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10話 白昼夢──、そしてボーブル大遺跡へ

10話


 ミスター・アリスの言葉は嘘ではなかった。ハルカは確かに僕が訪れる前にもう1人の僕と一緒にミスター・アリスに会い、そしてもう1人の僕が書類を持っていないのに気がついて慌てて部屋を出たのだと言った。


 僕は倉庫の天井から片足一本で吊るされている夢を思い出した。


 夢の中でハルカは「”覚醒”したノアくんだよ」ともう1人の僕に甘えていた。


 プラブハン・ラトゥからボーブル大遺跡のあるカンパネルに向かう竜車に揺られながら、ハルカのお腹の子供は僕の子なのか、“覚醒”した僕の子なのか考えてみた。


 そもそも“覚醒”という定義すら曖昧だし、何より僕は、そのもう1人の僕に夢の中で一度会ったきりだ。


 ハルカが“覚醒”後の僕と、どれぐらいの頻度で会っていたのか、彼女の口調からは想像もつかない。


 夢の境界線や時間割が分からない僕にとって、ハルカの行動範囲は生きていても死んでいても結局分からないままだった。


 試しに僕は、“覚醒”後の僕がハルカを抱いているところを想像してみた。


 不思議と嫉妬は起こらなかった。そもそも夢の中でも顔の部分が影になっていたのだから、その空想も中途半端だった。


 ハルカは竜車の中で「ハリラーンの港に着いた頃には赤ちゃんに気づいてたんだ」と僕に告白した。


「ずっと気持悪くて仕方なかったの。ノアくんがマデさんやエリユリさんと会っている間も、建物の外でずっと隠れて吐いてた」


 僕はただ黙って相槌を打った。


「ボーブル大遺跡は連れて行ってくれるよね。約束だもんね」


 僕はハルカの言葉に頷き続けた。どうにでもなれという気分だった。


 繁華街の近くに簡素なヴィラタイプの部屋を取り、当日の竜車の予約を終えると、ベッドの上で時計を見た。午後9時だ。ボーブル大遺跡には午前3時。ゆっくり時間を見て午前1時30分の出発になる。


 だが時間はあってないようなものだった。もう1時間ぐらい経ったかと思えば10分しか針は進んでおらず、30分ぐらい散歩しようと思い、町を適当に散歩して帰ってきたら、2時間以上も部屋を空けていたという状態が続いた。


 もう何日も寝ていないような気がしていた。実際は寝ていたのだとしても、今の時間の感覚がこんな状態なのだから、何もかもがあやしい。


 備え付けの冷蔵庫を開けてみた。中身は空っぽだった。エアコンがついているわけでもないのに妙に肌寒く、ハルカはシーツにくるまって部屋の中を所在無げにウロウロしていた。


 僕はハルカを窓際まで連れて行った。向かいのヴィラのテラスでエルフの女の子が2人、本を読んでいた。


 2人は髪の色はもちろん、顔や服装、手足の長さや太さまでそっくりだった。


「双子じゃないかな」とハルカは言った。


「そうかもしれない」と僕は答えた。


 と、2人がまったく同時にあくびをした。


 僕とハルカは窓の下に隠れて2人でクスクス笑いをした。


 どこかで獣人の赤ん坊の泣く声が聞こえた──。


           ※      ※      ※


 これからの時間の経過はさらに曖昧だ。


 ホテルを出発したことや、竜車で遺跡に向かっている景色、遺跡の管理事務所を訪れたことなど、断片的に記憶に残っているのだが、エリユリの左腕の記憶や、シンドゥービーチで見た影、ミスター・アリスが元大統領の亡霊と歓談している景色、さらにエルフの双子などの記憶がモザイク状になって、まったく整理ができない。


 気持ちが悪い。


 もしかしたら僕はハリラーンに着いてからずっと夢の中にいるのではないかと考えてみた。


 考えてみれば疑わしいことだらけだ。


 いや、それならば初めてハルカがまぶたの奥で僕に助けを求めた時から振り返るべきだ。


 実はあの日からずっと目を覚ましてないのではないか。


 ということはハルカが死んだというのも夢の出来事ではないか。まったくの幻ではないか。


 どうにでもなれと思っていたはずなのに、こんな疑問が次々と生まれる。


 答えが見つかるより早く疑問の数が増えるので、僕は何度も時間軸を遡った。


 だがジグザグと思考と記憶が乱れる割には足の歩みはまっすぐだった。


「産んでもいいよね」


 というハルカの声も確かに聞こえた。


 踏みしめる土の感触が気持よかった。一歩一歩運ぶ足の動きが今、僕が感じる現実だった。


 ゆっくり待とう。僕は思った。


 感覚が戻るのをゆっくり待てばいい。


 あと10歩、あと20歩。ボーブル大遺跡へと向かうこの小道に音が戻ってきた。虫の鳴く声が聞こえた。ゴーゴーと低く唸っているのは風の音だった。


「産んでもいいよね」


 またハルカの声が聞こえた。何度も何度も聞こえた。


 目の前に巨大な影がうずくまっていた。


 大気が異様に澄んでいるので、星のまたたきに奥行きがあった。その夜空の光の半分以上を半円形の闇で呑み込んでいるのがボーブル大遺跡だった。


「起きて!!!」


 ハルカが言った。


「起きてくれないと、元奥さんの思い出、消えないじゃない!」


          ※       ※      ※


 目が覚めると、隣にハルカの顔があった。星空の下でもはっきり分かるぐらい、満面の笑みだった。


 この笑顔には見覚えがある。あの時は天上から吊られての逆さまだったけれど、間違いない。


 そう言えば、この笑顔は夢の中以外でも見たことがあった。初めてハルカの部屋に入った時、初めてハルカが誕生日プレゼントをくれた時。あの頃はいつもこんな笑顔を僕に見せてくれていたんだ。だが僕に妻がいると知って彼女の笑顔は変わった。


 そう。ハルカの笑顔を変えてしまったのは、僕自身じゃないか!


 夢の中にいるかどうかはこの際、どうでもよくなった。思えばハルカとつき合い始めて何度このようにヤケになったことか。


 ヤケになることでしか、僕はハルカを愛せなかったのかもしれない。


 そして。


「愛している」


 と呪文のように言いながら違和感を味わい、そのたびにどうでもいいと思いながら同じ言葉を繰り返してきた。「愛している」と思いたいだけで「愛している」と言っていた。ヤケになることで繋がる“愛”もあると考えるしかないのだろうか。


 ついにボーブル大遺跡の前まで来た。


 この世界の七不思議に数えられる古代の大遺跡。誰が何のために作ったのか、どんな神々を祀っていたのか。


 巨人がうずくまっているような巨大な饅頭のような形をしたその遺跡には、天へ向かっていくいくつもの回廊があり、その頂上には涅槃の世界がある。


 そこは天界そのもの。すべての願いが叶うとも言われるし、夜に魂が回廊を登っていき、そして天に召された、との伝説もある。


「登ろうか」

  

 風が音を立てている中、まるで自分を鼓舞するように僕は言った。


 ハルカは「登ろうか」と僕の口調を真似て、うれしそうに笑った。


 回廊の先の天上界。


 ハルカがそこでどんな願いを叶えたいかは想像がついている。その笑顔が物語っている。


 でも僕は誰よりも、ハルカの魂がこの世に留まり続けることをやめ、その天上界から本当に天に召されることを願っていた。僕に取り憑いたハルカの亡霊は、ここで幸福に天へと帰るはずだった。


 チグハグな僕たちの想いを乗せ、このうずくまった大きな巨人が、どう僕たちを迎え入れてくれるか、僕は少しだけ身震いをしたのだった──。

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