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浮沈  作者: ラララルルル
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 彼が引きこもりを始めたのは、明くる未明からである。アルバイトはすぐにやめて、集中をはかる。彼にある算段は、ただ作物の完成を母の元に持っていくというのみである。

 人は『時』に縛り付けられる。真面な思考が脳に存している者は、皆、この『時』の用事を免れ得ない。何も時間割ばかりが、その限りでない。朝になれば、歯を磨く、顔を洗う、三度に分けた飯の初めを頬張る、昼になれば有意義なことをせねばならぬ、夜は風呂に入って汚れを落とす、これら全て『時』の用事である。彼は、生活の方法を忘却している。飯の食い方が常軌でない、就寝もままならぬ、有意義などは到底やらない。——彼は全ての時間、筆を執る。

 彼は架空を生じ、物語を形成する。人は、しばしばこれを小説と呼ぶ。小説と一概に言うが、用途が異なるだろう。筆耕を最優先とするものがある、精神の安寧を得ようと言う心算がある、ただ娯楽的を極め刺激物に走るものがある、他に訴える強い声明の意図がある……。この内芸術と呼べるものは一つ、声明のみである。彼は、芸術をして鑑賞者を驚嘆させたい人間ではない。霧中にて、雨粒を収集しようと言う奇想に取り憑かれた狂人である。だが、母親に照準を定める点において、声明に当てはまる。彼は初め、悦楽に酔った文筆家に過ぎなかった。が、芸術云々考慮せず、いつの間にか芸術家となった。

 彼の小説には、相変わらず人が出てこない。代わりに、人によく似た生き物ばかりが錯綜する。例の犬のことを、彼はここに来てやっと思い出した。壁に貼り付けたはずの、拙い絵を載せた紙切れは、いつの間にか姿を消している。いつからだろう? 彼は、その行方を知ろうとしない。と言うのも、彼が今取りかかるのは、おかしなオオカミの、群れの話である。

 ——群れは、家族ぐるみの秩序を保って、暮らしている。互いに扶助し合う、美しい関係を有している。彼らは、獣を代わり番こに殺害し、糧とし、そうしてながらえていることを受け止めて、毎日に祈りを捧げることを忘れなかった。そんな罪悪の自覚を有したそれらは、もはやオオカミの枠には収まるまい。例の、人間に近い、生き物である。

 ある時、若いオオカミが、祈ることを大儀に思った。何故なら、弱肉強食は自然の摂理であり、何を今更、命奪うこと無くしては生きられぬ身を慰めて、ごまかしのように超越的なものの信仰を得る必要があろうか。それはともすれば卑怯で、醜悪であり、若いオオカミにとっては、鼻持ちならぬ贖罪の方便であった。寄り合いは、若いオオカミを糾弾した。同期にもそのものほど突飛な思想は持つのはいなかったから、そのものは、一人ぼっちである。

 満月の夜、森の中の、ある開けた地点にそのものはやって来る。そこには、出っ張り岩が一つ、生えている。若いオオカミはそれに、腹で寝そべる。気の抜けた首から上をその尖頭に付して、少し仰げば月を臨むことが可能である。完全なる姿を曝すそれは、一人で何が不都合だ、と冷笑している。そのものは不愉快だから目をそらす。蒼の瞳が憔悴している。……足音が接近する。その音は、親友である。親友は、とぼけたオオカミである。優美な眼でそのものの姿形を捉える。

 何をそんなに落ち込んでいるんだい? 婆に叱られたのがそんなに嫌だったかい

 親友は蚊も殺せぬ口ぶりで問う。

 ほっといてくれ

 親友は懲りずに寄り添おうと試みる。そのものも姿勢を変えずにはいられまい。

 そのものは、前脚に落ちる自身の陰を俯いて、——君は祈るのかい?——と脆弱な声で問うた。

 祈るよ

 何故?

 なぜって……僕らは、明日も生きなければならぬからさ——

 親友の解答は正鵠を射ている。非常に消極的でありながら、全く確実である。

 彼の筆は止まった。彼には、過去がある。テープは現在まで続いてきて、その先にまだ伸びてゆく。けれども、そのテープは、ある時点であっさりとちょん切られている。その先に同じように続いていくはずなのに、向こうのテープとの隔たりがある分、どうしても到達できそうにないのだ。

 彼は恐ろしいと思う。その無情を、どうにも受け入れられそうにない。受け入れられぬと言って、どうにかなるものでも無い。どうにもならない分、彼は泣きじゃくる。涙の溢れ出る感覚を、身をもって知るところとなる。——手を目にやると、付着する粒は玉のような形をしている。それは瞬間に崩れ出し、肌をなぞり始める。彼は可笑しいなと思う。可笑しくて可笑しくて、仕様が無い。何故泣くのか、渾沌沌 の脳では、考えてもちっとも思いつかない。自分は可笑しい、祈るオオカミは可笑しい、彼と彼の母との関係も可笑しい……

 二人の繋がりは、もう千切れるすぐそこにまで来ている。

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