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9話 女王と亡霊の夜伽

9話


 ミスター・アリスは激高する。


 こんなに興奮しているミスター・アリスを僕は見たことがなかった。


 首の部分に燃えている炎が激しく燃え盛り、揺れる、震える。


 クッションの上にある、ミスター・アリスの頭からは、怒りのためか、蒸気が立ち上りつつあった。


「私はガルシン元大統領を待っている。ガルシン元大統領は隣の緑の部屋に行ったまま戻ってきてない。私には彼の助言が必要なのだ。今すぐ彼の言葉を聞きたい。いや聞かせてくれなければ困るのだ!」


「落ち着いてください」


 僕も「緑の部屋」に現れるガルシン元大統領の亡霊の噂は知っていた。


 ハリラーン共和国ではかなり有名な噂で、西クリスに住む人で知らない人はいない。


 ミスター・アリスに話を合わせて僕も切実な声を出した。


「積もる話があるのかもしれない。もしかしたら、伽の最中かもしれない。ガルシン元大統領だって、そんなにしょっちゅう女王に会えるわけじゃないでしょう? 待ってあげるのも友情じゃないですか?」


 我ながら適当な言い草だ。


 それに腹を立てたのかどうなのか、ミスター・アリスの表情に精悍さが戻ってきた。おそらく僕のような客人にではなく仕事中に見せる顔なのだろう。


 伏魔殿と別称もされるハリラーン共和国政府の中枢を駆け上がった力強さと底知れぬ怖さがそこにはあった。


「友情? そんな薄いものではない。我々は同士なのだ。さまざまなものをこの腕から奪われていった傷の痛みは民衆には分からん!」


「あなたが負った傷の深さは確かに僕には分からない。ですが、相手はロロ・キドゥルですよ。たとえガルシン元大統領が特別に彼女が心を許した存在であっても、女王の機嫌を損ねることはできないはずです」


 ミスター・アリスから感じられる迫力に、自分でも気づかない間に手が震えていた。


 そして、ふと。


 誰かの息づかいを首筋に感じて振り返った。


 だが背後には薄暗い明りを灯すスタンドライトが立っているだけだった。


 ミスター・アリスは不思議そうな眼で僕の顔を覗き込んだ。


「ほお。すごい恐怖心だ。そんなに怯えているのに私に意見をする力があるとは驚きだ」


「失礼しました」


「こちらこそ失礼した」


 いきなりミスター・アルスが緊張を解いた。


 なにが起こったかわからないが、僕はあからさまにほっとした。


 ミスター・アリスが急に、客人を迎える顔に戻ってくれたからだ。


「私の心が安定していないのは聞いているだろう。悪かった。時々、こうなってしまうのだ。また苛立っては申し訳ない。早く終わらせてしまおう」


「気が立っているんですね。そんな辛い中、お願い事に訪れて申し訳ありません」


「いや、いいんだ。それが未来の希望を持った者の力だと改めて感じたよ。未来とはいいものだな」


「未来ですか?」


「ノアの赤ん坊のことだ」


 僕は笑った。


「赤ん坊…。それもガルシン元大統領のお告げですか?」


「何を言ってるんだ」


ミスター・アリスは心から愉快そうな笑みを浮かべた。


「さっき、ノアは新しい奥さんを連れてここに来たじゃないか。みずくさい。そういうことなら、チケットを2人分送ったのに。ハルカ・リコリコさんと言ったかな。妊娠三か月…いや四か月か。だが肝心の書類を持って来なかったと言って、一度、取りに戻っただろう?」


 今度は僕が驚く番だった。


「ハルカ…と、僕が?」


 ──妊娠???


「子供はいい…。未来そのものだ」


 ミスター・アリスは僕の言葉を聞いてもいないようだった。書き終わった書類一式を丁寧にまとめて僕に差し出した。


「私は妻を失った。だが子供たちは残っている。未来はまだ失っていないのだ。それに私にはガルシン元大統領がついている。ガルシン元大統領が私を導いてくれる。君にも未来があるようだね」


「……未来……」


「君の子供の祝いを今度させてもらうよ。…さ、これでヴィザの手続きもつつがなく済むだろう」


「はい……」


「奥さん……ハルカさん」


 いや。まだ妻ではない。入籍する前にハルカは死んだのだ。


「その保証人の書類もいつでも持ってきなさい。アレスの街の別荘のことも問題ない。家具はほとんど揃っているから今日からでも住めるはずだ」


 僕は困惑したまま礼を言って書類を受け取った。


「ああ、それとボーブル大遺跡だったな。こっちも管理事務所に声をかけてある。明日の夜なら入れてくれるそうだ」


「はい……」


「時間は夜の3時。チケットは息子のアリが手配してくれているから、帰りに部屋に寄ればいい。この隣に泊まっている。飛行機は陽が落ちる前には首都に着くだろう」


 一気に言い終えるとミスター・アリスはそっと目を閉じた。そしてテーブルから腕が滑り落ち、万年筆が絨毯の上に転がった。


 コロコロコロコロ……。


 僕は呼びかけることもできなかった。


 静かに部屋をあとにするしかない。


 だが、しばらくはミスター・アリスのドアの前から動けなかった。


 ドアを前にして、右がロロ・キドゥルの部屋で左がアリの部屋。


 そこに挟まれた部屋で、ミスター・アリスは苦悶に疲れ、今はひとり眠っている……。


 一方で、僕は困惑していた。


 ハルカがここに来ただって?


 意味が分からない。


 僕が訪れる前に、もう1人の僕と?


 ──何が、起こって、いるんだ……?


 不意に、ロロ・キドゥルの部屋からヒソヒソ話が漏れてきた。


 妊娠、妊娠と聞こえた。


 ミスター・アリスのドアの前を離れ、アリの部屋の前に立った。


 それでも耳元に、妊娠、妊娠というヒソヒソ声が聞こえていた。


 ハルカの姿は、僕以外には見えないはずだ。


 それを、ミスター・アリスは、見た、と言った。


 しかも、もう1人の僕も、そこにいた、と。


 僕が2人……?


 僕の脳裏に、過去の夢が蘇った。


 天上から逆さ吊りにされている僕。


 その前に、もう1人の僕と、うれしそうなハルカ。


 ハルカは言った。


「これは、覚醒した、ノアくんだよ」


      ※    ※    ※


 もう1人の……。


 覚醒した……。


 僕……?


 そんな夢の中の存在が、この世に影響を及ぼすことなんてあるのか。


 それとも、ミスター・アリスはやはり、気が狂っているのか。


 いや、それこそが、あのシンドゥー・ビーチで出逢った、ミスター・アリスの使いのデュラハンの言葉「あの人は病気なのです」、……その病気なのか。


 そして、信じたくない、もう一つの想像。


 ──ミスター・アリスは、ガルシン元大統領の亡霊のお告げで、その不可思議な夢のような力で。


 僕の夢と、自分の夢をリンクさせ。


 そこに、ハルカと、もう1人の僕の姿を見た──。


 僕は再び、ロロ・キドゥルの部屋のドアを見る。


 南クリスのハリラーン海の女王の伝説。ニャイ・ロロ・キドゥル。


 このホテルには、その、悲劇の女王・ニャイ・ロロ・キドゥルを祀った部屋がある。


 海海の底からこのクリス島を守護する存在となったロロ・キドゥル。


 つい最近まで、その魂を鎮めるために、牛の首を海に投げ込む儀式が残っていたという、ハリラーン共和国でも有名な伝説の主。


 髪が美しい緑色だったという伝説から、部屋は壁も天井も調度品も全てが緑色で整えられたその部屋は、元妻のリンと訪れたことがあった。


 独特のエネルギー磁場のある廃墟の様相をしていた。


 それは祭壇というには、あまりに簡素で、すべてが緑色の風景は、簡素というには、大きく現世と異なる雰囲気を醸し出していた。


 そこで今。


 その部屋で今。


 ガルシン元大統領の亡霊と、女王・ロロ・キドゥルが、夜伽よとぎをしていると言う。


 この、ドアの向こう側で。


 本当に……?


 そして、ガルシン元大統領の亡霊が、僕を、ハルカを、そのすべてを見通し、ミスター・アリスになにかの幻影を見せた……?


 妊娠、妊娠、というヒソヒソ声は、そのドアから聞こえ続ける。


 僕は、廊下がぐにゃりと曲がったような気がした──。

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