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浮沈  作者: ラララルルル
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 その宣告が彼の耳に届いたのは、山路が訪ねてきてから、二日を置いた後であった。彼は、唖然とする。いや、何も、心構えがちっともできていなかったわけではない。が、いざ耳にすると茫然自失、前後不覚を免れ得ぬ。

 宣告の中身は、勿体ぶっても仕方ないから、次に述べる。彼の母親の、余命が知らされた。

 余命とは、いかなる時に何を根拠に告げられるものか知らん。彼は目一杯に腹を立てている。余命とは何だ? そんなものが、誰に断言できよう、決定できよう。彼にも『余命』ならあるはずだ。彼女のは、差し迫っているというのに過ぎない。だが、もう一つ、彼と彼女の余命とには、決定的な相違がある。——知るのと、知らないのとの差だ。

 人間、いつ死ぬかと思案することはあれど、実現するものと考えている暇はあるまい。死に目に一度も立ち会わぬ子どもは無論である。何度か葬式に立ち会った少年はそんなこともあるかな、と考え出す。壮年になると、儀式が煩わしくなる。老年は自分もいよいよだと思う。けれども、この中に明日にも別れるとも知れないと、熱心に信じている者はやはりいない。彼などは、これ以上年をとらないのではとさえ思っている。ほとんどはそんなものである。多くの死を日常的に目の前にして、いや実は自分だけは死なぬのではないか、と考える。——が、今、彼女はいつに死ぬと、明確に告げられたのである。この時、得られるのは知識そのものだ。ああ、私はあと何日経てば死ぬのだと言う、淵が明らかとなる。が、これも実感とはまた別の話である。

 自分があとどのくらいで死ぬと意識せずに、漠然と生きられることは、幸運なのかもしれないし、呑気で呆気ないかも知れない。彼は生き死にを一通り思考して、このような感想を抱く。

 彼は全くの無考えに転じる。気がついたら、家の前に居るという体たらくである。呆気にとられた、空白の時間である。ああ、彼はまた無為に暮らす内に、ひとつ死へと近づいた。

 彼は蹌踉として、敷き放しの布団まで体を運び、転がす。仰向けになって天井を凝視していると、点点の染みを一つ、二つ見つける。

 今度は、机に向かう。何をする気力も無い。何かやろうと言う心算も無い。あくまでこの行動に所以を求めるならば、威風堂々の机にあやかろうと考えたのだ。それだけの為に、今これを目前にする。

 気味の悪い時間が流れる。あまりにも不自然である。が、時はいつもと変わらぬ速度で動いているのに違いない。彼は、これでも生きて居る。

 彼はノートに書き殴る。今黒字を載せるものの、正体は分からぬ。また、載せられるものの実質も、依然不明である。ただ、紙と呼べるばかりのものを、傷害するのが実際である。——彼は大人の手で、乱暴をする。若い、男の手。指の付け根の関節が、皮を突き破りそうに出現している。小刻みな震動を繰り返しながら……その一連が完了したのは、傍目にも容易に了解された。削る鋭い音が、ぴたりと止んだからだ。

 彼の表情は、誰にも見られないのを良いことに、完全なる虚無である。疲労や興奮などの情には、少しも感応しないかのように澄ましている。彼は至って平常である。

 彼はずっと、事後を遠目に眺めている。——すると、狂気じみて、紙を机上から奪いとった。それを間近にして、眼球を忙しく走らせる。

 彼はようやく自分の可笑しさに気がついて、短い息をつき、粗末な回転椅子に背もたれた。また訳の分からぬものを、この世に表出してしまった。それは、おそらく自己の内に潜む狂気である。いや、『狂気』と決めつけるのは早計かも知れない。ともすると、『洗練された思考』でもあり得るし、『生来の自己』と言って、ある観点からなら差し支えないはずだ。

 とにかく、彼がこの時に学び取ったのは、ものを書くことの本質である。それはつまり、思考の一時的快楽を意味する。

 山路は、彼とは違う種の人間である。が、だからと言って、彼と伯仲の人物を求めるならば、途方に暮れるに違いない。いちばん手っ取り早いのは、自己の分身を、白紙の上に産み落とす事だったのだ。その時、彼の思考は初めて心底よりの共感を覚え、安楽の在処を知った。彼は、茫漠曖昧然とした鏡裏に、濃やかな緑色を見つけた気がした。——もっと、書こう。

 彼はとうとう、夢中から離れ、理知的な文字を、白色の面に滲ませる事に成功する。

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