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浮沈  作者: ラララルルル
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 彼は窓外に見渡せる街をぼんやりとして振り向いた。

 母が入院してから、おおよそ三ヶ月が経過する。それくらいにもなると、随分前からこんな暮らしを続けている気がするようだ。

 彼の人生は、至って普通である。だからその普通を脱却しようと、躍起になった成れの果てが現在である。

 彼は幼少の時分より「賢い」と近所に称えられてきた。進学校に合格して、有名大学卒業の誉れも手中にした。それから大手に就職を決め、スピード昇進も一度経験した。——が、それが何だと言うのか。ただそれらの経歴が黙然と過去に横たわっているのみである。その様をもって、月並みを認める。

 自身、何をしようと欲するのか、何を使命とするのか、見定めようとする内に彼は、一個の大人に成熟してしまった。彼は見誤って、すると母親に心労を与えたのである。

 母は予てから彼の進退を気にかけたが、順境が突如ぶつかる壁は彼女には相当堅く思われたらしい。——彼は会社を辞めた。何の当てがあったわけでもない。ただ道を逸れようと考えたところの所行である。

 母は暫くあって、後に入院した。まさか彼の不孝だけが原因と言うことも無かろう。が、確かに時期を合わせるように患ったのだ。母が余分に働いて貯めた金を、入院の費用に費やす。

 彼女は事あるごとに、ベッドの傍らに居座る彼に語りかける。

「ユウヤ、仕事は探してる?」

「うん」と決まって応じるが嘘だ。

「それなら良いのだけれど……」

 母は咳き込む。彼はそれを労りながら、自分の体もどこか具合が悪くなりやしないかと期待したくなる。彼女と、自分の立場を入れ替えてみたくなる。

 母はいささか眠りこけて、目覚めるとまた口癖を言う。惚けるのでは無い。とにかく、今の彼女にはそのことだけが気がかりなのだ。

 父と離婚をしてから、母はひたすらに働いた。何の為に働くのか、そんなことは二の次にして、懸命に働いた。いや、『懸命』と言うのは適切でないのかもしれない。彼女は黙々、必要以上の労働で身を粉にした。けれども無理を押すのとはまた違っている。そのしわ寄せに彼は冷遇を被る。次第に慣れる。母は、彼が優等生であることを知って、初めて彼の存在を目に映したようだった。そして彼女は、息子の辿る足跡を燦然と飾るようにすることに生きがいを見つける。彼には、そんな彼女のことが気の毒で仕方なかった。挙句、彼は彼女の唯一を踏みにじった。そう順を追ってみると、母が病床に臥すことになったのも頷ける。

 うすら寒くなった帰り路、彼が四つ角の交差点に停止した時、赤信号のランプが注意を引いた。……パッ、と一思いに切り替わる。彼は誅を食らって蹌踉とする。

 家に着くと、無味乾燥に整然とした部屋に、堂々と在る机が目立つ。その椅子に無気力に身を委ねる。それで、多少乱暴な心持ちは収拾される。彼は無為に机上に肘をつき、顎を手の平に乗せている。そうしていると、軽はずみに行動を開始する。

 引っ張り出してきたノートには、中途のページまでものにならない絵が描かれているが——何かもの凄い剣幕で綴り始めた。作物を完成させようと言うつもりは無いらしい。ただただ、辛うじて文字と呼べるようなものをひたすらに殴り書きするのみである。文章になっているか分からない。読み直して酷く文脈が跳躍しているかもしれぬ。が、それらの懸念は意に介さず夢中である。

 ペンを伝わり衝動的に溢れ黒鉛として表出する想念を、彼はある事物に仮託した。それは、動物である。どんな動物かは分からない。ともかく、人間でないらしい事だけは確かである。ただ、書き続ける内に、その動物は漸く明瞭な輪郭を帯びるようになった。——それは犬よりも少し大きい。けれども二足で歩行する。多種多様の感情を抱いて、涙を流すことさえある。そいつはとかく、盛名威望を欲する。歴史にその名を刻むを良しとする。そして、実際にそうなり得た。すると動物は一転、無想無念となる。その名誉のいかほどかを我に返って知るところとなる。時流の大勢はその湛える顆粒の無限に、動物の名を抱くとも無く、ただどこともつかず『含む』のみである。

 彼がふとして仰ぐと、左方の窓の茜色で日が暮れかけるのを知る。強く握りしめる右手を緩め、入浴に立つ。再度机に戻ると、日はすっかり沈みきっていた。街灯とも月明かりともつかぬものだけが頼りに落ちている。冷蔵庫から持ち出してきた乳酸菌飲料を置いて、スタンドを点灯する。そうして身の入らない資格の勉強をするのが日課だからである。——が、彼の目に飛び込んできたのは、無造作に羅列された文字であった。冒頭舐めるように読むが、全く文を成していない。しかし、彼はその無意味の黒ずくめから、野望の正味に打ちひしがれた犬があったことを思い出した。——その像を描いてみることにした。何故って、その犬のことが妙に愛おしく狂おしく、見える姿にして保存しておきたい衝動に駆られたのだ。

「よし、できた」と異様に独り言つ。身を引いてその姿形を眺めてみる。やはり、絵は大成しそうに無い。だが、愛着は一層増すようで、彼は紙を破り切り離して、窓の下方の壁に、直にピンで貼り付けた。それを頭に布団を敷いて眠り、その日はそのまま次の朝を迎えたのである。

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