十三
初村は随分久しぶりに新幹線に揺られた。ただ、揺られたとは言うが、尖頭で風を切るこの乗り物は驚くほど静かに進む。移りゆく外の景色の中には、東京にいては妙だと思うほどに田舎が多い。初村にも未知は多くあろう。時折一人ぼっちだと思い、しゅんとなるのは早合点の為す業かも知れない。探せば巡り会わないことも無いようだ。側にいるのが、京堂だからいけない。世の中みんなあんな風だと呑み込み違えてしまう。人の生きる世はそれぞれ、いわばある極地なのである。
彼は駅まで迎えに来ると言う。容貌が分からないから、見つけられるか不安だ。向こうは、自分の顔を勉強してきてくれているだろうか、と初村は慮る。そうでなければ逢着は叶わない。——四角窓に薄ら映る、自身の白ひげが微かに揺れる。
面会は危惧していたよりも速やかに済まされた。彼には初村が分かった。初村にも、不思議と彼のことが大方判別ついた。——彼らの組合わせは、傍から見て異色である。到底共に出歩かないような若者と老年とが、微妙な距離感で一緒になっている。小男の初村は、朱色のベレー帽をかぶっている。彼は、ヌボウと地面から生えたような姿勢でいる。二人は当たり障りの無い話しかしない。とかく、彼が初村を引き連れていく。淡々、バスもタクシーも乗り継ぎ、その結果、白色のビルディングを目の前にする。
「病院かい」
初村の問いに、彼は頷く。正面玄関から入館する。初村は何だか分からず、呆気にとられている。彼はロビーのソファに初村を誘った。初村が腰掛けるのを待ってから、彼も隣に着座する。
「何故私をこんなところに?」
「ここは、きっかけなんですよ。僕が、初村先生と、同じものを追うようになった」
「同じもの、かね」
「そうです、おそらく」
初村は、この時ようやく対談の幕が上がったのだと知る。
「僕は初村さんに聞いてみたい。……答えは、見つかったのですか?」
彼は突如一足飛びに転じるから、初村には彼が何を尋ねるのやらさっぱり分からない。どうやら、彼の内では初村の虚像制作が大分進捗しているらしい。今面と向かう現実の初村は、彼の低回、逡巡の中身を少しも知り得ない。
「何の話だね」
「ああ! すみません……僕、ちょっと舞い上がっちゃってるみたいで」
周囲に彼らのことを気にする者はいない。初村が名の知れた作家だとも、気付かれていない。彼は呼吸を整え、説明を始める。
「僕は、母親が病気になって、それで、ある日急に書きたくなったんです。何でも良い、ぐちゃぐちゃでいい、整理整頓もつかないまま、ただ白紙に黒を吐き続けた」
「黒を吐く、か」
「ええ」
「それがあのオオカミの話かね」
「いいえ。でも、似たようなものです。——僕はその時悦びを覚えました。書いている間、僕は快楽に慰められるのです。それは——そうですね、判然とした像を持たない想念が、実際的な体験に化けて一時味覚されるような、そういう快感です」
初村は黄塵に隠された深遠の思考を、彼の釈により沸々と呼び起こされた。酔いつぶれた時分の無意識中の初村が、彼を頻りに求めた訳が段々理解される。
「僕は書くことの快楽を覚え、酔狂になりました。——危うい遊びです。まず、僕は海原のどこともつかない場所に突っ立っているのです。すると、潮混じりの水面に浮かんでくるものがある。すると、それらを一心に拾い集めて書き残すことにより表出しなければならない。少しでも遅れると沈んでしまう。そうするとまた、息を殺して待つのです。浮かんできたらすぐに捕獲できるように、と。僕は狩りをしているようなのです。大海を、自己そのものに喩えると分かりやすい」
初村は話を聞き、彼がまるで小説家に似つかわしくないことを発見する。それでいて、小説を生み出す才に長けている。
「母が亡くなってからは眠っていましたけど……初村さんからの連絡のおかげでその猟奇性が目覚めました」
正確には京堂の勝手である。が、結果的に初村はこう感心している。そして彼は野心を復した。京堂に感謝せねばなるまい。
「なるほど、君は『自分狩り』を再開したわけだ」
「……初村さん」
彼は改まって、初村の方に身を寄せ、両手は行儀良く膝の上に乗せながら向かい合ってくる。
「初村さんは、今、どこまで拾えたのですか? もしかして、決定的な何かを、もう見つけていらっしゃるのですか? 書き続ければ、僕は答えを知ることができるのでしょうか?」
彼の目は、始め幼く潤っていた。が、問いを繰り返すほどに狂気じみる。初村の方にどんどん肉迫する。彼の瞳は、脆弱なガラス製である。ちょっと動かす向きを間違えると、突如割れてしまうだろう。初村は異常な緊張に襲われる。二人の距離が、縮み縮まり張り詰めて——フッとたわんだのは、彼が目線を外したせいである。
「すみません……」
彼は何となく、受付を見やる。初村はやっと腹をくくる。
「私にも、似たようなところがあるよ」
「えっ?」
「けど、私は小説家だから。君のやり方とはちょっと違う」
「どういうことですか?」
「私は言葉の細部に拘るし、塵でも何でも拾うわけじゃあない。でも、自然に任せていると、おのずと本物の人生というものが、生まれてくるものだよ」
「……良く分かりません」
初村にもいまいち分からない。間に挟むべき話が飛んでいる。
「初村さんは小説家だから、プロットを大事にするって、そういうことですか?」
「いんや。君、筋書きは、私は必要でないと思う」
「はい」
「君は君の文章を書けば良い。私は私の文章を書くから……もうちょっとやってみなさい。答えが出るかも、知れないから」
「はあ」
「君は小説家になれ」
彼はピクリと震える。意思を持て、と言うところのものだと解釈する。
ちょうど三時になった。側で騒々しい物音が鳴り響いた。看護師が台で運ぶ器具をぶちまけたのだ。それを横目に見ながら、先ず初村が起立する。彼が瞳で見上げている。初村はぎょっとした。
「どうした?」
「初村さん。僕、人の一生を書きますよ」
「……へえ、壮大だね」
「そうですかね。たぶん、すぐに終わりますよ」
「……ふうん」
初村は、これは、彼が母の死をもって抱く感想だと思う。ところが、彼の脳裏にあるのは、あの犬のことである。
「じゃあ、行きますか。ご馳走します。ついでに泊まっていきますか」
「まさか、帰るよ、私は」
「ええ、もう?」
彼は寝食を共にするつもりでいる。ところが初村は、一刻も早くここを去りたいのである。
初村はもう今の彼には興味が無かった。数年経った後には、すこぶる会いたいと思うが。




