とある黒色の切望
現世から強引に抉じ開けられた黄泉の門の前で、満は気を失った晶子のその顔を覗き見て、『随分と素朴で平凡な輝きを持つ者』だなと思った。
常世に堕とされた日、まだ理性と知性を保ったままの死者達から一般的な教養を学び、満は健やかに成長する事が出来た。
身に宿る闇の力の強さからいつしか常世を統べる者として崇められるようになり、時に怨霊と化した者を粛清し、時に未練によって摩耗する魂と契約して黒い手に変えたりしつつ死者達を円滑に次の輪廻へと乗せる日々に勤しみ……気が付けばそれが満の日常へとなっていた。
とはいえ、現世の事に全く関心が無いわけでは無かった。この数百年、特に満が常世に堕とされた真実を新が知った頃に瞬間的に増えた異種族・有翼族問わない死者の数に、何か良からぬ事が起きようとしていると直感していた。
(まさか創世の女神が関わっているとは、夢にまで思わなかったでありんすが)
晶子と共に常世に落ちて来た弦——基、黒羽達からの説明を受け、満は密かに溜息を吐いた。
満は有翼族の死者達から度々話を聞き、現世の情報をある程度聞き及んでいた。
その度、何度常世を抜け出して新の元へ駆けつけようかと思った事か。
(けんど……あちきがあの頃に常世を抜け出して新の元へ駆けつけちまっていたら、きっとあの子は即一族郎党皆殺しにしていたでありんしょうね……)
真実を知ってすぐの新は、手が付けられない程に荒れていた。表面上は穏やかな好青年を装いながらも、気に入らない言動をした者——特に大人の有翼族がいればその場で死罪を言い渡し有翼族の戦士達に処刑させていた程だ。
満自身、己を常世に堕とした同族に未練も憐憫も無い。だが自分が会いに行った事で罪なき子供達が犠牲になるのは違うだろうと、歯痒い気持ちを押し殺しながらそれでもいつか現世へと出ていける機会をうかがっていたのだ。
そして、そのチャンスが今ようやく訪れた。
「あたしが聞きたいのは——貴女、本当に弦ちゃん?」
(ぱっとしねえ輝きだとばかり思ってやしたけど、とんだ見当違いでありんしたね)
問いかけの形を取ってはいたが、弦の振りをしていた黒羽達をあっさりと見破った晶子の言葉には確信が込められていた。
凛とした声色、黒羽達を真っ直ぐと射抜く視線、何より彼女の中から溢れ出る清涼で煌々としたマナ。晶子の全てが、彼女が凡庸な人物では無いと物語っていた。
さぞプライドが高いのだろうと思って成り行きを見ていた満だが、直後に黒羽達の話を聞いて頭を抱えながら呻き出し、しまいには女神を怒鳴りつけて呼び出す姿に唖然とする。
コロコロと変わる表情の忙しなさは、どこにでもいる普通の少女と大差ない。
(不思議と、晶子様のそんな様子に安堵を覚えている自分がいんす。不安も憂いも一切のう、この方なら大丈夫だと、そんな安心が)
黒羽達と女神、そして晶子の三者の会話にただただ黙して耳を傾けていた満は、時折聞きなれない単語に首を傾げつつも、凡その事は理解した。
(まぁ、本音を言えば女神の言葉がどこまで信じられるのか分からねえけれど……少のうとも、黒羽様と白雲様、何より晶子様が信を置いているようでありんすし……一先ずは信用してもいいのでありんしょう)
この場では関係無いだろうと思いあえて話題を逸らすようなことをしたが、実の所満が晶子を疑ったり忌避したりしないのには明確な理由があった。
(この方と、あちきは前にもあった事がありんす。それも一度では無う、何度も、なんども)
はっきりとした事は何も思い出せない。それでも、霞靄がかかった記憶の中で、自分の名を泣きながらに呼ぶ声を覚えている。
(顔を合わせたのは初めてのはずやのに、黄泉の門の前で晶子様を見つけた時、心から嬉しいと、歓喜の気持ちが沸き上がりんした)
奮い立つような、血が沸騰するような至上の喜びが全身を駆け抜けた衝撃を、この先一生忘れる事は無いだろう。
(女神の事も異界のお話も、分からねえ言葉ばかりやけど、一つだけ確かな事がありんす。晶子様は誰よりも、この世界を——私達を愛してくれてやす)
直感でしか無かった満のそれは、比較的すぐに証明された。
「こ ろ し て や る ! !」
現世で新と無事に再会を果たしたのも束の間、《紛う者》を討伐せんと戦っていた中で起きた惨劇に、晶子の怒りが爆発した。
戦場となった『根の間』だけでなく神樹外にまで漏れ出ていそうな殺気と、全解放された高濃度のマナに晒され、満の体は抵抗する事も出来ずに膝をつく。
(……っ、なんて、なんて重いマナでありんしょう)
空間ごと全てを圧し潰してしまいそうな重圧に、満は生まれて初めて真の恐怖を味わった。
緊急事態の中でも、決して強気な笑顔を絶やさなかった晶子。しかし、今の晶子からは笑みが消え、《紛う者》を無表情で睨みつけるのみ。
透き通った夜空のような瞳は憤怒に濁り、一方的に《紛う者》を蹂躙する姿は意思無きゴーレムのようで。そんな無機質で人間味の無くなった晶子の姿はさながら神罰を降す神のようで、荒々しい神々しさに満は血の気が引く思いだった。
幸か不幸か、《紛う者》の羽化によって正気を取り戻した為に事無きを得た。幾分かスッキリしている様に、心底ほっとしたのを覚えている。
(それだけ晶子様にとって、弦は大事な愛し子でありんしたという事でござんしょうけど…あのまま暴走されていては、先に私達の方が駄目になっていたでありんしょうから助かりんした)
少なくとも、弟の新も同じ想いだったようだ。双子故に感じ取る事の出来る彼の感情は、晶子に対して一定以上の畏怖を抱いている事を伝えていた。
(そんな新にもすぐ気付いてフォローを入れて下さんだから、なんだかんだ憎めねえ人よね)
恐ろしいという気持ちは残っている。けれど、それ以上に晶子から無条件で注がれる愛に、もっと浸っていたいと思った。
「君のやった事は、褒められたものでは無かったかもしれない。自分本位な願いの為に沢山の命を踏み台にした結果、今この状況が起きているのかもしれない。……でもね、大事な人を取り戻そうと足掻き藻掻いた新くんの人生を、あたしは否定なんてしたくないよ」
悲劇のヒロインぶって崩れ落ちる新を打って叱責した満とは対照的に、いけない事だったと言葉で諭しつつ、弟のやった事を否定はしなかった晶子。
武器の再編を成した事で一気に攻勢に打って出た晶子により《紛う者》は討伐され、怨霊達の邪魔がありながらも黒い手のおかげで弦達の魂も回収できた。
後は二人を再編するのみになったが、罪の意識から手を貸す事を渋り始めた新に対し、晶子が言い放ったのは鋭い刃のような激励だった。
「君はさっき言ったじゃないか、罪に向き合うって。なら! こんなところで足踏みしてる場合じゃないだろ!! 腹ぁ括れ! 罵倒も蔑みも嘲りも、全部ぜんぶ受け止めろ!! かつてとは違う辛さと苦しみに苛まれようとも、お前はそれ相応の責任を負うしかないんだ新!!」
「罪に向き合う事は、怖い事だ。でも、あたし達はそれでも進まなければいけない。……一人は怖いよ、あたしだって。だから手を借りるんだ。助けてもらうんだ」
「新くん。あたしは君に助けて欲しいんだ。君じゃなきゃダメなんだ。君と、君のお姉さんの二人じゃないと、きっと弦も族長も再編出来ない。だからお願い、力を貸して」
(そんな風に言われちまっては、折れる他ありんせんね)
これ程熱烈な口説き文句でお願いされてしまっては断る選択肢などあるはずなく、新は自信なさげにしながらも首を縦に振ったのだった。
(まぁ……まさか、淀みの精霊が直々に現れるやなんて思ってもみのうござりんしたが)
まさか過ぎる存在の妨害にあいつつ、晶子は見事弦達を再編する事が出来た。そして、それは同時にここまでついて来ていた黒い手との契約の終わりを意味していた。
(……未練を断ち切る為の契約ではあったけれど、この魂の状態で良うもまあ今日まで存在出来てやしたね)
得鳥との契約は、彼女の未練たる弦と族長の関係を改善させるまでを条件としたものだった。長らく解決法の見つからなかったそれらに終止符が打たれた事で、得鳥の魂は予定通り輪廻の中に戻る事になる。
正直に言えば魂の摩耗が酷過ぎた事もあってそう永くはもたないと思っていた満だったが、母が子を、そして妻が夫を愛する心を見誤っていたと反省した。
けれど結局、晶子のマナを間借りしたとしても実体を維持するのは厳しかったようで、得鳥は別れの言葉を最後に引き留める夫の目の前で消えて逝った。
(……父と子、か)
悲しみに沈む族長とそれを支え慰める弦。二人の姿はある意味、満が思い描いている家族の形そのもので、それをほんの少しだけ羨ましいと思った。
(それにしても、良く寝ているでありんす)
話し合いの後、淀みの精霊の関与が確実になった所で倒れた晶子の寝顔は、さっきまでの死闘が嘘のように酷く穏やかだった。
「このままでは体を冷やしてしまいますね。上層へ戻って、無事な巣が無いか探しましょう」
「お、そうだな! 俺様達もくたくただし、休めるとこ探そうぜ」
「貴様は大して働いておらんだろうが」
「なぁにお~!? 俺様はガキンチョ共の相手に大忙しだったっての!!」
早速軽口を叩き合う族長とアルベートに、満はやれやれと肩を竦める。先導しようとする新に続いて立ち上がったその時。
⦅ダメ!!⦆
「!?」
脳内に響くようにして急に聞こえて来た弦の声に、ばっと彼女を振り返る。
呆然とした様子で弦が見つめる方向に何があるのかと注視してみれば、神樹よりも遠くから異質なマナがこちらに狙いを定めていたようだった。
(全く気付けのうござりんした……この、異様なマナは一体……)
警戒を緩めずに弦の話に耳を傾けていれば、未來と言う名の存在が攻撃をしようとしていたのだという。
(淀みの精霊に付き従う者……次から次に厄介なものが現れんすね……)
上層への移動中に鑪とアルベートから教えられた未來の情報に、満は頭を抱えるしか無かった。同時に、晶子の事が心配になる。
例え晶子が女神の御使いとして選ばれ、武道の心得がある戦士であったとしても、相手は簡単に人体を淀みで汚染してしまえる力を持つ神に近しいモノ。
更にその傍らには、女神を憎み狂気と淀みによって堕落したかつての異界の巫女がいるときた。
(……けど、どんな苦難が待ち受けようとも、晶子様は立ち向かっていくんでありんしょう。この方はあちきや新、この世界の全てを愛しているが故に)
引き留めた所で、きっと晶子は止まらない。己の愛する者達が幸福であれるよう、それこそ死力を尽くして戦い続けるだろう。
(神樹から出てしまえば、常世の主であるあちきに出来る事はありんせん。ならばせめて、彼女の無事を、彼女の幸福を願いんしょう)
それが、旅に同行する事もしてやれない満が唯一可能な事。この先も、数多の困難に苛まれ苦悩するだろう晶子にしてやれる、ただ一つの事。
(それくらいなら、許されるでありんしょう? 創世の女神様)
『利他的に献身を尽くす人』である晶子の幸福を、満は強くつよく願うのだった。
次回更新は、7/4(金)予定です。




