最終話 カゴの中の神様たちとのダンス
最終話
カーラと呼ばれる鬼の顔が彫られた門を見上げた。この鬼の口の形をした門をくぐればひとつ災いが飲み込まれると言われていた。
一辺が120メートルにも及ぶ最下層の第一回廊を歩く。壁には古代神話に関するレリーフが物語形式ではめ込まれてある。
僕ら以外誰もいない回廊に、僕らだけの息づかいが聞こえる。星空の下を僕らは歩き続ける。
突然、ハルカが駈け出した。追いかけようとしたがハルカの姿は闇に消えてしまった。
「ハルカ、いるか?」
僕は叫んだ。
「いるよ」
どこかのレリーフの隙間からハルカの声がした。ハルカを追いかけ、結局、最下層をぐるりと一周した。
「ハルカ、いるか?」
僕はもう一度呼びかけた。
「いるよ」
声の方を見ると、二階のカーラのところでハルカが立って待っていた。ハルカは息ひとつ切らしていなかった。
「次の世界だよ!」
ハルカは言った。
僕は階段を上ってようやくハルカの隣に立った。だが、またハルカが駈け出し、鬼の口に飛び込んで回廊の闇へ消えていった。笑い声だけが残されていた。
僕も取り残されないよう、カーラをくぐり、必死になってハルカを追いかけた。巨大な円錐を逆さまにしたような遺跡の中で僕らは追いかけっこをしていた。
第二回廊、第三回廊と僕らは古代遺跡の螺旋を駆け上がっていった。全速力で回っていった。
子供たちが公園の遊具の周りを駆け回るように、僕らは走った。息が上がり、心臓の鼓動が頭の先まで響いた。
第四回廊まで来ると、巨大なストゥーパがあらわになった。いびつな玉ねぎの形がくっきりと星の光を切り取っていた。
まるで神様の頭蓋骨のようだとひとり思った。
この先には涅槃の世界がある。古代神話の彫刻の森の先に、災いが取り除かれた苦しむことがない世界がある。
思えばジャポニカからはるか遠く南の土地で、2人で一緒に天上界へ向けて螺旋を上るなんて、ハルカと出会った頃には思いもしなかった。
ハルカにはいつも苛立たされてばかりで、そうでなければ不安にさせれていた。
方向感覚を失いそうになっている状態が、今と同じだった。
広大な遺跡の中を月と星の光を頼りに歩いていると、自分が今、どこにいて、どれぐらいの高さにいるのか分からなくなる。それなのにハルカは駈けていく。僕はそれを追いかけるしかない。
「早く、早く」
ハルカがせかした。
ハルカはすでに最後のカーラの前にいて、今にも階段を上りだしかねない勢いだ。
その手の先に1人の子供が繋がっていて僕は思わず立ち止まった。
ハルカに手を握られ、じっと上目づかいに僕の方を見ている。
ハルカに問いただそうとした瞬間、ハルカはその子を連れて階段を上って行った。
2人の姿が鬼の口の中に消えた。慌てて僕も続いた。
階段を上り終えると、そこが涅槃だった。
※ ※ ※
視界が大きく開けた。風がゴーゴーと音を立てて僕らを嬲った。中心の大ストゥーパの周りをいくつもの小さなストゥーパが円状に何重にも取り囲んでいた。理子はそのひとつによりかかって僕を待っていた。
「子供はどうしたの?」
僕は周囲を見回しながら訊いた。
「私のお腹の中に決まってるじゃない」
ハルカは嬉しそうに言った。
「それより、このカゴの中には何があるの?」
「カゴ?」
ハルカが言っているのは彼女が寄りかかっている小さなストゥーパのことらしかった。確かに、大きなカゴをひっくり返したように見えなくもない。
「神様だよ」と僕は答えた。「その中には神様の石像が入っているんだ」
「ここにある全部が神様?」
「ここにある全部が神様」僕は繰り返した。
「ここにある、全部が全部が神様?」
ハルカが僕をからかっているのが分かった。
「ここにある、全部が、神様」。
僕は噛みしめるように言った。
「この中にあるのは神様、私の中にいるのはノアくんと私の子供」
ハルカはそう言うと、今は暗くて正体がよく分からない広大なジャングルの海を見渡した。ゴウとひと際大きく、風の音がした。
「広いんだね」
「広いよ」
「朝陽が昇ると、もっと広くてきれいに見えるのかな」
「そうかも知れない。そうじゃないかも知れない」
「そうか。見たかったな…」
ハルカは小さく呟いた。
僕らは飽きることなく涅槃の中を彷徨い歩いた。どこを歩いても神様がいた。神様の数だけ、僕らは視線にさらされていた。
僕は、今、自分がハルカからどう見えているか訊いてみた。もしかしたら、今なら彼女が語る“覚醒”した僕になっているかも知れないと思ったからだ。
だがハルカは「そんなこと言ったっけ?」と首をかしげた。
「そう言って踊っただろ?」と僕は詰め寄った。
「どうやって?」
「こう…」と僕はダンスのマネをした。その不格好な僕を見て理子はお腹を抱えて笑った。
「違う、こうやるの。お手本を見せてあげる」
ハルカはそう言うと、胸の前で両の腕を使ってふわりと円を作り、息を吐いて意識を集中してから踊り始めた。
神様の間を縫ってクルクルとまわりながらピルエットを見せるハルカは心の底から楽しそうだった。この巨大な遺跡の渦の中心で、彼女は笑いながらまわり、まわり続けていた。
ここに来ればもしかしたらハルカが成仏してくれるのではないかという淡い期待もあった。ハルカが、ここに来れば僕が持つ、元妻のリンの思い出を消し去れるという期待と同じようにそれは小さくはかない希望だった。
朝陽が昇るときっとハルカの姿は消え去ってしまうのだろう。だが夜になって星が戻ってくると、また僕に何かねだるために姿を現す。でも少なくとも今は、踊っているハルカの姿をいつまでも見ていたいと思った。
僕はハルカと今後もハリラーンの地で生きていく。きっと数か月もすれば、ジャポニカで失踪届けが出されるはずだ。もしかしたらすぐに見つかってしまうかもしれない。それまではハルカと2人の生活は続くはずだ。いつまでもダンスを踊り続け、ピルエットを交える理子の姿を見ながら、僕は、朝陽が昇らないようずっとずっと、祈っていた──。




