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「……そうね、やろうと思えば確かに再編する事は出来るよ」

※ 一部誤字や文章の違和感に気が付いたので修正しました。

「わしにとってはお前が、得鳥だけがこの世の全てだ。全てだったのだ!!」

 強く強く握りしめられた拳を見て、族長が如何に得鳥を想っていたのかを改めて思い知る。

「お前ならばわかるだろう? わしがかつてこの樹で、有翼の一族でどんな扱いを受けたか! 魔力の腕も半人前、武術の才は無い。仕舞には『灰色の翼なぞみすぼらしい』と馬鹿にされ……ついには戦場に塵のように捨て置かれた! 己の無力さに歯を噛みしめ、同輩からの嘲笑を一身に受けるしかなかったあの時、どれ程の屈辱と苦痛に苛まれた事か。どれ程、この不完全で未熟な体を呪った事か!!」

(……あぁ、この人も苦しんでたんだな)

 血を吐き出すのではと錯覚する程の慟哭に、晶子は目を伏せた。常世で彼の人の過去を掻い摘んで聞いてはいたが、族長の心の荒みようは想像以上だった。

(長い差別生活が身に染みてる中で、唯一自分に優しく分け隔てなく接して愛してくれた女性……そら、依存するのも致し方ないってもんか)

 どれだけ努力しようと、どれだけ死に物狂いで学ぼうと、彼を認めてくれる者はいなかった。むしろ、その努力すら無駄だと蔑まれ、笑いの的にされていたのだろう。

 そんな時に現れた己を認め包み込んでくれる存在に、依存するなと言う方が無理な話だ。

「そんな苦痛な人生も、得鳥が居ればどうでも良かった。お前さえ傍にいてくれるのであれば、例え同族から嗤われようと、罵詈雑言を投げつけられようと気にならなかった。名誉も栄光もいらぬ、わしはいずれ生まれてくる子と三人で、家族で幸せに暮らせればそれで良かった!!」

「お父さん……」

 今にも泣きそうな——否、既に泣いているのかもしれない——父親の言葉に、弦が悲し気な表情で一切こちらを見ない背中を見つめていた。

(居場所を持てなかった男が、ようやく手に入れた人並みの幸せ)

(だが、そいつもそう長くは続いてくれなかったってわけだ)

 脳内で語り掛けてくるアルベートに、ひっそりと頷き返す。なぜなら晶子達は、彼の家族が辿る顛末を既に目撃しているからだ。

「なぜだ……なぜお前が死なねばいけなかった、なぜお前だったんだ!? お前は一族の為に薬師として力を尽くし、多くの同胞達を癒してきた! 心を砕いてきた!! それなのに彼奴等は恩を仇で返し、衰弱していく得鳥を見殺しにしたのだ!!」

「あの人達には、どうしようも無かったのよ。治療法も無く、病状の進行を遅らせる方法も今と違って見つかっていなかった。だから、何かしようにも何も出来なかったのよ」

「だとしても!! 彼奴等がお前から距離をとっていたのは明白だった!! わしは覚えておる、まるで汚物を見るような目でわしらの巣を睨んでいた同胞達の事を!!」

 落ち着かせようと諫める得鳥の言葉も、今の族長には火に油を注ぐものだったらしい。頭を掻き毟り、忌々しい記憶に音が鳴る程歯を食いしばる男からは、底知れぬ果てしない怨嗟が溢れている。

「得鳥が死んでまもなく、あの病は黒点が浮かび上がる様から『黒黴病』と名付けられた。……足跡のない新雪の上に滲む黒インクが如く、忌々しいそれが得鳥の亡骸から命名されたと知った時、わしの心に一族に対する激しい憎悪が沸き起こった」

 ぴたりと動きを止めた男の腕が、重力に沿って力なく垂れさがる。膝をついて床を見つめたまま動かなくなった族長の背を、得鳥の少し透けた手がそっと撫でた。

「苦しむ得鳥を見殺しにしておいて、彼女が死んだ瞬間、皆掌を返したように好意的になった。散々わしらを嫌煙しておきながら、得鳥のおかげで病の研究が進んだと諸手を上げる者。迷惑そうにしていたにもかかわらず、さも悲しんでいると言いたげに涙を流す者。あまりの態度の変わりように、腸が煮えくり返って仕方が無かった。だから、わしは決めた。いつか必ず得鳥を、最愛の妻を傷付け、直接的・間接的に問わず死に至らしめた者達に復讐すると」

「だからって、それが愛した人が命がけで産み落としてくれた子供を蔑ろにする理由にはならないでしょ」

 推しを愛するオタクとして、族長の気持ちは痛い程理解出来た。しかしながら、それを正当化するには族長はあまりにも非人道的になり過ぎていた。

「……分かっていた。弦は何も悪くないと、頭では理解していた。だが、止められなかった。わしにとって、得鳥はこの世の全て。何物にも代えられない、ただ一人の存在だった。その妻の命を吸い上げて産声を上げた娘を、わしは……!!」

(……?)

 ふと、晶子は族長の懺悔に首を傾げる。先程、得鳥が『弦の解れた服を繕って』と言う下りにも些か違和感を覚えていたが、ここに来てその妙な引っ掛かりが明確になった。

(なんか、族長って思ってるより弦ちゃんの事恨んで無かったの? でも生贄にしたりとか……いや、なんかやっぱり引っ掛かる)

 族長は得鳥に対して重度の依存傾向にあった。その依存相手が亡くなれば、順当にいけば次の矛先は弦に向かうはずである。

 なんせ族長は得鳥以外に同族相手に親しい者はおらず、慟哭の内容からしてもどちらかと言えば毛嫌いして孤立していた。

 そして何よりも、弦は族長が愛した人との間に()した娘だ。

(ん? そういえば……得鳥さんが亡くなったのって、弦ちゃんが生まれて数日してからって黒羽達が言ってたような……?)

(おいおい、だとしたらいよいよ可笑しな話じゃねぇか。少なくとも、その数日間は夫婦で話し合う時間はあったんだろ?)

 独り言に近い思念に介入して来たアルベートへ、晶子は視線だけで肯定を返す。彼の言う通り、もし黒羽達の言っていたことが本当なのであれば、得鳥は族長が娘の名付けをした事を知っているのにも合点がいく。

(いくら奥さんへの依存が高いって言っても、名付けをするくらいには愛情が芽生えてたって事でしょ? この取り乱しよう見るに、全体的に相手へ向けた愛は重めって感じだし)

(だな。でもよ、そうなるとこいつは一体全体どういう理由で娘を毛嫌いする事になったんだ? まさか、嫁さん無くなって急に態度を変えたのか?)

 考えられなくは無いが、娘を邪険に扱った事を悔いる発言に嘘はないように見えた。となれば猶更態度が急変した理由が分からず、晶子とアルベートは揃って首を傾げる。

 すると、族長が急にこちらを振り返ったかと思えば、真っ直ぐに晶子の元まで転がるようにして駆け寄って来る。

(おわぁ!? なになにどしたの!?)

 驚き固まる晶子の様子など気にも留めていないようで、族長は晶子の服の裾を握り閉めると、最後の希望だと言わんばかりに懇願した。

「女神の御使い、再編者よ! お前なら妻を、得鳥を再編できるのでは無いのか? わしと弦を再編したように、この世に新たに編み直してくれないか?」

「っ、それは……」

 縋りつく男の姿に、晶子は言葉を詰まらせる。彼の言うように、再編の力を持つ晶子であれば確かに得鳥を編み直す事は容易い。

 だが、それに簡単に頷ける程、簡単な事では無いのだ。

「……そうね、やろうと思えば確かに再編する事は出来るよ」

「!! ならば!!」

「でも、それが本当に『得鳥さんである確証はない』よ」

 晶子の一言に族長だけでなく、アルベートを除いた周囲の者達に困惑が広がっていく。

「そ、れは……どういう意味だ」

「言葉の通りよ。得鳥さんの魂はあるし、再編に《紛う者》の亡骸みたいな素材は必須では無いからすぐ始める事も出来る。でも……得鳥さんの魂は、無くなってから長い時間が立ち過ぎてる」

 先の話で得鳥自身も言っていたが、彼女は常世に落ちてからもずっと家族の事を想っていた。その想いの強さは『怨霊』になるには十分なものであり、あわや変質するという所で満による縛りで事なきを得た程。

(体越しに魂を直接見てる訳じゃ無いけど、マナの流れを見てるだけで察しちゃうよね。だって、薄い(・・)んだもん、得鳥さんのマナの流れ。むしろ、途切れ途切れで今にも完全に切れちゃいそう……)

 しかし、その縛りすらも破りかねなかった想いの強さは、魂を摩耗させるには十分だったに違いない。

「得鳥さんはね、死んで常世に行ってもずっとあんたと弦ちゃんの事を案じてた。自分が居なくなった事で荒んだ生活をしていないか、悲しみに暮れていないか、寂しい思いをさせていないかって。さっきの話、聞いてたでしょ?」

「だからなんだと言うのだ、それとこれがどう得鳥である確証は無いという話に繋がるのだ!?」

「っかぁ~!! あんたも大概ニブチンね!! 怨霊になる一歩手前になるまでに魂が摩耗してんのよ? 擦り切れてんの!! 今の得鳥さんは、罅の入った硝子細工も同然なのよ!!」

 そう言った晶子言葉に、鑪が真っ先に察したのだろう。悲痛そうに触角を揺らし、緩く首を振っていた。

「あぁ、うん……今俺様も改めて見たけどよ……これじゃ、お前も即答出来ないわな」

 同じくマナの流れを見る事が出来るアルベートも、得鳥に流れるマナの希薄さに気が付いた様子。

 目元のライトがバツ印で点滅し、手の施しようが無いと両手を上げて見せるほどだった。

「おい! いい加減にしろ! 勿体ぶってないで」

「得鳥さんの魂は、再編に耐えきれ無いのよ!!」

 晶子の一番の懸念点、それは仮に再編を行うとして『得鳥の摩耗し過ぎた魂が再編に耐えきれるか』と言うものだった。

「魂が摩耗してるって事は、再編による外部からのマナ干渉を受け止めきれる程の耐久性が無いの。罅の入った器に無理やり物を詰め込めば割れるのと同意……つまり、再編したとしても途中で魂自体が崩壊して消滅する可能性の方が高いのよ」

「そ、んな……し、しかし、成功する可能性が無いわけではないのだろう!?」

「万が一に成功したとして、それは崩壊して消えかけた得鳥さんの魂の大部分が別のマナで補われた存在。姿形だけが同一の——『全くの別人』だわ」

 そこまで言えば、流石の族長も無理なのだと察しがついたのだろう。絶望に顔を歪めた彼は、しがみ付く力を失ってずるずると崩れ落ちた。

「なぜ、なぜわしらは再編されたのだ……素材があったからか?」

「素材の有無は関係無いよ。言ったでしょ、再編の核——魂の状態が良いか悪いかの違い」

 過去二回の再編は全て、彼ら彼女らが死亡後間もない頃に行われた。アルベートの時もアメジア達の時も、そして今回の弦達に関しても、死んで然程時間が経っていなかった為に核となる魂は無傷に近い状態で残されていた。

 一方の得鳥だが、彼女は死後既に数百年の時間が経過している。その上、『怨霊』になる程強烈な想いを持ち続けながら黒い手になっていた事で強い負荷がかかった状態であり、マナを見通す晶子の目から見ても手の施しようがないのは明白だった。

「正直、この状態で良くまあもってたなって思うよ」

「そんな、ですか?」

「ドン引きよドン引き」

「マジやべぇって言葉しか出てこねぇよこんなの」

 新の問いかけにアルベートと揃って真顔で答えれば、彼の顔面から一気に血の気が引いていく。事の成り行きを見守る弦も、倒れてしまうのではという程に青褪めていた。

「満ちゃんは……当然分かってたよね?」

「……えぇ、えぇ、なんせ得鳥に縛りをつけたのはあちきでありんす。それに、あちきは常世を統治する者、己の部下の塩梅くらい把握しておりんす」

 そう言った満に、族長は血走った目で食って掛かる。

「ならばなぜこんな事に!! 貴様がもっとしっかりと管理をしていれば、得鳥の魂は!!」

「無駄でありんす。洗礼を受けねえまま長期間常世に居るという事は、それだけ剥き出しの魂を外気に晒し続けるという事。なれば必然と摩耗する事を避けられはしんせん」

 つまるところ、得鳥の魂が擦り減るのを防ぐ方法は無かったのだ。

(たった一つ方法があったとすれば……得鳥さんが、家族の事を忘れて早々に洗礼を受ける、かな)

 だが、例え時を巻き戻したとしても、得鳥がそんな選択をするとは到底思えなかった。

「あ、あぁぁ……」

 とうとう完全に脱力して座り込んでしまった族長に、弦がそっと身を寄せる。が、娘が傍に来た事にも気が付いていないらしく、彼の目からは一気に生気が失われてしまった。

(ショック過ぎて弦ちゃんを振り払う気力も無い、のとは違うっぽい? これは本気で絶望してる顔だ)

 そうなっても無理は無いと、晶子は目を伏せる。晶子だって、出来る事ならば得鳥にもこの世界へ戻ってきて欲しいと願っている。

 黒羽と白雲の事もそうだ。永い永い苦しみの果てに得るものが何物にも囚われず、自由に世界を生きる権利であっても良いじゃないかと今でも思っている。

 けれど、黒羽達が望んだのは解放だった。最後の力を振り絞って淀みの精霊を撃退し、晶子を救った英雄達は、ただただ安寧の中に眠る事を選んだ。

 晶子が知る二人は、WtRsで語られる伝聞だけ。更にいうなれば、本の数行程度の情報しかない。

 だから、自由に生きていけるようになった光と闇を背負った双子と、もっと話をしてみたかった。二人しか知らない英雄達の小話や過去の日々、どんなことをして、どんな物を見てみたいか。良くある友達の世間話のように、二人と語り合いたかった。

(結局、これは全部あたしのエゴでしかない。あたしが、一方的にそう願っているだけの我儘でしかない。それでも、黒羽達には生きてこの世界を羽ばたいて欲しかった)

 そんな晶子の願いが叶う事は、二度とない。

「……も」

 ふと、族長がか細い声で何かを呟き始める。一言一句漏らさぬよう耳をそばだてれば、彼の口から紡がれる言葉は、あまりに切実で哀惜の籠ったものだった。

「それでも、得鳥が、弦の母が還って来るのならば、わしはどうとなっても構わない……代償が必要なのだと言うのであれば、この身が業火に焼かれようと、針山に貫かれようと、この翼すら差し出そう。どんな罰も責め苦も受け入れる。だから頼む再編者よ、得鳥を……得鳥の再編を……」

「お父さん……」

 自身の身すら差し出すと宣う父親に、止まっていた筈の弦の涙が再び流れ出す。得鳥も何か言いたげにはしているものの、果たして自分が言っても良いのかと僅かな躊躇が生まれているようだ。

「……ねぇ、族長」

 晶子は族長の元に歩いていくと、彼に目の前で片膝をついた。

「あんたはさ、得鳥さんに帰ってきて欲しいの? それとも、姿()()()()()()()()()()()に帰ってきて欲しいの?」

 そう言った晶子の言葉に、族長がハッとしたように顔を上げた。

「あんたが得鳥さんの事を大切に想ってるのは、今ので十分な程に伝わってる。あたしはまだ、あんた達みたいに一生を添い遂げたい最愛の人ってのはいないけど……そう思う位に大切な人なら沢山いる」

 晶子の脳裏に浮かぶのは、この世界で出会った人々の顔。そして、いつか出会うであろう人物達の事。

「あたしにも、大切に、大事にしたいって思う人達がいる。その人達を救う為なら、あたしは何だってする覚悟があるよ。でもさ、それだけで全てが上手くいくなんて事はないんだよ」

 覚悟を決めただけで救える命があるのなら、晶子はいくらでもそうするだろう。だが、世界というものは決してやさしいだけの場所では無い。

 晶子がどれだけ高い理想を語ったとしても、どれだけ崇高な誓いを掲げようと、万事が万事上手くいくなんて保証は無いのだ。

「大切な人達を救う為、この世界に呼び戻すために力を使う事をわたしは厭わない。……けれども、それはあくまでもその人本人でなければ意味がないの」

 族長に言ったように、無理を通せば得鳥を再編する事自体は可能だ。しかし、その末に織り直された存在は、果たして『得鳥本人である』と言えるだろうか。

「……あんたが大事な人を取り戻したいって気持ち、痛い程分かるよ。成功するかも微妙な手段に縋るくらい、それだけ得鳥さんがあんたにとって心の拠り所だったんでしょ。でもさ」

 そこまで言って、晶子はかっと目を見開くと、男の襟首を掴み上げる。

「ぐっ、なにを」

「あんたは、あんただけはそれを言っちゃいけなかった。例え藁にも縋る気持ちであったとしても、小指の先ほどの希望が見えたとしても……あんただけは、『得鳥さんの前で彼女を否定するような事』は言っちゃいけなかった!」

 恐らく、族長自身は得鳥を求めるあまりに言葉自体に深い意図は持っていなかったのだろう。それでも、一度再編を拒否した晶子の耳には、彼が最愛たる妻を蔑ろにしているようにしか聞こえなかった。

「今あんたは、側だけ同じなら中身なんてどうでも良いって言ったも同然よ」

「ち、ちがっ」

「あたしは何度も言ったよ? 得鳥さんの魂は摩耗が激し過ぎて、下手に再編すれば消滅、良くても全く違う誰かになるって。それでも再編を望んだのは、つまりそう言う事でしょ?」

「違う!!」

 畳みかけるように言葉を重ねる晶子の腕を、族長は荒々しく振りほどく。

「わしは! わしは……っ、そんなつもりでお前に再編を頼んだのでは……!!」

「あなた、もう良いのよ」

 何も聞きたくないと言いたげに耳を塞いで蹲る男の正面に、得鳥が座り込む。下を向く族長の顔を両手で包み込み、そっと上げさせながら微笑む様はまるで聖母のようだった。

「あなたの気持ち、凄く嬉しかった。いつまでも、わたしの事を想っていてくれて、わたしを心から愛してくれて」

「いやだ、やめろ、得鳥。頼むから」

「晶子様の仰ったように、わたしの魂は再編には耐える事は出来ないわ。無理も無いわね、ずっとあなた達に執着して、怨霊になる一歩手前までいったんだから」

「頼む、得鳥、お願いだ。やめてくれ、得鳥」

「満様のおかげで一時的に黒い手の姿をとっていれたけど……それも、時間の問題だった。それだけ、わたしはあなたが、弦が——愛おしくて仕方なかった」

 いやいやと子供が駄々を捏ねるように首を振って懇願する族長の声を聞き留めず、得鳥は尚も歌うように言の葉を紡ぐ。

「わたし、幸せだったわ。あなたと出会えて、弦を生むことが出来て。それに、もう二度と会う事は出来ないと思っていたのに、最後にこうして顔を合わせて二人と話も出来た。名残惜しさはあるけども、わたしは十分に時間を貰ったわ」

(ぁ……)

 満足そうに笑った得鳥の体が、徐々に消え始める。それはつまり、彼女が現世に残して来た未練を解消し、輪廻の流れに身を任せようとしている事を意味する。

 そっと目線だけ満に移せば既に魂を洗礼へ導く手筈は整っているらしく、晶子の視線に気付いて小さく頷いた。

(……大丈夫。満ちゃんが道を示してくれるから、きっと迷う事は無いよ)

「うふふ。えぇ、きっとだいじょうぶ」

 心の呟きに答えるように、得鳥が誰にともなく呟いた。

「弦」

「は、はい!!」

 母親の呼びかけに近づいた弦の頭を、得鳥は慈しみを込めた手つきで撫でる。そのまま額同士をくっつけた得鳥に弦が驚いていると。

「お父さん、強情でしっかり者に見えるけど、意外と寂しがりやさんだから。酷い事も辛い事もあったと思うけど、わたしの分まで傍に居てあげて支えてあげてくれる?」

 辛うじて晶子にも聞き取れた声量で、得鳥は囁いた。

「っ……うん、ちゃんと一緒にいるよ。だって、たった一人の家族なんだから」

 瞳から幾つもの雫を零しながら、それでも嗚咽の一つも漏らさず弦は答えた。娘の返答に眉根を下げて笑みを零すと、得鳥はとうとうほとんど消えてなくなった右手で族長の頬に触れる。

「っ、えとり……いかないでくれ」

「さようなら、愛しい人。わたしの太陽、わたしの月」

 涙を止めどなく流しながら引き留めようとした夫に別れの言葉を残し、得鳥の姿は霞の如く消え失せてしまったのだった。

次回更新は、6/6(金)予定です。

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