8話 闇の女王の部屋
8話
首都の中央港で僕を待っていたのは見覚えのあるミスター・アリス専属の竜車の御者だった。
モジャモジャ頭に鼻ヒゲをたくわえた特徴もそのまま。
「久し振り、アリフィンです!」
と握手もそこそこに僕を抱きしめた。
アリフィンはドワーフ族だ。ものづくりに長けた種族であり、その竜車もアリフィンのお手製。
ドラゴンがどれだけ早く走っても揺れないよう細工がしてあり、さらに壊れにくい。
ただ、御者としては疑問だ。
ドラゴンとドワーフ族の相性はあまり良くない。
「魔石を使うんですよ。ノアさん。この魔石、精霊たちがこしらえたものでね、ドラゴンに、よく効くんです」
港にあふれる光がまぶしかった。ゴブリン族たちが群がってきて僕の荷物を竜車まで運んでくれ、トランクは1つしかないのに、全員がチップをねだって来た。
ゴブリン族は執念深い。
怒らせると厄介だし、集団で襲ってきたりもする。
僕は彼らに50ゴールドずつ払い、そしてアリフィンの竜車に乗り込んだ。
※ ※ ※
ジャポニカが資金援助をしたという美しいハイウェイは快適だった。
「この調子なら夕方にはサムデラ・ビーチ・ホテルにつきますわ」
と、アリフィンも上機嫌だ。
空から落ちてくる陽は透明だった。
風は窓の外を過ぎ去っているのに、光は僕の首筋や腕をあぶり続けていた。
僕たちの竜車が前の竜車を追い越すたび、風の音が僕の耳にこもるヒソヒソ話を吹き飛ばしていった。
ここ最近のヒソヒソ話はわずかだが意味が分かるほどになっていた。
それはジャポニカのヒューマン語だったりハリラーンの共通語だったりデミ・ヒューマン語だったりした。
僕の噂話をしているのは明確だった。陰謀の声のような気もした。
ヒソヒソ話は、僕について、いろいろと語っているのだ。
耳にこもるヒソヒソ声。
風で飛ばされないよう、僕の耳にしがみついているその声。
僕にまつわる噂話たち。
噂は不快だ。
真実ではない。当の本人じゃなければ真意が伝わらない。ましてや、種族を超えてをや。
なぜ、人は簡単に噂話を信じてしまうのだろう。
心無い、その言葉が表すように、噂話には、まったく心が無い。
どうとでも切り取れる真実。
切り取ってつなげれば、いかにもなストーリーが出来上がる、悪意あるフィクション。
真実とフィクション。
それをこの世に生息するすべての者たちが見分けることができたなら、僕もハルカも幸せだったろうに……。
竜車は、ハイウェイを首都では下りず、山中へ向けて走って行っていた。
「首都のミスター・アリスの家族には会わなくて大丈夫なんですか?」
と僕は訊いた。
「挨拶をしなきゃいけないと思うんですけれど」
アリフィンは陽気に答える。
「あの方から直接、サムデラ・ビーチ・ホテルに来てくれと言われています」
「ご家族は?」
「ミスター・アリスのご家族も何人か、ホテルに宿泊しています。正式な家族への挨拶は、ジャポニカでヴィザを取得し、アレスの別荘に落ち着いてからでいいそうですよ」
竜車はジャングルを突き抜ける巨大な槍のようなハイウェイを離れ、山肌すべてが茶畑になっているプンチャックに入った。
どこまでも手が届かない真っ青な空と太陽と茶畑以外は何も見えなくなり、僕は太陽の位置から測った東の方角に目をこらした。
その先には、タンクバン・プラフと呼ばれる火山があるはずだった。船を逆さにした形という意味の、巨大なカルデラを持った火山だ。
そのはるか向こうには、ボーブル大遺跡と呼ばれる涅槃の世界がある。
この世で一番、天上界に近いその頂上にハルカは登りたいと言った。
僕の思い出が螺旋を描き、曼陀羅になった一部に鎮座する元妻のリンとの新婚生活を爆破してしまいたいのだ。
リンを爆風で吹き飛ばし、代わりに自分の絶叫を満たした世界で、毎晩2人きりの舞踏会を開くのがハルカの希望だった。
陽の光は少しずつ変わっていく。南国の夕方がいつでもどこでもそうであるように、真っ赤な空はいきなり闇に落ちていく。
竜車がプラブハン・ラトゥの砂浜をなめるハリラーン海を見た時は、痛いほどの輝きを放つ星たちが空を征服していた。
シャラシャラと音を立てる光の靄が真っ暗な水平線へ落ちていた。
※ ※ ※
プラブハン・ラトゥというのは直訳すれば女王の港という意味だ。
どこにでもあるような海岸沿いの港町なのだが、その名の通り、この土地には古代王朝の悲劇の女王の伝説が色濃く残っていて、ミスター・アリスが待つサムデラ・ビーチ・ホテルには女王ニャイ・ロロ・キドゥルを祀った「緑の部屋」がある。
ミスター・アリスの宿泊している部屋は「緑の部屋」のすぐ隣だった。
呼び鈴を押すと、数秒待って、すっかり痩せてしまったデュラハン族のミスター・アリスが、顔を抱えて出て来た。
「おお、ノア、待ちくたびれたよ。さあさあ中へ。息子たちも泊まっているんだがね。何を怖がっているのか陽が落ちると部屋から出たがらん」
室内はわざと照明を落としているのか薄暗く、それなりに豪華だが、どこかかび臭かった。
ミスター・アリスはソファーにどっかり沈み込み、クッションの上に自身の頭を置くと、テーブルを挟んだ肘掛椅子を僕に勧めてくれた。
テーブルの上には白檀の灰皿が置いてあったが、まさか彼の前で煙草を吸うわけにはいかないだろう。
さっそく書類をとミスター・アリスが言ってくれたので、僕はファイルケースに挟んだ書類をテーブルの上にそっと置いた。
ミスター・アリスは書類を手に取り、目を細めてじっと眺め、またテーブルの上に置いて万年筆を走らせ始めた。
僕はタイミングを見計らってお悔やみの言葉を述べた。
ミスター・アリスはつと手を止め、少し寂しげな表情を浮かべて、「いいんだ、いいんだ。それはさっきも聞いたから」と小さな声で言った。
シンドゥービーチの男から聞いた通り、どうやらミスター・アリスは相当まいっているようだった。誰からいつ、何を言われたのか。時間と人間と風景が混ざって平坦なペンキ画のようになっているのだろう。
「緑の部屋には入ったことがあるかね?」
ミスター・アリスは書類から顔を上げずにそう言った。
「ええ、あります。以前、リンと来た時に」
「このホテルに泊まったのかい?」
「いえ、魚市場で直接買った魚介類を料理してくれるレストランがあると聞いて、浜辺沿いにあるクレオパトラというホテルに泊まっていました」
「そうか、そうか。いいホテルだ」
まったく感情がこもっていない彼の顔には深いシワが刻まれ、落ちくぼんだ眼窩に光る大きな目だけがまだ異様な光を放っていた。
「緑の部屋か…。壁も緑、天井も緑、床も緑。絨毯もベッドも、バスルームもすべて緑。ホテルの一室が丸ごと緑色なのだ。あの部屋に入ると、ロロ・キドゥルの胎内に入った気分になるよ。ところで、どうして部屋が緑なのかご存知かな?」
「いいえ」と僕は正直に答えた。
「女王が緑色のドレスを着ているからですか?」
部屋の中に飾られてある女王の肖像画を思い出して当てずっぽうを言ってみた。
「その説もあるが、実は緑色なのは髪なのだよ」
ミスター・アリスはそこで大きく咳ばらいをした。肺を病んだ音が胸を鳴らした。
「美しい艶のある長い髪。大変な美貌を持った女性だったらしい。父王が勧める結婚を断って、忌まわしき呪いをかけられてしまったが…」
「確か、怒った父王に呪いをかけられて、海の中の宮殿に幽閉されたんですよね」
ハリラーンでは海は魔物が住む場所だと信じられている。つまり彼女は闇の世界の女王となったのだ。
「何でも知ってるな」とミスター・アリスは笑った。「では、私がここにいる理由も分かっているんだろう?」
「ええ、おぼろげには…」
「ガルシン元大統領だ!」
突然、ミスター・アリスがテーブルを叩いた。
その勢いで万年筆が海を臨む窓に飛び、ガラスをこする嫌な音がした。
それは僕が見たこともないミスター・アリスの表情だった。