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浮沈  作者: ラララルルル
7/13

 彼は、出かける支度をしていた。その時、呼び鈴が鳴ったのだ。彼の部屋のチャイムが訪問客を受けることは、滅多に無い。彼にゆかりのあった人間は、もうほとんど彼のアパートとの関係性を断っている。——どうやら、また山路である。

 扉を開け放つと、山路は仏頂面で立っていた。しかし、身なりを外出用に整えた彼を見ると、驚いたように口を開けた。

「どこへ行く?」

「少し用があってね」

「……君の母さん、容体が思わしくないだろう」

「ああ、一報を受けたきりだね」

 山路は顔をしかめる。

「長野。お前、最近見舞いに来ないだろう」

「そっちこそ。ちょうどすれ違っているのに違いないよ」

 彼は、山路の言う意味を理解しない。

「君、最近は家に籠もりっぱなしじゃないか」

「はあ……」

 ちょっと会話が途切れる。

「なぜ家に居ると分かる?」

「そりゃあ……帰り道ににここらを通るからさ、明かりが点いていればすぐ分かる」

「帰り道ねえ」

 山路は気まずそうにしている。彼はこのやりとりを無為に思い、早く目的に向かいたいと気をはやらす。

 山路がうなだれているのを機会に、玄関口に留保しておいたA4サイズの封筒を脇に挟み込み、外へとすり抜けた。すかさず鍵を閉める。

 山路は一向に無言である。だから、声かけを済ませると、彼はどんどん去る。——山路は、彼を追いかけてこない。うまく撒いたらしい。

 彼は心持ち早足で歩いて、例のバス停へ久方ぶりに到着した。感覚の薄いコートの上から、封筒の存在を確かめる為、脇に抱きしめる。大丈夫、ちゃんと持ってきている。

 彼はバスを待っている間にも、胸が高鳴っているのを自覚した。通りに吹く木枯らしは、彼の上気をほどよく冷やす。バスに乗り込み、席に着くと多少は落ち着く。車窓から覗く景色に気を紛らす。もう、半年近くもこうして行き過ぎる平地を相手にしている。そして——そう、あの公園だ、通りすがりのあの公園では、子供が駆け、老人が語らい、犬が散歩をし……たまに誰も居ないなんてこともある。どうしてか、その瞬時に過ぎる公園の風景が目に焼き付いている。

 あの夜以来に、この白色の建物を前にする。正面から、内部へ踏み入る。相変わらずロビーは大勢の人で賑わっている。エレベーターは用いずに、陰気な階段を上る。すれ違う看護婦に挨拶をする。

 彼女は二階の個室に移された。そのせいで入院費は高騰したが、彼女の金庫は不可解なほどに潤っていた。が、それは不時に備えて溜め込まれたなどという立派なものでは無い。付き纏う不詳の不安を拭おうと躍起になった報いが、必要以上の金銭である。彼女の欲しいのが金であれば良かったろう、と彼は度々思う。彼女の作物は、金では言うことを聞かなかったのである。

 近づくにつれ、彼は一層脇を締める。部屋の札を認め、軽くノックする。返事は待たず、立ち入る。

 母は横たわったまま、顔だけこちらに向けている。固まった表情を、何とか綻ばせようとしている様が垣間見える。彼は無言で、椅子を引いてきて座る。

「また山路くんかと思ったよ」

 彼はわけも無くニコニコしている。

「この頃来ないから、見捨てられたのかと思った」

 彼女は病人とは思えぬほど流暢に喋る。

「嫌でも見捨てられないよ」

 彼女はフッと息を漏らす。

 パジャマから覗く彼女の腕に、脈の筋が浮かび上がっている。頬骨が輪郭を顕わにしかける。白髪が大勢を占めている。

 彼女は寝返りを打つ。その姿は、最期を身近に湛えている。彼は狼狽するが、悲観を止めようと努力する。生命は滔々と肉体を潤し、いつかは尽きて身体は骸と化さねばならない。最もみずみずしい一瞬を頂点として、あとはすり減らすように生きることで生命の尊厳は維持され得る。瞬く命は美しいのだと後世に継がれる。彼はこの真理を心中に刻み込み、不安を免れようとする。

 彼は仕切り直し、膝に乗せていた封筒を胸の前に構える。

「お母さん?」

「んー?」

 気怠そうな返事をする。随分安穏な様子で、枕の上に頭を転がす。

「何だい、それは」

「これ、俺が……書いた……はい」

 彼は伝えるべき言葉を省略している。が、彼女は興味を持って封筒に手を伸ばしてくる。

 彼は、いざこの段になって罪悪感に苛まれ始めた。彼は、彼女に余命が宣告されたことを知っている。それなのに、碌に見舞いにも行かず、彼女の望みも聞かず、偶に訪れたと思えば、一方的に原稿を押しつけている。

 彼は、どうしてだろう、と思う。封筒を手放した途端、あの夜よりの熱中から、我に返った気がする。どうしてこれを彼女に手渡すのに、あれほど嬉嬉としていたろう。身内の死に際して、生きる者に降りかかる塵事を何ら相手にせず、ただ書くことに没頭し得たのだろう。本来、まず彼女に余命を告げるか否か、このことで煩悶せねばならぬ身分である。

 彼女は、封筒の口を覗いて中身が何物か見定めている。やっと原稿を一思いに抜き取った。手書きの文字が、マス目にびっしり敷き詰められている。母は暫く捲る。

「これ、物語かい?」

「ああ」

「あんたが書いたの」

「うん」

「まさか……何を考えているんだか」

 母は一通り問い詰めると再びまどろみ、元通りにして封筒ごと返す。

「それよりもさあ……いつになったらここから出られるんだい」

 彼は、いよいよ追い込まれる。発汗を皮膚に感触する。——彼は、余命など信じていない。

「分からないよ、治ったらだろう?」

 彼の答えは、当たり前を掘り返したのみであった。が、母は妙に心得て「そうかい」と呟く。

「封筒、置いときな」

「あっ……うん」

 どうやら一段落したから、席を立つ。

「じゃあね」

 彼が手を振ると、彼女も振り返した。

 彼は俗事からどうにか逃れようと試みる。彼には頼りが無い。父は新たな家庭を築いている。十年以上関わりが無い。母に姉がいるが、彼女には母の病気のことすら告げていない。彼とは一二度しか面識が無い。ともすると、母が自分で連絡したとも知れぬ。が、病室を訪れていないのだけは事実だ。見舞いに来る者は、彼と、山路のみである。職場の仲間さえ来ない。

 彼は一人暮らしの間中、彼女にずっと無頓着であったから、近頃の彼女の周辺について分からない。取り敢えず、葬儀の準備と彼女の家の始末だけは生前の内につけておこうと思う。

 彼は途端に俗界へと引きずり込まれた気がした。そうすると、物語が恋しくなる。そう、彼が病室を去るときその目に映した、机上の封筒である。彼はその中身の内容を、今歩きながらでもそらんじることができる。

 ——犬、それは、犬は犬でも、人情に通じた犬である。本来の犬とは決定的にそこが違っている。それでもこのもののことは、ここでは犬と呼ぶことにする。

 犬の世の中との相性は、とびっきり悪い。何かことづけられると、なかなか滑らかに首肯できない。生きていくには都合の悪い特性である。

 犬は窮屈に難渋したが、あるとき妙案を思いついた。現代に居辛いと言うならば、それを別の時代につくりかえてしまえば良い。要は、犬が新時代を築き、自身をその世の中心に据えるのである。犬は端っこに甘んじることを、とうとうやめるのだ。

 犬は日中日夜、勉学にいそしんだ。ものごとに対する自身の見地を定め、一層洗練する。人望を集める術を学んだ。研究と実践を繰り返し、その末に盛大な成功を収めた。その過程は傍目に見て、壮絶なものである。が、犬は唯一の理想郷に意識を支配されていたから、道中に何らの痛みも伴わずに済んだ。

 犬は果たして、一世の元首となった。犬が中心であり、世の常識は犬が決定した。犬こそが規範であり、犬こそが成熟すべき人格である。

 さて、犬がやったのは、単なる模様替えである。犬は長年、自己の意義であった理想郷を現出し、空っぽになった。確かに、居心地が悪いのを改善し得たかもしれない。けれども、次には気色の悪い胸焼けが犬を襲ってくる。それは悪しき秩序が、また別のヘンテコな秩序に変貌したまでのことを証明するものだ。

 犬は望みを叶えて、無となる。後は、無能に幸せだと思って暮らしていれば、それで事足りるのだから——

 この物語に続きは無い。物語には舞台があろう。するとその舞台の開始は万物の開始では到底あるまい。始まる前に過去があって、終演の先に本当は未来がある。通すフィルムの始めを決めるのは重要であるし、終わりだとちょん切ってしまうのにも余韻を響かせなくてはならない。全ての楽器が奏でるのをやめ、指揮者が棒を静かにし、それでもまだ密かに誰か吹き続けて、息づくのである。その正体は、物語の末尾に継続する、突如脇に追いやられた生命の呼吸である。舞台に上がらせてもらえるうちは主役である。が、平凡となると途端に掃き出される。——彼は、犬には後も先も存することを知っている。だから、本来描かなければならない。彼は、筆耕硯田する者では無いのだから。

 彼は何故、この話を母親に読ませようとするのだろう。彼自身にも、その答えは明確でない。でもきっと、これは彼の一つの心象である。彼は、母と眺める景色を共有したかったのだろうか。彼は、置かれた現在を悔やむとも悔やまないとも知れぬ。真面目に苦悩するとも、しないとも判別つかぬ。初めに白紙にぶちまけた時の記憶を頼りに切り取られた犬の物語は、彼のあらゆる感情の動きの詰め合わせである。母はそれを目の当たりにして、いかに心を動じるだろうか。

 彼は、空漠の部屋に戻ってきた。衝動的に、布団を畳み始めた。数日そこに這いつくばり、景観と化したその中に、埋もれた記憶を求めて。——ひょっこり覗いた、犬の顔。落書きの内に、確かな勇姿が秘められている。頂部に乱雑な穴を開けられたその紙切れは、ちょうど枕の底にあった。

 彼は、小説家になろうと決める。これは、彼の人生にとって、数多の数奇が蓄積しなければ、あり得なかった決心である。彼の焦がれるものは霧がかって見えない。小説と称されるものの具体も漠然としている。が、この決心だけは確実である。縹渺とした憧憬を追うが為に、彼は書くと決めるのである。焦点が合うと思うとぼやける。浮いてその姿を見せると思うと、沈んでしまう。沈む前に拾い上げなくてはならぬ。それ故文字を残すのである。

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