二
「よう! お疲れさん」
何か冷たい固体が、山路の頬を感触した。
「ありがとうございます」
缶ジュースを提げる上司を見やるまでもなく、山路はもうその方に手を伸ばしていた。
「今日もアイツんとこ行くのか」
「はい……まあ」
「アイツの母さん、病気してるらしいな。馬鹿だぜ、長野ってやつは。そんな時に支えてやらないといけない息子が職無しとは情けねえ」
「…………」
「しっかし、やまじぃ。お前もよっぽどお人好しだな。企画途中で放り投げて、会社自体辞めちまった奴の面倒を今でも見てやってるとは、俺はおめぇの気が知れねぇぜ」
「そうですかね」
山路は缶ジュースの蓋に親指をかけていた。
炭酸の密封が放たれた音がして、山路は喉を鳴らしながら中身を一口で飲み干した。
「課長!」
くつろいで自販機に肩をもたれていた上司は、呼ばれて山路の方に向けて姿勢を整えた。
「ジュース、ありがとうございます」
「おお、」
缶を見せつけるようにしてから、そそくさと退散する。そのまま社外へ飛び出した。
山路は、油断していた。木枯らしがもうこんなに強く吹きつけるとは。上着さえ持ってきていれば何とも無いのだろうが、衣服を選択するその瞬間の判断紙一重のせいでこれほど差が生まれようとは。仕方なく、身を抱えながら歩いた。
山路はしかも、これからじっとバスを待たねばならない。その見通しに絶望したが、幸運にも停留所に辿り着いてほとんど間を置かず、巨体を震わせるそれは後方からやってきた。
乗り込むと、暖かい。やはり、もう冬が来ているのだ。
山路がやってきたのは、街の市民病院であった。そのまま慣れた足取りで向かった病室に、あの人が横たわっていた。
「あら……山路くん」
すっかり馴染みになったお互いの顔を見合わせて、ほっと息をつくまま山路は側の貧相な丸椅子に腰掛けた。
「長野は……」
「ああ、あの子なら昨日来たっきり。今日は見ないねぇ」
心持ち寝返りをうつ彼女を見て、山路はズボンの面を握った。
「優也は今、就職活動中じゃないかしら。……しかし、いつになったらここから出してもらえるのかしらねぇ」
「もうすぐですよ」
山路はこれでもか、というくらいぎこちなく笑った。それを自分でも意識して、視線を窓の外に移した。この部屋は三階だ。だから街並みと、その奥に聳えて連なる赤黄の山が覗かれる。
右の耳に消え入りそうな声で、「そうだといいけどねえ」と呟かれた。山路はその響きにどこか薄気味悪さを感じて、さっさと起立した。
「おまんじゅう、置いときますね」
山路が鞄からカサカサと音をさせながら取り出すと、彼女はつぶらな瞳でその動作を追っていた。
「いつも悪いね」
なんだかんだで彼女は山路の土産をいつも喜んでくれているらしいから、それに関しては嬉しく思っている。しかし、そうはいっても彼女は憔悴しきっているように見えて仕方がないのだ。
山路はまた性懲りもなく窓外を睨んだ。見える景色が何か、変わっているはずもない。
「山路くん……」
陰気な声質に気が滅入る。
「ありがとうねぇ、いつも。私のことはどうだっていいから、あの子のことは見捨てないでやっておくれ。お願いだよ?」
どうでもいいだなんて、そんな
見捨てるだなんて、そんな
山路の頭の中にしわしわな紐のように浮かび文字が形作られるのに、どれも口から放たれることはなかった。ただ一礼して、カーテンからすり抜けた。
長野に会いに行くしかない。そう、今決めた。彼の家へ行こう。彼がこのままで、いいはずがない。とは言っても、山路は彼にもうめっきり会っていなかった。病院内でたまに居合わせるのを除いて。電話でも話した。が、彼の家へ行くことが必要だ。
山路は寒々しい建物の前のバス停にとまった。そして、ピンと背を張って、建物の建つ丘から、山々を背景とする静止した街を凝視していた。




