放課後。
クラスメイトたちがめいめいに部活動へと行き、教室が閑散となりつつあった中、俺も友人らを見送って鞄に手を掛けた時だった。
声を掛けてきたのは御厨なぎな。
クラスメイトの女子生徒である。
高校二年生に進級してまだ日も浅く、彼女とは特別親しくしているわけではない間柄。
だからか、少しだけたじろいでしまう。
「えっと……、俺?」
自分で合っているのかと再確認するように言うとこくりと頷かれる。
西潟、なんて苗字のやつは俺以外このクラスにはいないので当たり前と言えば当たり前なことだ。確認しなくたってわかることだったがそのわずかな時間で困惑を悟られないように表情を戻すことができた。
「帰宅部だったよね?」
「ああ。御厨も?」
「うん」
てっきり部活に入っているかと思っていたがそうではなかったらしい。
意外だ。
彼女は運動神経もいいし、芸術方面にも長けている。何か部活をしていても不思議ではなかったが。ひとつに絞れないということだろうか。
「あ、生徒会に入っているんだったか」
「あれ、よく知っているね」
「まあ。二年生で入っている人そんないないし」
言い訳めいたことをする。
御厨なぎなは学校内ではそれなりに有名人だ。
一目みてだけで男を魅了するほどの容姿、常に学年一、二を争う成績を兼ね備え、スポーツ万能に芸術方面でも受賞経験ありと欠点を探すほうが難しいほど完璧な人。
知らないと言うほうが無理がある。
「帰るだけだから時間は大丈夫だけど」
「そっか。よかった」
笑みを作る。
眩しいくらい綺麗なそれを見続けられず、顔を背ける。
「お願い」
すると御厨に手をぎゅっと掴まれる。
「――っ」
ぎょっとする俺を他所に彼女は言う。
「私を寝取ってくれない?」
「…………は?」
まさか彼女からそんな衝撃的な言葉が出るとは思わず、俺は口をあんぐりと開けたまましばらく動けなかった。
――
御厨なぎなには彼氏がいる。
同じくクラスメイトの降旗だいご。
特別これと言って特徴のない男子生徒である。顔も平凡、成績も中、運動は不得意っぽい。どこかの資産家の家計でもないし、プロゲーマーとか陰でその道のプロのような特殊な環境にいる人でもないと思う。
クラスにひとりやふたりいる目立たない生徒。
そんな彼が唯一誇れるのは小学校からの幼馴染である御厨なぎなだろう。
そしてその彼女と――付き合っていることだ。
「…………」
幼馴染が恋に落ちるというのはよくある話だ。
ドラマや漫画、そして――ライトノベルでは特に。
美少女な幼馴染となんてことのない主人公。
どういうわけかその幼馴染は主人公のことを好きな設定。
何か努力したわけでもないのにずっと一緒にいるだけで好かれる主人公。
「……っ」
「どうした、あみる?」
友人から名前を呼ばれ、現実に引き戻される。
「いや、なんでもない」
朝のホームルームまで時間があり、友人らといつものように駄弁っていると昨日の御厨との出来事がフラッシュバックし、自然とその彼氏である降旗に目を奪われてしまっていた。
「つか御厨ってホントに降旗と付き合っているんだな」
友人のひとりが言った。
見れば登校してきた御厨が降旗のところに行ってなにやら話している。
「同じクラスになってようやく確信できたよな」
「絶対信じてなかったのになあ」
ここにいる俺を含め友人らは初めて彼らとクラスメイトになった。
だから噂では聞いていたことをこうして目の前で仲睦まじくする姿を見せられ、その噂が真実だとわかり、落胆した様子でいる。
「幼馴染なんだろ」
「いーなー。おれも幼馴染がよかった」
「幼馴染でも付き合えるとは限らねえだろ」
「じゃあなんで降旗は付き合えるんだよ」
「知らねえよ。テクがあんじゃね?」
「いや、それはねえだろ」
笑い合う友人らの会話にひとり入れず、作ったような笑みを浮かべる。
だれもが付き合いたいと憧れる御厨なぎな。
そして――別段、仲が悪くなったとは思えない降旗と御厨の関係性。
やはり昨日のあの出来事はいまでも夢だと思っている。
――
「や、本気だから」
眉間に寄った皺をつまんで言葉を咀嚼する。
「お願い。寝取って」
現実感のない言葉。
けれどその真剣な眼差しからからかいや騙すような感じはまったく受けない。
「昼休みを使ってまでする会話か?」
「だって昨日はちゃんと返事聞けなかったし」
昨日はあれからクラスメイトが数人教室に戻ってきて返事が出来ず有耶無耶に終わった。このままこの話も流れてくれればよかったものの、俺がトイレに行くタイミングを計っていたのか御厨に拉致されるような形で空き教室にまで連れてこられた。
「あ、お弁当も食べながらでいいからね」
「この話をしながら食べるのもな……」
向かい合いながら御厨は美味しそうに自身のお弁当を食べている。
彼女にとってはそれほど重要な事柄ではないのだろうか。いやそんなことはない。絶対ないはずだ。
「それで寝取ってくれる?」
「なんでだよ」
そもそもの疑問をぶつける。
「なんで御厨は寝取られたがっているんだよ」
「あー、言ってなかったね」
うっかりしていたとばかりに自分の頭を小さく叩く。
「あんなに仲良いじゃんか。意味がわからないんだが」
「だからじゃん」
「だから?」
「そうでもしないと別れられないじゃない」
「……はあ?」
箸が滑り落ちそうになる。
別れたい、確かに御厨はそう言っている。
「じゃあ私が西潟くんに質問なんだけど」
御厨は手を挙げる。
「彼女が寝取られたら嫌じゃない?」
「そりゃあ嫌だよ」
「最低だと思うでしょ?」
「まあな」
「浮気が発覚して、別れを切り出されたら応じるしかないでしょ!」
「応じるしかないって……」
「私と西潟くんで超絶ラブラブなところを見せつけて、絶望させよう!」
「そこまでする必要なくないか!?」
怖い提案をしてくる御厨に思わず声を荒げてしまう。
「別れるだけなら寝取るとか面倒なことしなくてもいいだろ」
「そんな別れ方じゃあだらだらと友人関係みたいに続いちゃうでしょ」
「なにが嫌なんだよ」
「関係を切らないといつまでも諦めきれないでしょ」
「だから、そこは恋愛関係にならないように接し方を変えてだな――」
「私がだいごを諦められないの!」
「はい?」
盛大な矛盾に俺は首を傾げた。
俺の脳が正常に働いていないのか、彼女がおかしいのか。たぶん後者。
「御厨は降旗と別れたいんだろ」
「うん」
「それは降旗のことを好きではなくなったからではなく?」
「全然。いまでも大好き」
うっとりとした蕩けるような顔をされる。
「帰っていい?」
「待って待って!」
立ち上がった俺の腕を力強く引っ張られ、引き戻される。
「馬鹿にしているのか?」
「馬鹿にしていないし、別れたいのもホント!」
一向に彼女の意図が読めない。
したいことはわかるのにその真意がわからない。
「だいごを好きな人がいるの」
黙ったままでいると、ぽつりと言葉が落とされる。
「私はだいごとは小学生の頃に知り合ってそこからの付き合いだけど、彼女は違う。私の知り合う前から……幼稚園の頃に会っているの。それでふたりは将来結婚するような約束もしたみたいで。それからその子が引っ越ししちゃって会えてなかったみたいなんだけど高校になって戻ってきたの」
「同じ高校にいるのか?」
「日森うみ」
思い浮かんだのはクラスでよくひとり読書をしている女子生徒だ。
小柄な体格で友人も多くなく、目立たないタイプではあるものの童顔で可愛らしい感じが一部の男子の間では人気が高い。面識はないが認知はしている。
「話したことがあればわかるんだけど、超いい子なんだよねえ。電車の席譲ったり、当番でもないのにお仕事手伝ってくれたり、私とだいごの関係も応援しているとか言っちゃって……、ホントは苦しいはずなのに、辛いはずなのに。あーあ、私お邪魔虫すぎる」
急に食欲がなくなったのか、御厨の箸の動くスピードが落ちる。
「うみちゃんならだいごをもっと幸せにできる。だから別れたいの」
哀切に満ちた瞳。
少しの衝撃で涙が落ちてきそうなくらいだ。
「別れたい理由はわかったが、御厨はそれでいいのか?」
「うん?」
「好きなんだろ? 御厨だって降旗を幸せにすることだってできるだろ。現にいまだって楽しそうにしているし」
「いいの。だってうみちゃんには敵わないから」
諦めたような、完敗したような、晴れやかな顔となっていた。
「だいごを追ってひとり暮らしまでしているんだよ? 私がうみちゃんよりだいごを好きな自信ないよ」
清々しいほどあっさりと彼女は言った。
――
御厨なぎなのお願いを承諾してからというもの。
少しずつふたりの時間を増やしていった。
降旗に見せつけるようにということではない。一クラスメイトとして話すような関係ということはわかってもらえるようにしていただけで、あとはほとんどは彼との時間をなくすためにしていただけに過ぎない。
不信感を抱かせる。
不安を募らせるように。
違和を感じさせるように。
「わざわざ俺たちがふたりで過ごす意味なくないか?」
「えーひどーい。一緒にいたくないの?」
「そういう意味で言ったんじゃない。あーもういいや、なんでも」
放課後に降旗と帰らなくするだけなら御厨ひとりで帰ればいい。
休日に降旗とデートをしないのなら御厨が自由に時間を使えばいい。
なにもここまで忠実に浮気をしなくたっていいのに。
「だって、嘘ついているみたいじゃん」
口をすぼめて言う御厨を見て肩をすくめる。
「この関係がすでに嘘なのでは?」
「うわー、このパフェ美味しい!」
自分の都合の悪いことは聞かないスタイルらしい。
まあどうだっていい。
この放課後にファミレスで過ごすのにも慣れた。
御厨が毎回甘い物を頼んでいるのも。
「いいじゃんいいじゃん。こんな美少女と過ごせるんだから」
「自分で言わないほうがいいと思うぞ」
「てへ」
可愛らしく、舌を出して悪戯っぽく笑う。
不覚にも可愛いと思ってしまった。
「でもホントに嫌だったら毎回付き合わなくてもいいからね」
「なにを今更」
「だって誘ったら毎回付き合ってくれるじゃん」
「大した予定もないから大丈夫だよ」
「友達多そうなのに」
「ほどほどにやっているから平気だ」
元々友人らは部活動に勤しんでいるやつらが多い。
俺のような暇人はそこまで周りにいないのだ。
「やっぱり西潟くんを選んでよかった」
「だれだってよかっただろ」
「いやいや。だって結構なこと頼んでいるし、なんならちょっとひどいことしてもらうつもりだからそれなりに悩んだよ」
「ふーん、なんでまた俺を?」
興味本位で聞くと、御厨はじっと俺の顔を見つめた。
「俺は自分が降旗と似ているとは思っていないけど」
降旗と似ていると言われたら心外である。
中学では確かにそういう部類に属していたと思う。
陰キャでコミュ障、目立たず自分に自信のなかった時代。
けれど一念発起し、自分を変えた。
そのおかげで高校での立ち位置はいわゆるカースト上位、クラスでも目立つほうに登り詰めた。
高校デビューというやつである。
妄想だけは人一倍してなにもしてこなかった中学とはおさらばし、高校は楽しもうと。
なにもせずに幸せを手に出来るのはラノベのような物語上の主人公だけ。
多くの人はそれらを自分で掴み取るのだと悟ったから。
「ほどよくチャラくて遊んでそうだったから?」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「そういうところだぞー!」
実際、俺が目指していた像ではあったのでその評価が嬉しかったのは事実だ。
まあ御厨としては計画にピッタリな人間として映ったのだろうけど。
「で、ホントのところはどうなのかなー?」
「どうだっていいだろ」
「つれないなー。彼女は?」
「いたら寛容な彼女だと思う」
「それもそうだね」
それ以上の言及はしないようで、オレンジジュースを一口飲む。
「でも演技力あるもんね」
「どこの演劇部のやつと勘違いしているんだ?」
「いやいや西潟あみるくんのことですよ」
「生憎舞台に立ったことはないんだよなあ」
「いつも頑張っているじゃん」
「……はあ?」
主語のわからない言葉に眉を寄せる。
「べつにいいけどさ」
それには答えず彼女は肘をテーブルに置き、顎に手を添える。
「毎日楽しい?」
「最近は楽しいよ――御厨がいるからな」
キザな台詞を吐いたあと、コーヒーを飲んで口の中をリセットする。
「これで満足か?」
「様になってきたねー」
ご満悦の御厨は楽しそうに足をパタパタとさせていた。
――
最寄りの駅から徒歩10分程度で御厨なぎなの家に着くらしい。
そこから数メートル先にあるのが、幼馴染である降旗だいごの家とのこと。
「あみるくん、今日私の家でなにするー?」
「そうだなあ。なぎなのしたいことがいいかな」
「えー。映画も見たいし、今度お出かけする計画も立てたいし、でも宿題もしなきゃだし」
「多いな。時間足りないよ」
「あ、でも今日はお母さんもお父さんも遅いから、やっぱり……、その……」
「でも俺門限があってさ」
「なんであみるくんが門限あっちゃうのよ!」
「なんて嘘だよ。それでホントはなにがしたいの?」
「そ、それはその……、もうっ! 私の口から言わせないでよ!」
初々しいカップルよろしくな会話をすること数分。
「なあ、もうやめない?」
「だめ!」
恥ずかしさの限界が来た俺の提案だったがすぐに却下される。
「いつだいごが来るかわからないでしょ」
「まだ来ないだろ」
「その油断が命取りなんだからね!」
「はいはい」
ぎゅっと腕を強く組まれる。
密着具合が半端ない。
どこからどう見ても恋人関係であるとだれもが思うだろう。
それが狙いだ。
ふたりこうして堂々と歩いているのは本日が『寝取り』の実行日だからだ。
諸々と伏線を張ったおかげで降旗は言葉にこそ出さないものの御厨の行動に疑念を抱き始めていた。あれだけ仲良しだったのにいまは教室でもほとんど話していない。周囲もようやく御厨の目が覚めたかと騒ぎ出していた。
「ここだよ」
それからしばらく歩くと住宅街のひとつの一軒家の前で止まる。
よく手入れされた庭が目の前に広がり、御厨の育った環境がそれを示しているかのようだ。
「あみるくん」
名前を呼んだあと耳元で「来た」と囁かれる。
降旗の家はここからもう少し先にある。
グッドタイミングだった。
「あみるくん大好き」
後ろに手を回し、抱きしめられる。
後ろで見えないがその足音が止まったのがわかった。
確実に見える角度で、聞こえる距離で。
御厨なぎなは。
「あみるくん」
そっと唇が触れる。
温かく柔らかな感触に虚を突かれ、抱きしめ返すのも忘れてしまう。
「――なぎな?」
発せられた声に唇が離れ、俺もようやく振り向くことができた。
絶望を塗りつぶしたような顔で立ち尽くす降旗。
相手が俺とわかるとさらにその表情が悲しみに埋め尽くされる。
「なにをしているの?」
「ごめん、だいご」
「ごめんって」
「私、だいごよりも好きな人ができたの」
淡々と冷酷にも言葉が落とされる。
「そういうことだから」
「どうして」
「…………」
「どうしてさ」
「だいごが悪いんだよ。優しいだけでなにもしてこない。もっとやりたいこととかしたいこととか言ってくれればいいのに、私の好きなことでいいとしか言わないし。もっとイチャイチャしたいし、もっと意地悪して刺激が欲しいし、もっと私とのことを考えて欲しかった」
どこまでが本音でどこまでが偽りなのか。
御厨の糾弾はしかし降旗の心を確かに抉った。
「それはなぎなを想ってのことで――」
「私の気持ちが離れていっていることにも気づかないで、なにを想っているのよ!」
「なぎなに友達が多いことも、忙しいこともわかっていたから」
「だからなに? だから放っておいたの?」
「そ、そういう意味じゃないけど」
「もういい! そういうところもムカつくの!」
さよなら、と言って俺を連れて家の中へ入っていった。
――
「大丈夫なのか?」
リビングに通されるとソファへ座るよう促された。
「大丈夫。うみちゃんもここの通りだからきっと見つけてくれるはず」
「あいつじゃない。御厨のことだ」
「私? 私は大丈夫だよ。あ、コーヒーだっけ?」
返事も聞かずにキッチンで作業を始める。
「ごめんね。私だけ一方的に話しちゃって西潟くんの出番なくしちゃった。まあでもむしろこのほうがよかったのかも。西潟くんにもあんまり悪いこと言わせられないし」
「唇……震えていたぞ」
「ごめん、キスしちゃって。なんか直前で抱き合うだけじゃだめかと思っちゃったの」
台本と違うことを謝罪されるもそんなことはどうでもよかった。
「本当に別れてよかったのか?」
あの時の痛哭は他でもない御厨なぎなのほうが強かった。
降旗だいごの悲しみよりも彼女のほうがずっと悲しんでいた。
「何度も言っているでしょ。別れたのはだいごのため」
「あいつの幸せのためか」
「そう」
お湯を沸かし終わったのか、御厨はコーヒーを持ってくる。
自分はリンゴジュースのようだ。
隣に座った彼女は一息つく。
「あの時の言葉って結構本気で言ってたんだよねえ。ホントにだいごって優しいから私のやりたいことばっかりして、自分は我慢。そんなに好きでもないのに映画観てくれたり甘い物食べるの付き合ってくれたり、くだらない連絡も嫌な顔せず返してくれたり。でもやっぱり私だってだいごのやりたいことに付き合いたかった。だいごの楽しんでいる姿をもっと近くで見たかった。だってだいごの幸せは私の幸せだったから……」
尻すぼみに小さくなっていく。
「……うっ、うう、だいごぉ」
平気な顔をしていた御厨だったが限界が来たようだ。
「ホントはこうなる前に聞いて欲しかった。嫉妬して強引に問い詰めて欲しかった」
止まらない後悔が押し寄せる波のように彼女を襲う。
「他の人とキスしているんだから怒って、連れ出して欲しかった」
御厨の切願は想い人に届かない。
「こんなに長い間一緒にいたのに……、どうしてあんな簡単に受け入れられるのよ」
震える身体が、頬を伝る雫が、痛切に滲む瞳が。
以前までのように他人事みたいに思えなかった。
すると、とんと彼女の頭が隣に座る俺の肩に当たる。
「ごめん、もう少しだけ……もう少しだけこうさせて」
無言の肯定を示すと彼女は決壊したように大きな声で泣いた。
――
あれから数日が経った。
あの日が金曜日ということもあって御厨と顔を合わすことはなかったが、週明け彼女を見ると普段通りの御厨なぎながそこにはいた。
まるでなにもなかったかのように。
平然といつもと変わらない日常を送っていた。
俺も同じだった。
ダメージなどないに等しい俺が変わるわけがなかった。
ただ御厨と過ごす時間がめっきりと減ったことだけが変わったことである。
変わった、というよりも元に戻ったという表現のほうが正しい。
そして彼女の願いでもあった降旗だいごについてだが。
「降旗のやつ、日森とあんなに親しかったか?」
友人が驚いたように言うのも無理はない。
いま降旗の隣にいるのは日森うみだ。
以前までそこのポジションにいたのは御厨で、いまは日森。
言わずともその関係性があの日をきっかけに変わったのは確かだ。
「なんだ日森も狙っていたのか?」
「ち、違えよ。おれはフリーになった御厨を狙ってんだよ」
そんなふうに軽口を言うくらいに俺もどうでもいいと思えていた。
――だからこのまま終わるのが理想だったんだ。
「あ、に、西潟くん」
同じ学校にいて、同じ学年にいて、同じクラスにいて。
会わないなんてことはなく。
偶然ふたりきりになることだってあるはずなのだ。
「ああ、降旗か」
小便器の前で用を足していた俺を見た降旗が固まっていた。
「トイレだろ」
「う、うん」
「突っ立ってないでしたらどうだ?」
「うん」
隣の小便器についた降旗は緊張した面持ちでベルトを緩めていた。
「日森と付き合っているのか?」
「え!? ひ、日森さんと僕が!?」
「なんだよ、違うのか?」
「い、いやどうだろう。まだ付き合うとかは言ってないけど、デートとかはしている感じかな」
たどたどしく言う降旗に嫌気が差す。
「告白すればいいじゃん」
「え、いや、僕なんてそんな――」
「御厨と付き合っていたくせにそれはないだろ」
その名を口にすることに躊躇はしなかった。
「自慢すればいいじゃんか。御厨の次は日森だって」
「そ、そんなこと……」
小便の終えた俺は洗面器の前で手を洗う。
「俺には関係ないけど」
そこで話を切り上げるように俺はハンカチで手を拭う。
「西潟くんこそ、な、なぎなのこと幸せにしてくれよ」
そのまま立ち去ろうと思ったがまさか降旗のほうから話を振ってくるとは思わず、ぴたりと足が止まった。
降旗も手を洗いにこちらに来る。
「なぎなはすごいいい子だから。絶対幸せにしてね」
「なんだそれ、薄っぺらいな」
「薄っぺらいって……僕はこれでも彼女と長い付き合いをしていたんだ」
「ああ、そう」
どうでもいいとばかりに吐き捨てる。
「べつに御厨とは付き合ってないけどな」
「は……?」
「ん、なんかおかしいこと言ったか?」
「だ、だってあの時、キスをして、あのままなぎなの家に行ったじゃないか」
「キスをしたから付き合っているって、なんだお前童貞かよ」
「ふざけないでよ。なぎなは西潟くんのこと好きだって――」
「俺はべつに御厨のこと好きだ、なんて言ってないけど」
鼻で笑う。
「確かにいい女だよな。けどもう飽きたから捨てた。なんか文句あるか? 元彼くん?」
「お、お前えええええ!」
そのあとのことはあまり覚えていない。
結論から言うと、俺が停学を食らった。
――
頑張って陽キャグループに属するようになったけど、毎日苦痛だった。
大して楽しくない会話に相槌を入れて、面白くないことに共感して。
根が暗い俺にはそんな日常楽しくなくて。
御厨からの提案は物語のような非日常みたいで楽しそうで引き受けて。
でもやっぱり俺の理想は降旗のような――主人公になりたくって。
嫉妬した結果、煽るような言葉を続けて。
ひ弱な拳が俺の怒りをさらに上げて、気づけば殴り返してしまっていた。
あんなに完璧なヒロインがいて、その子の想いに気づかないなんて――
「あ、不良生徒発見」
停学明け、反省文諸々を職員室に届けて当てもなく歩いていると後ろから声を掛けられる。
「御厨か」
「私、あそこまで最低な人を演じろって言ってないんだけど」
近づいてきた御厨を一瞥し、俺は気まずくなり首筋を揉んだ。
「悪かったよ。降旗にあんな怪我を負わせて」
「ホントだよ。暴力は絶対だめ」
母が子を叱るように言うと御厨はおもむろに俺の頬に触れた。
「西潟くんは大丈夫?」
「むしろどこに傷があるのか教えて欲しいくらいだよ」
「そ、ならいいけど」
なにを心配しているのか、御厨は一安心する。
「まだついてくる気か?」
「また暴力振るうかもしれないから監視しないとね」
「だから悪かったって」
反省はしている。
これは本当にしている。
さすがにもう少し加減すればよかったとも思っている。
「降旗はどうしたよ?」
「だいごは普通に登校しているよ」
「そういうんじゃなくてだな」
「謝りたいってこと?」
「それもあるけど……、仲は戻ったりしていないのか?」
「残念ながら西潟くんの期待には応えられませんでしたよー」
「は、いや、べつに俺は……」
「私のためにしてくれたんでしょ?」
びしっと人差し指で差され、心の内を探るように視線が注がれる。
「トイレは公共の場所だよ? だれかに聞かれる可能性考えなかったの?」
どうやら俺たちの言い合いは筒抜けだったらしい。
確かに殴ったあとすぐ人が駆けつけてきたっけな。
「けど今更そんなことしたって私はもう……」
「ん?」
小さな声で言った言葉を聞き返すと彼女は首を振る。
「どうせ私はヤリ捨てられた女ですよ」
「ぶっ――そんなことまで知ってんのかよ」
「あーあー、チャラ男に捨てられた私って惨め」
「そこは、マジですみません」
「なにかしてくれるのかなー?」
「わかったよ。なんか考えとくよ」
「え、ホントにっ? ありがとう!」
どういうわけか俺の日常にもう一度花が咲いた。
この花をだれかに取られたくないと思うようになるのはきっとまだ先のことだろう。