3話 片腕のダークエルフ
ホテルでハルカが僕に言った「約束ね」という言葉を覚えているだろうか?
その「約束」とは何なのか。それをこれから説明しよう。
シンドゥー・ビーチでの大切な待ち合わせの時間までには、まだ時間があった。
僕はその前に、ハルカと交わした「約束」を果たしに、ハリラーン生活時代に友人だった、マデのいる場所へと向かう。
猫の親子が海に向かって仲良く箱を作り、丸くなって並んでいるのが見えた。僕は彼らの影を踏むと、垣根を乗り越え、曲がりくねった秘密めいた路地へ入った。
この時間のハリラーンの路地は地元の住民らのささやき声に満ちている。まるで洞窟の中を歩いているように、角を曲がるたびにあらぬ方向から波が砕ける音が聞こえてきた。
声の主が分からない、木霊のようなヒソヒソ話と波の音を聞きながらダナウタンブリガン大通りに出ると、何台もの馬車がヒマそうに客待ちをしていた。
愛想のいい客引きの言葉に適当な笑顔を浮かべ、僕はいくつものレストランとホテルを通り過ぎた。十五分ぐらい歩いて、マデからの手紙に書いてあった住所に到着した。
そこは「売春宿」だった。
マデは竜人だ。数少ないハーフ・ドラゴン族の末裔であり、当時から珍しがられ、多くの友人がいたが、どうやら今はマフィアの一員として活動しているらしい。
巨大なドラゴンがその「売春宿」の隣で眠っていた。おそらく番犬代わりだろう。その周辺には、何人かの獣人。オオカミ、キツネ、そしてヤマネコ。それぞれの獣人が僕の姿を見て、ギロリと視線を向けた。
マデからの手紙を魅せると、獣人たちは途端に笑顔になった。
僕は堂々と正面からその「売春宿」に入り、そしてマデのいる部屋に通された。
※ ※ ※
「写真だろ? 見つけるには見つけたけどな」
売春宿店主のマデはそう言うと、封筒の中から僕と別れた妻が写っている写真をテーブルの上に無造作にバラまいた。
「いくら奥さんと別れたからと言って、自分の手で全部破くことはないだろう? あまり意味があるとは思えないな」
僕は曖昧に笑って写真の山を見つめた。
「まあ、いい。そうだ。コーヒーでも飲むか? それとも酒か?」
「コーヒーが欲しい」
僕は一枚の写真を手にとりながら答えた。
「これからカイラル教徒と会うんだ。お酒の匂いをさせるわけにはいかないから」
「ほうカイラル教徒?」
マデは目を光らせながら言った。
「つまりはガルーダ族なのか?」
「いや、デュラハン族」
「デュラハンか。何者なんだ、それは」
「ミスター・アリス」
「ガルーダ族の名前じゃないか」
「知らないよ、そんなこと」
写真の中には、ゴールデンサンドビーチに座る、幸せそうに笑った僕と僕の元妻のリン、そしてマデの姿があった。
僕とリンが結婚して4年目ぐらいの頃だ。日本で簡単に式を終わらせた僕らは、その結婚生活の大半をハリラーン共和国で過ごした。
「リンもいい笑顔をしているな」
マデが言い終わらないうちに、僕はこのハリラーン時代の写真を乱暴に指で引き裂いた。
マデは最初は驚いたような表情を見せていたが、やがて、これみよがしなため息をついた。そして肘掛椅子に深々と沈み、大声で「コーヒー!」と叫んだ。
マデの本棚にはこの国で手に入れられる数少ない文学書が並んでいた。それらの小説を読ませてもらい、2人で盛り上がった頃と比べると、壁のペンキはさらに白くまぶしく、ムラなく塗られていて、それだけで彼がどれだけ儲けているかが良く分かった。
この部屋にいると、この建物の中で、今まさにいくつもの売春行為が行われている真っ只中だということを忘れてしまいそうになる。
だが、コーヒーの入ったジョッキグラスを持った女がドアを開けた瞬間に淫らな悲鳴にも似た叫び声がもれてきて、すぐに当たり前の現実に引き戻された。
部屋は2階に3つ。1階に2つ。最低でも5人の女の頭蓋骨が男の腕に抱かれていることに思いを馳せる。
マデの机の引き出しの中に、陸軍から買いつけた短銃を隠し持っていることにも──。
女は慎重にコーヒーの入ったジョッキグラスを置いた。
「ありがとう」と言いながらその女をちらりと見た。恥ずかしそうにはにかむその女は、眼の端で見ても、ただのメイドではないことが分かった。
「うちのナンバー1だ」とマデは言った。「ノアが遊びに来るって聞いていたからな、今日は客を取らせていない」
「キレイな子だね」
それはお世辞ではなかった。ハリラーン人にしては高く整った鼻。小さな頭、長い手足。エルフかと思ったが、オリーヴ色の肌を見るとそうではなさそうだ。
マデは僕の考えを読み取ったのか、ただ自慢したいだけなのか「こいつは、ダークエルフなんだ」と誇らしげに言った。
「隣国から移住して来たんだが、前の首都暴動で肉親を殺されてな。家族の借金を抱えたまま逃げ回っていたんだが、巡り巡って俺の所で預かっているってわけだ。まだ二十歳にもなっていない」
「嫌がらなかったのかい?」
僕は無言のままの彼女を見上げて言った。
「上客だけにしてある。アレの代金だけじゃなく、こいつの生活の補助をしてくれるような外国人だ。わざわざ高級ホテルに泊っている客が買いに来るくらいなんだぜ。…まあ、エリユリ、お前も座れ」
マデがそううながすと、エリユリと呼ばれた女は静かに椅子を引き、テーブルについた。
そのムダのない動きに僕は感心した。上流階級の家庭の育ちだったんだろう。ちょっと頭を下げるその控え目な仕草からもそれはわかった。だが何か違和感があった。
エリユリの左の手は肌と違った光沢があった。
ちょうど右側をこちらに向けているのでハッキリとはしなかったが、長袖の袖口から見えているそれは“義手”だった。
おそらく肩口から指先まですべてが。
僕はエリユリの義手から努めて目を離し、「気持ちはありがたいんだけれど」と言った。
「さっきも言ったように、この後、人と待ち合わせをしているんだ」
「分かってる、分かってる」
マデは大げさな身振りで僕の言葉をさえぎった。
「お前はリンと別れた。そして、ここへは俺が持っているリンとの写真を破り捨てに来た。そしてお前はカイラル教徒と待ち合わせをしている。カイラル教の奴らはお祈りをしなきゃならんから朝が早い。だから奴らは夜十時にはすっかり夢の中だ。お前は十時以降、何もすることがない。どうだ、違うか?」
「この後の相手の予定なんて分かるものか」
僕は写真を破りながら答えた。
「ハリラーンに住む人たちがみんな気まぐれなのは、ハリラーン人である君が一番良く知っているだろう?」
マデは大笑いをした。
「じゃあ、そのカイラル教徒は夜更かしをする可能性があるってことなんだな」
「分からない。けれど僕は、その人にどうしても会わなくちゃいけないんだ。時間の指揮権は彼が握っていると言っていい。怒らせちゃヤバイ相手なんだよ」
「それだけじゃなさそうだな」
マデは僕の表情から何かを感じ取ったようだ。明らかに不快を表している彼の目に少し不安を感じながら、僕はハリラーンでの新婚生活を次々と紙屑にしていった。
「わかったぞ。女だろう? 新しい女だ」
「ご名答」
僕は正直に答えた。
「家にある写真も全部、こうやって破いたんだ」
実際には、ハルカに、リンの写真をすべて破くことを強要されたというのが正直なところだが。
「ここにある写真まで廃棄か?」
「約束だったから」
「俺が写っているってことを含めてだが?」
明らかに僕を非難しているマデの声を聞いて、僕は何もかも打ち明けてしまおうかと一瞬思った。
ためらっている間に、マデは立ち上がり、背後の高そうな酒が並べて置いてあるキャビネットの引き出しから別の写真の束を出してきた。
「エリユリと旅行した時の写真だ」
マデは写真をアルバムにしまうということを知らないらしい。
その写真にはコロニアル調のパステルカラーの街並みに立っているマデとエリユリが笑顔を見せていた。
マデの笑顔は、まだ僕がマデの本当の商売を知らず、彼のコネでリンと一緒に格安旅行した時と同じだった。
ビーチ沖にある3つの小島、魚たちの棲み家になっている沈没船が有名な海、諸島の近くにあるピンク色をした砂でできた島。
みんな僕が今しがたまで破いてきた写真ばかりだ。
切れ端のマデの顔がそよ風にさらわれてするりと宙に舞った。ヒラヒラと落ちる思い出のカケラをマデは黙って見つめていた。
僕はマデとエリユリの写真にもう一度、視線を落した。
写真の中のエリユリの左腕の自然な動きから見て、この頃はもしかしたらエリユリの左腕はまだあったのではないかという思いが頭をよぎった。
「これはシャーム王国だよね」
「シャームだ。有名な大河の写真もある」
「ハリラーン共和国の者が政治的に敵対しているシャーム王国に行くのは大変なんじゃないじゃ?」
「そりゃ大変だったさ。特に俺の場合はちょっと“傷つき”だったもんでな。港の税関で2時間も旅行目的や素性について話をさせられたよ」
「でも楽しかったんだね」
「楽しかったさ」
きっと大金を積んだに違いない。
エリユリは無言のまま、その写真を見つめていた。
その嫌悪と恐怖が入り混じった瞳から、シャーム王国でマデとの間に、何かあったことを想像することはできた。
ただ、マデの理解不能で残虐な行動力を考えると、具体的にどんな事件があったかまでは考えたくない。
そして、エリユリは、何かの代償として、マデに腕を。
斬り落とされた──。