序章Ⅱ
午前八時。俺はベッドから上半身を起こす。
あれから一週間近くが経った。それは長いようで短いような、そんな曖昧模糊とした時間だった。
秋ノ原とは度々、メールをしていた。それは何気ない会話であるにも関わらず、何度も読み返してしまう。俺はそれが――不思議なことのように思えた。
ここんとこ雪は降っていない。最近はずっと、空は曇りのない晴天だ。
――おかしい。
そう思えるほど、何もかもが清々しい。不思議なのは※幸運なことが起こりすぎている(傍点強調)ということだ。
例えば、遅刻しそうな今朝、電車に乗り遅れたと思った矢先に、電車が遅れて到着したり、朝ごはんを食べるときに、卵の黄身が二つになっていたり、コートの中から、取り忘れていた千円札が入っていたり、買い物した時の合計金額がゾロ目であったりと、これはここ一週間の出来事だ。
それに、一番は秋ノ原と出会えたことだ。これは幸運という文字では言い表せない豪運だ。秋ノ原がどう思っているかは知らないが、少なくとも俺はそう思っている。
この感情は知らない。メールでのやり取りはあっても、直接話したのはあのクリスマスの一時だけだ。けれど、俺は、秋ノ原虎路が――好きになったのかもしれない。
そう考えながら俺はカーテンを開ける。そこには何度も見た透き通る青空が広がっていた。
「秋ノ原はいま、なにしてるんだろう」
と、思っていたら携帯に通知が入った。俺は携帯を確認する――秋ノ原だ。
『今日って予定あるかな?』
つまりこれは……デー、いや違う。それは早計にも程がある。
「早まるな俺、まずは状況の確認だ」
今日は大学もない至って普通の休日。予定と言えば卒論の参考文献を探しに図書館に行くはずだった。しかし、今となってはそれはどうでもいい。つまり――予定はない。
こんなチャンスを逃すのはもったいない。好機逸すべからず、善は急げだ。
俺はさっそく返信をした。
『予定なんてないです』
数秒、メールを送ってからすぐに返事が返ってきた。
『なんか変な言い回しだけど了解! 詳細は会ってから! 待ち合わせ場所は午後一時に駅前のよくわかんない銅像で! 遅れたらぐーぱん!』
俺はそれを確認すると早急に支度をする。それにしても秋ノ原ってメールだと物騒になるんだよな。秋ノ原のパンチなら全然うけてみたい気が無きにしも非ず。
俺は二律背反する思考を頭の隅に追いやり気づく。
「服って何着たらいいんだ……」
まさに雷に打たれたようだった。おしゃれというおしゃれをしたことがない俺にとってはまさに一触即発、万事休す。助けてください神様仏様。
時刻は九時前、残された時間は四時間ちょっと、俺は大学受験の時よりも思考を巡らせる。
今から買う――ノーだ。あまりにも時間が足りない。ここはちょっとした片田舎、ショッピングモールに行くにも時間がかかる。それならスーツで――ノーだ。またバカにされるに決まっている。いっそのこと大学に行くときの普段着で行くか、俺にとってこの選択肢が一番無難な気がする。よしそれで行こう。
一応、風呂に入り、朝食の準備をする。冷蔵庫から卵を一つとり、あらかじめ油を引いたフライパンに入れると、決まって黄身は二つだった。
身支度をして家を後にし、スエキチに餌をやる。外は変わらず晴天だった。太陽は顔を出しているが外気温はやはり低い。道中にある河川敷には子供が数人「雪、降らねえの?」と訝しんでいた。確かに去年はもっと雪が多かったはずなんだけど。
駅前についた。目印の銅像は目立つので離れていてもよく見える。時刻は一二時四五分、きっぱり一五分前行動だ。これならトラブルがない限り、遅刻しようにもできないだろう。
――一五分が経った。
一時になっても秋ノ原は現れない。形容しがたい銅像だけが俺を見下ろしていた。
それからまた一五分が経った。何かが急いでこちらに走って来る。それは勢いよくよろけた。
「ごめええええん」
蹴躓きながらも走りながら謝る秋ノ原。正直、可愛い。けど、それ以上に恥ずかしい。周りの皆がこっち見てる。銅像も見てる。
「話すと、長く、なるんだ……」
前傾姿勢になり、手の平をこちらに向け、荒い息遣いで肩を上下に弁明を図ろうとする秋ノ原。聞くだけ聞いてみよう。
「あのね、カラスに群がられて」
「まった」
「まったかけられた!」
あまりにも新しい言い訳だ。これにはまったをかけざるを得ない。
「違うんだってば、ほんとにカラスに群がられて、黒猫に追いかけまわされて、霊柩車が事故してて、私、それから小指隠しながらここまで来たんだよ!」
「まった」
「また、まった!」
不吉すぎる、あまりにも不吉だ。ここまで縁起が悪いと今からなにかあるんじゃないかと気が気でならない。それと親指じゃなくて小指隠してるの可愛い。
「まあ、熱量は伝わったし、一五分の遅刻ぐらいどうってことないよ」
それに、秋ノ原の服装はクリスマスの時とは、当たり前だが全く違っていた。
ニットのセーターに、裾に向かって拡がったワンピース、腰まで伸びた華奢な鞄を肩に下げて、足元にはローファーを履いている。今の慌てた様子とは裏腹に、やはり落ち着いた秋を感じさせる。
「ごめんなさい……」
秋ノ原は肩を下げて本当に申し訳なさそうに謝罪した。俺はそこまで怒ってないので(というか謝罪され慣れして無さすぎて)適当に流した。
「それはそれとして、王原君……なにか言うことない?」
え、何だろう。特にないけれど。
秋ノ原はなんだか身体をもじもじさせて、落ち着かない様子で、乱れた前髪を直している。時折見せる上目遣いが可愛いということ以外、言えることはないが、流石に本人に直接言う勇気などあるはずもない。
「…………」
――そして気づく。これは「その服、似合ってるね」という常套句待ちなのだと……。
そうだった。これはまさにデート(?)の枕詞だ。これを当人に言ってからがデート(?)の始まり。これが無ければ決して始まることはない。
「えっと……似合ってるね、その服」
多少は前後したものの、虎口を脱することに成功した。後は秋ノ原の反応を待つのみである。
「んんっ――――!」
分からん。身悶えしてるようにも見える。やっぱり変だったのか。
途端に秋ノ原は何もなかったかのように鞄をあさり始めた。「んー、どこだろう」と小声で言った後、目当てのものを見つけたのか、何かの紙切れ二枚をこちらに見せてきた。
「じゃーん! 水族館のチケット!」
そこで俺は確信した。これは紛れもなく――デートなのだと。
ここは水族館。俺はあまり生き物に詳しくはないけれど、秋ノ原はそうではないらしい。
「王原君、はやいよぉ」
「あ、ごめん。もう見終わったのかと」
秋ノ原は魚を一匹見るにしても、満足いくまでじっくりと観察したいタイプらしい。それ自体にはなんとも思わないのだけれど、俺が無視されているみたいでなんだかやきもきしてしまう。それ以上に魚に嫉妬心を抱く自分に驚いていたりもしている。
「私、水中は嫌いだけど、魚は好きなんだ」
アクリル板越しに優雅に、漂う翻車魚を見ながら秋ノ原は続ける。
「水の中は、怖いの。でも、魚たちは文句も言わずに生きてる」
「そりゃ、魚だしな」
「それはそうなんだけど……私からしてみれば、それがとても立派に見えるんだ……」
「俺は……魚はあまり好きじゃない」
秋ノ原は「どうして?」と訊いてきた。
別に俺から秋ノ原を奪うから、というわけではない。それはもっと単純なことだ。人間が自由にはなれない水中にいるにも関わらず、生きることに必死な姿が、単に気に入らない。彼らは、揃いもそろって生きることに必死になれる。俺は人間にとって有利な陸にいるにも関わらず、必死になれることなんてない。それがとても自分が些細なもののように思えてしまう。そんな自分に辟易してしまうからだ。秋ノ原は、それを『立派』と捉えたけれども、必死になったことがない俺には、そもそもがそうは思えなかった。立派と思える秋ノ原は、その無邪気さとは裏腹に、とても苦労をしているのかもしれない。
「魚が口に合わないからかな……?」
秋ノ原は「なにそれ」と笑って見せた。その笑顔の裏では、納得いっていないのが見て取れた。悪いことをしたとは思う。けれど、これを秋ノ原に話すのは少し気が引けるので、俺は適当にはぐらかした。
「タコってさー、宇宙人みたいじゃない?」
険悪な雰囲気をはらうように、タコを見ながら秋ノ原は言った。
確かにタコは宇宙人にみえる。
「まあ、火星人みがあるね」
「ねー」
数秒、静寂の時が流れる。これはやばい状況になった。気まずい。
俺はなんとかしようと考えるが打開策が思いつかない。そもそも人と話すことに慣れていないから、話題のカードがない。
俺はなんとか、思いつく限りの話題を総動員し、頭を振り絞る。
「王原君、ペンギンショーがね!」
「秋ノ原、あっちにペンギンが!」
――被った。
俺と秋ノ原はお互いの顔を見つめた後、なんだかおかしくなって一緒になって笑った。
「うん、行こうよ、ペンギンショー」
少しはにかむ秋ノ原。そのしぐさが、その表情が、その全てが愛おしく感じる。まるで、あのクリスマスの日に会うのが久しぶりではないような――そんな気がした。
「ペンギンがショーなんて出来るのかな?」
俺の横に並んで歩く秋ノ原が言った。
「イルカなら分かるんだけど、ペンギンがってなると想像がつかないな」
「あ、ついたよ」
秋ノ原は真っ先に席に着いた。俺は秋ノ原がいる隣の席に座った。会場にはペンギンが十匹ほどいて、滑り台やら小さい飛び込み台やらが設置されていた。
飼育員がペンギンの説明と、今から始める演目を伝えていた。ペンギンたちは揃って歩くわけでもなく、自由に舞台を行き来していた。やはり段取りが悪い。けれど、見ていて楽しくはある。
「やっぱりグダグダだね」
ペンギンを見て笑う秋ノ原。気づけば俺は、ペンギンよりも秋ノ原を見ていた。秋ノ原はペンギンを可愛いといって応援しているが、俺はそんな飛べない鳥類よりも、秋ノ原の方が見てて飽きないし、何と言っても可愛い。
実際にペンギン達が行った演目は二つだけだったが、口達者な飼育員のおかげで、会場には終始鳴りやまない笑いが広がっていた。
ペンギンショーを最後に、俺と秋ノ原は出入り口に向かった。秋ノ原は満足だったらしく、なかなかにご機嫌な様子。
「楽しかったねー」
そうつぶやく秋ノ原を見て、今日は来てよかったと心底思った。
「ペンギンって王原君に似てるね」
「俺がペンギンに?」
「ちょっとだけだよ」
えへへ、と微笑する秋ノ原。俺がペンギン、見た目の話なのかはたまた……。
「それじゃあ、帰るとしますか! 帰るまでがデートだよ王原君!」
俺達は帰りながらも話が弾んだ。「私はこっちだから」と秋ノ原が言うと、俺はそれに了解して別れた。あのクリスマスの日と同じく秋ノ原の背中を見ていた。少し違ったのは秋ノ原も、時折、後ろを振り返って手を振ってくれた。
この水族館での出来事は、俺の人生の中で一番と言っていいいほど、楽しかった。魚は……好きになれるかもしれない。俺でも必死になれることを見つけたからだ。それは……言葉にするのはちょっぴり恥ずかしい。
あっという間に過ぎた時間を愛おしく思いながら、秋ノ原から誘ってきた今日の水族館は、俺が思っていた通り。
「やっぱりデートじゃん、これ」
いつもの帰路で俺はそう独り言ちた。
よろしくお願いします!