7話 踊り狂う猫と犬
ミスター・アリスからの手紙が届いたのは3日後だった。
その3日間、陽が出ている時間は水遊びやクリシス寺院の観光などをし、夜はハリラーン共和国で僕が今まで見聞きしたことを語って聞かせるといった、ママゴトのようなハネムーンをそれなりに楽しんだ。
もっとも、シンドゥービーチから帰ってきた夜は大変で、僕がヴィラのドアを開けるや否やハルカは「ねえ、愛してる? 私のこと愛してる?」と泣き叫び、僕の体にしがみついて、なだめるのに一苦労だった。
カフェで、あの男が…つまり、自分のことを赤の他人に好き放題、言われたのがよほど悔しかったらしい。
それは僕も同じだ。
だが、人は、表面上でしか、物事を見ない。
そうでないのは、人の心を読むことが出来る、ヒューマンでもデミヒューマンでもない、別の一族でないと分からないことを、僕は長いハリラーンでの生活で知っていた。
「あんな人のお世話になりたくない」
から始まって、どこをどう曲がったのか、彼女の憎しみは僕の母親にまで及んだ。
ほとんど絶叫に近いののしりを浴びながら、僕は彼女が自らの叫び声にびっくりして怒りの呪縛が解けるまで待った。
やがてきょとんとしたハルカを庭に連れ出し、僕は花壇の花の匂いを飽きるまで嗅がせた。
ハルカは以前僕が話した白いパールミンの花の話がお気に入りで、気分が落ち着くと、「どれどれ」とその花を探して夜空の下で走り回り始めた。
とある白いパールミン系の花弁を煮詰めると、いい感じにぶっ飛べるという話を聞いた僕の友人が実際にやってみてひどい目にあったという、たったそれだけの話なのだが、ハルカは何度もその話をしてくれとねだり、そのたびに僕は話し方を少しだけ変えて聞かせ、何度でも彼女が笑う、そんな日々もあったのだ。
結局、その花は内庭ではなく、クロークの外側にあり、ハルカはパールミンの花弁をつまんだり、撫でたり、さんざん嬲った挙句、「かぶれないかな」と今更なセリフで涙目ながらに僕へ訴えかけた。
2日目の夜はやたらと機嫌が良く、僕がクロークにお願いしてゆずってもらったさまざまなフルーツをバスケットひとつ分、ペロリと食べた。
ハルカはコミックのキャラクターのように満腹のお腹をぽんぽんと叩きながら僕とミスター・アリスの出会いの話に耳をすませた。
「娘さんがノアくんの実家にホームステイしてたんだ」
「うん。ハリラーン旅行のついでに訪ねて行ったら、お父さんにぜひ会わせたいって。着いた建物が法務省でさ。とんでもない豪華な部屋に案内されて……」
「びっくりするよね。事務次官が出てくるなんて普通思わないよ」
実際、ミスター・アリスの力はかなりのもので、移民局で酷いトラブルが起こった時に、「私が保証人なのだが」と電話一本で解決してくれたことも多々あった。
それでもトラブルが絶えないのがハリラーン共和国らしいと言えばらしいところで、すべての手続きを個人でやらなければならない社会文化ヴィザを取得するには、ある程度の権力を持った人にお願いするのが楽だし、計画が狂ってばかりのこの異国で生活するには何かと心強かった。
ミスター・アリスが送ってくれた手紙には、首都ではなく、プラブハン・ラトゥのサムデラ・ビーチ・ホテルで会いたいと書かれてあった。
プラブハン・ラトゥはクイル島の南海岸、首都から。僕と元妻が過ごしたアレスを通過して竜車で6時間ほどいった場所にある小さな港町だ。
いろいろと当初の予定が変更になってしまったことに別に文句はなかったが、気になるのがハルカの体調だった。
しきりに食べた物を戻してしまうのだ。
元々、吐き癖はあったのだが、ハリラーン共和国に到着してからは酷くなる一方だった。
「ノアくんが新婚生活を送っていた国だもん。前の奥さんの匂いがするから気持ち悪くなるんだよ」
とぶつくさ言っているが、ハリラーン旅行を望んだのは彼女だし、旅程を計画したのも、これを足がかりにヴィザを取って、ハリラーンで生活しようと決めたのも彼女だ。
首都出発前日のアスラン海岸ではせっかく食べた魚やロブスターをすっかり海に戻してしまい、うつろな目をしたハルカをヴィラに連れ戻すと同時に激しいスコールがヴィラを叩いた。
「猫と犬が転げ回るよ」
ハルカはこの旅行のために覚えた「どしゃぶり」という意味の英文をベッドの中で繰り返した。
「猫と犬が転げ回るよ」
歌うように同じ文句を繰り返し、雨の中を犬と猫がコロコロ跳ね回っているようでかわいいと言った。
僕は真っ青な顔のハルカの頭蓋骨をしっかりと胸に抱きしめ、スコールがおさまるのを待った。
力を入れるとすぐにでも割れてしまいそうだった。その割れてしまいそうな丸み。それが、僕にとっては、人間そのもののように感じ、女そのもののように感じられた。
頭蓋骨の丸み。
それが、女の子の最も好きな部分だ。
ようやくハルカが眠りについた頃、不意にドアを激しく叩く音が聞こえた。
夜中の2時を回っていた。
誰だろうとのぞき穴から見るが、そこには誰の姿もなかった。
だがその僕の目の前のドアがさらに激しく叩かれ軋みを上げた。
ハルカが目を覚まし、怯えた目でシーツをたぐり寄せた。僕は思い切ってドアを開けた。
ドアは何かにぶつかり、さらに力を入れると、2匹の犬が重なった姿勢のままズルズルとドアに押しのけられていった。
僕は大声で笑った。
その声に驚いて犬はスコールの中を逃げて行った。
「どうしたの?」
ハルカが訊いた。
「犬だよ」
僕は笑いをこらえながら言った。
「犬がよりにもよって僕らのヴィラのドアの前で交尾していたんだ」
一気に緊張が解けた僕たちはその場で笑い転げた。
少しだけドアを開けておいてとハルカが頼むので、言われた通りにし、ベッドの上から、蚊よけのカーテン越しにスコールに叩かれ、嬲られる花たちをじっと見ていた。
ドアから漏れる光に誘われたのか、1匹の黒いハリラーンの猫が闇の中から姿を見せた。
「逃げないね」
「慣れているんだよ」
「ハリラーンの猫はみんなそうなの?」
「ジャポニカもハリラーンも猫の性格はそんなに変わらないよ」
僕たちは猫が逃げないぐらいの声で会話を続けた。
「本当に計画通りにいかないね」
「ツアーじゃないからな。ハリラーンではこんなもんだよ」
「ねえねえ、ボーブル大遺跡は行くよね」
ハルカはぎゅっと僕のシャツを握りしめた。
「元奥さんと初めて旅行した場所でしょ?」
「行くよ。プラブハン・ラトゥでサインをもらったらすぐに行く」
「私から逃げたら許さないよ」
──6年前、クイル島のアレスで新婚生活を送り始め、元妻のリンとの最初の旅行らしい旅行がボーブル大遺跡だった。
誰が何のために建造したか分からないその遺跡は小高い丘を利用して作られた巨大な立体神界で、その最上部が極楽浄土を表わし、天上界から臨む真緑のジャングルの広大な海は心臓の鼓動が止まるほど激しく胸を叩いた。
スコールの音が僕の思い出を侵食していった。
「絶対に行くよ」
と僕は呟き、ハルカが眠ってしまうまで待った。
ハルカは僕が喋りかけているわけでもないのに何度も何度もうなずいた。
吐き気を抑えようとしてうなずくたびに、涙が出てくると言った。
雨宿りを続けているハリラーンの猫はネッドのカーテン越しに、金色の目でこちらをじっと見つめ続けていた。
僕は、ハルカの苦しみを知らない。
ハルカも、僕の苦しみを知らない。
ハルカの望みは、僕の記憶を、自分の記憶で塗り替えることだ。
だが、僕が考えていることは、別だ。
“解放”。
すべての魂を浄化し、天へと送る古代宗教・ルードルフ教の遺跡。
その最上階で“天上”を意味する、その場に登っていけば、ハルカの魂は浄化され、天上へと誘われると僕は信じていた。
永遠を望むハルカと、断絶を望む僕。
もう一度、言おう。
僕にとってこの歪んだハネムーンは、すでに死んでしまっている、新しい僕の花嫁を、あの世へと送るための旅だ。