五
彼は母親を日毎、決まった時間に見舞うようになった。山路が居合せることは、それっきり無い。
母は、決まって遠い目をしている。ずっと昔から順に回顧しているのかも知れない。彼女の悟りは、どこまで到達しているのだろう。——彼女には今、思い出を懐かしむ猶予が十分に与えられている。
母が自身の過去を見直すと、どんな感慨に至るのだろうか、彼は恐れている。彼女は、見舞いに来た彼を見つけるにつけて、随分以前の彼を相手にするようである。決まり文句は変わらぬ。加えて、「栄養のある食事をとってる?」と聞く。「朝はちゃんと起きてる? 夜は寝てる?」などと諫める。彼女は今更ながらに、息子を気遣う。迷惑な話だ、と同時に恐ろしい。
彼は、余命の事には触れぬままだ。バイトと勉強の両立を機械的にこなしながら、ただ慰めの為にものを書く。彼は幾分か成長している。本能的に書き狂うのではなく、非常に落ち着いて白紙と対峙している。すると次第に、内容の質を追求したくなるらしい。が、題材には困らぬ。それは文章として物語として、褒められたものである必要が無い。彼の孤独を埋め合わせるのが主眼である。他人に見せびらかすものではない。落ちるのは、欲求衝動の末に出る廃物である。それでも芽生えた作物完成への欲は、これより段々成長するだろう。
彼の新たな日常の回りが形作られて、おおよそ一月が経つ頃になると、夜中にも関わらず、煌煌と明かりのついた一室にて、彼は手元に注力していた。深閑の只中に擦れる音は、彼をある尊大な自覚へと誘った。——けたたましい電子音に、彼は起こされた。
電話のベルだと、すぐに了解する。あまりに喧しい、早く、その息の根を止めてやらねば。一つ、咳払いをして、受ける。
「もしもし」
「長野さん? お母様の容態が急変です!」
「はっ?」
彼は素っ頓狂な声を上げる。適当に相槌を打って、病院へ急行する。彼は、もう存分に醒めている。不意ではあるまい。寿命とやらの宣告のおかげで、覚悟は錬成されている。が、急迫せぬ囮の覚悟である。心底で、母はまだ死なぬと信じている。本当に死ぬと思うなら、その時点で喪失の感に見舞われなくてはならない。
家を飛び出してから、事態はどんどん迫り来る。よって、急がなくてはならない。バスは出ていない。免許だけで、自家用車も持ち合わせない。タクシーを呼ぶなど、考えもつかなかった。パンク気味の自転車を、走らせる他にあるまい。
大通りには、時折四輪が疾走する。彼は右車線を駆ける。
憎たらしいほど静かな夜だ。まさか、この眠り静まった安息の只中に、一人がその生命を終えようとしているなどとは、誰も考えないだろう。一時前の彼も同じである。一報を受ける前の、彼の、あらゆる有様である。安穏の内に煩悶し、楽天を命題とする輩を、彼は腹立たしく思う。今彼は、自身の壮烈な呼吸を相手にするのを、厭わなかった。ペダルを踏み漕ぐ度に、新たな考えが生誕する。彼の中身が濁り凝っていたのが、清やかに流動するよう、総入れ替えされるところ、顕れてくる気象である。
やっと辿り着くと、その建物の図体を一度前にしてみる。不気味だ。救急の入口に駆け込む。受付には辛うじて明かりが灯っている。目の前には、月夜による照覧を受ける庭が囲われている。それを背景に、誰かガラガラ台を押していく。彼はそれに気をとられるが、母の病室とは別の方角である。
階段を駆け上がって、一目散に目指す。看護師がいる。
「長野さん、一つ下の個室です!」
方向転換して探しに行く。——なるほど、そこに薄茶の明かりが漏れ出している。
「長野さん」
新たな看護師が彼を見つけて、名字を呼んだ。
「お母様は無事です。急な発作だったみたいで……安静は必要です」
「もちろん」
彼は、汗粒の浮かぶ真顔を、看護師に向けた。すぐ室内に目をやる。母が物々しい機器に繋がれて、寝ている。部屋に立ち入ると、医師の背後から、彼女の表情を覗き込んだ。皺の増えた顔で、目は瞑り、白い息を吐いている。
「長野さん、一度外へ」
医師に促され、彼は退出する。振り向くと、遮蔽の除かれた彼女の全身が横たわっている。こもる呼吸音、水蒸気、安定する心電図——彼女は眠る。その映像を最後に、引き戸は閉じた。
医師は少々歩を進める。それに従っていると、ひとりでに明かりが点いた。適当な場所でとまって、話し始める。余命の事を告げたかと聞かれた。彼は首を振る。医師が言いたいのは、急な話も覚悟しておいてほしいと言う予防だ。確かに、人間の見当つける余命など、初めからあやふやである。彼は、信じていないものを信じなくてよいと言われ、依代を失った覚悟を固めろとの無理を強いられる。医師は随分勝手が過ぎる。
彼は前後不覚である——遠近の区別がつかぬ、過去も未来も混濁する。よろめく二輪車に運ばれて、残りの時間とはどれだけ尊いのか、判別できなくなった。明日死のうが、二、三十年過ごそうが、一人の人間は一点に過ぎぬ、極小の存在である。——彼は、ともかく書きたい。書いて、認められたい。斯様な新欲求が、無音の内に、ふわりと浮かび上がった。——書き上げたものは、初めに母に見せよう。そう、冷ややかな半月の下に誓った。




