幕間 星の流れない夜
真っ白な顔をした化け物が部屋の窓にべったりと張り付いている。
と思ったら、トカゲだった。
「…………っくりした」
はー、と胸を撫で下ろす。咄嗟に手に取った枕元の剣を横に置く。慌てて掛けたせいでちょっとズレている眼鏡のブリッジを押し込んで、ゆっくりベッドから降りていく。
真夜中で、南の国で、樹海の傍で、研究室。
ジルはまじまじと、部屋の窓に張り付いたオオトカゲの腹の白さに目を凝らしている。
何かがいるな、とは思っていたのだ。
寝ていても流石にそのくらいのことはわかる。何かが部屋の外にいる。そのことはわかっていた。が、何かがいるからといって別にいちいち目を覚ましたりはしない。
だって、樹海の傍なのだ。生き物なんかいくらだっているわけだし、羽虫が一匹通りがかるたびに驚いていたらキリがない。永久に寝られない。そういうわけで「なんかいるな……」と思いながらも無視を決め込んで眠り続けていた。
が、どうもそこそこデカいのが来た気がして。
目を覚ましたら当然裸眼なものだから、白い影がぼやっと浮かび上がって見えて、咄嗟に悪霊か何かなのだと思ってしまった。
チカノが悪い、とジルは思う。あいつの嫌がらせ夏の怪談劇場のせいでだいぶ過敏になってしまった。この場所で窓の外に何かが見えたらまず見知らぬ動物に違いないという常識がいまだに馴染まない。
窓ガラスにはべったりとトカゲの腹が張り付いている。びっくりするほど白い。たぶん、と考えた。研究所の中は魔導師たちのおかげでだいぶ低めの気温になっているから、涼を求めてここまで来たのだろう。
しかしじっと見ていられるのも具合が悪いのか、のったんのったん、とトカゲは窓から逃げて行く。何となくそれはそれで寂しい気もして、ジルは目で追う。下の方に逃げていく。すぐに部屋の中からは見えなくなるから、窓を開ける。
下の階に、明かりが点いているのが見えた。
これもチカノが悪い、とジルは思う。
もう結構な夜更けのはずだ。そして次の樹海探索の日はまあまあ近い。そうなると誰も彼もがそれなりに規則正しい生活を送ろうとしているはずで、となるとこんな時間まで起きているというのはあまり考えられない。
泥棒、という言葉が思い浮かぶ。
確かめておかねばなるまい、と思った。
別に本気で何かがあると思っているわけではないのだ。窓の桟に足を掛ける。そう別に、ただの灯りの消し忘れとかたまたま誰かがふらっと起きてきたタイミングにかち合っただけだろうとかそういうのはわかっているけれど、確かめておかなければちょっとした疑問符が残ってしまうというだけ。窓からぶら下がる。どうせ眠るならぐっすり寝たいではないか。だからそういうちょっとした疑念もぜひ解消しておいた方がいい。誰だってそう考えるというものだろう。頭の中で話を終わらせず、実際に目で見て確かめるのが理性的な態度というものではなかろうか。
研究所の中からその場所まで行ける自信はないから、トカゲのようにのたのたと外壁を伝って、ジルは行く。
傍から見れば不審者は自分の方だろう。そういう自覚はありつつ、ぺたぺたと手と足の指を使って無駄に器用に降りていく。途中で「普通にこのくらいの高さなら飛び降りた方が早くないか?」と気付いたけれど、乗り掛かった舟だ、最後までこのまま行く。
明かりの点いた部屋。
真上。
逆さになって、頭からひょいっ、と覗き込む。
幽霊にでも遭遇したような顔のネイがそこにいて。
奇跡的なことに、叫び声を上げずに済ませてくれた。
†
「死んでください」
「はい……」
猫が同じ目に遭ったら、耳も尻尾も全身の毛もパッと逆立つくらいの驚きようだったと思う。
どこの灯りが点いているのだろうと思ったら、食堂だったらしい。
夜。樹海の夏虫がさざめくほとり。キッチンの方からはジー、と熱の籠る音がしていて、畳んだエプロンを椅子にかけたネイは、不愉快そうにテーブルに頬杖を突いていた。
そしてジルは、彼女の前の床で正座している。
「普通、常識で考えてもらいたいんですけど、夜な夜な建物の外壁を虫みたいに這いつくばって部屋の中を覗き込んでくる人なんていると思います?」
「ここに……」
「常識で考えてもらいたいって言いましたよね?」
常識によって存在を否定されながら、まあしかし無理からぬことである、とジルはそれを受け入れている。普通に考えて怖いと思う。ついさっき寝起きにトカゲの腹を人の顔と誤認した自分だってあれだけビビったのだから、気持ちはわかる。トカゲどころか本物の人の顔が、しかも逆さまになって現れれば、普通、常識で考えれば、人はビビる。
本当にすみません、ともう一度謝る。
頬杖を突いたまま、ネイはこっちを見下ろしてくる。じ、と二秒。はあ、と溜息を吐いて、
「――まあ、どうでもいいですけど」
心の広い人で助かった、とこっちも安堵の息を吐いて立ち上がった。
取り込んでいたのが終わって落ち着いてみると、随分としっかりした夜に見えた。外を這いまわっているときも思ったが、昼の暑さも明るさもだいぶ落ち着いている。けれど朝日の気配はまだなくて、暖かく深い闇の中、食堂に満ちる明かりだけがぼうっと浮き立って感じられる。
他の誰も寝静まった夜。
幽霊相手じゃなかったとしても、あんまり知らない自分と二人きりというのもそれはそれで怖いか、と思うから、
「邪魔して申し訳なかった。俺はこれで」
はい、とネイが答える。何をしていたのかも少し気になったけれど、どうもそんなことを訊ける雰囲気ではない。だからジルは素直に話をここで終わりにして、食堂の、扉のない出口から出て行く。
右に曲がる。
「ちょちょちょちょちょ、」
止められる。
振り向くと、びっくりした顔でネイがこっちを見ていた。椅子から腰を浮かせている。信じられない、というような声で、
「どこ行くつもりなんですか、一体」
「いや、寝に戻るんだけど」
「そっち行き止まりですけど」
「…………」
一応、ジルは自分が今行こうとした方を見た。
行き止まりらしい。突き当たりを右に曲がった先に、二階への階段があった気がしたけれど。
「……じゃあ、こっちか」
「その調子で大冒険するつもりなら、窓から戻った方がいいですよ。虫みたいに這いまわって」
ネイが言う。根に持たれている。窓の外を指差す。いやそんなの無理だろ、とジルは思う。建物の中をうろちょろするだけならともかく、外から見たら自分の部屋なんて絶対わからないし、ネームプレートも外にはかかってないから確かめるのも一苦労だし、それでうっかりカーテンを閉めないで眠っている自分のような人間の部屋を覗き込んでしまった日には一体どう償っていいものかわからない。
「自分の部屋の窓から来たんだから、窓が開いてる部屋を探してそこに戻ればいいじゃないですか」
「いや、出るとき閉めてきた」
「……何その無駄な几帳面……」
はあ、ともう一度ネイが溜息を吐いた。ちら、と彼女はキッチンの方を見る。それから言う。
あと十分、
「待ってもらっていいですか。今、熱魔法石使っちゃってるんで。あんまここ離れたくないんです」
十分待てば、部屋まで戻してくれるという意味に取った。
もちろんです、とジルは答える。食堂の中に戻っていく。隣だの向かいだのに座るのはちょっと図々しいかと思ったから、一個隣のテーブルの、けれどそれほど遠くはないくらいの場所に座る。
「ありがとう、助かる。何か取り込み中みたいなのに、余計なことを頼んで申し訳ないな」
ちら、と目線を送る。キッチンの方。何かの音……というほどここに来ていないわけではないから、何となくジルにもわかる。調理器具の動く音がしている。どことなく熱っぽい、そんな気配が向こうの方からしている。
まさかこんな夜更けに、明日の食事の準備というわけでもないだろうと思ったけれど、
「……別に。眠れなくて遊んでただけです」
やっぱり、ネイはそんなことを言った。
エプロンの上には、研究所の夜に点ける白い明かりが落ちて、少しだけ輝いていた。ネイは同じようにそこに視線を落とす。ぼんやりしているようで、はっきりと何かを考えているような瞳。
匂いが、漂っていた。
「クッキーか?」
「……ああ、匂いで」
わかりますか、と訊ねられるから。
何となく、とジルはキッチンに視線をやる。
クッキーが何から出来ているのかは実のところよく知らないけれど、保存食にして樹海に持っていくこともあるから、匂いを嗅げばよくわかる。物の焼ける、美味しそうな匂い。
こんな夜中に、と思った。
が、こういうことを言うのはちょっと無神経かもしれないと思ったから、その言葉は心の中に封じ込めた。
「お菓子作りって、特定の手順があるから」
独り言のように、ネイは言う。
「料理なんかは適当にあるもの使って目分量でガンガン作るけど、お菓子は細かいところまで計量したり、ぼんやりずっと卵と粉を合わせて混ぜたり、温度を決めて焼き上がるまでじっと待ったり……決まった時間を費やせば、それなりの結果が出てくるから。眠れなくて焦ってるときなんかに――」
それから。
は、と夢から覚めたように顔を上げて、
「まあ、眠れないことなさそうな人には縁のない話でしょうけど。というわけでクッキーが焼き上がるまでそこで待っててください。私、心配性だから熱源使ってるときにその場所から離れたくないんです」
「ああ、もう。全然」
そうして答えれば、それで会話は終わってしまった。
じー、と熱魔法石が音を立てている。夜行性の生き物の声がたまに聞こえてくるけれど、当然、この建物の中までは入ってこない。ときどきネイが席を立って、キッチンテーブルの向こうに消えていく。何も言わずに戻ってきて、また席に座る。部屋の天井に輝く光の魔法石の放つ音すら、耳に届く気がする。
静かな夜だった。
こんな夜の過ごし方もあるんだな、とジルは思う。少しだけ、昔のことも思い出した。旅に出てからは気絶するように眠ってしまうことと、体力の回復のためだけに浅く眠ることが多かったから、もっと昔のこと。昔々、あの寒い冬の夜に目を覚まして、ただ漠然とした不安の中で、毛布に包まって朝を待っていたころのこと。
いつか、と思う。
全てが片付いて、それでも眠れない夜が来たら。自分もこんな風に、クッキーでも焼いて夜をやり過ごしてみようか。
「…………ふ」
できたらの話だな、なんて自分で付け加えれば、思わず笑ってしまった。
ネイがこっちを不思議そうな顔で見ている。いや、と笑いの余韻はそのままで、ジルは答える。
何でもない。
タンタン、と足音が聞こえてきたのはそれとほとんど変わらないタイミングだった。
ジルがちょっと振り向けば、ネイも同じ方を見る。食堂の入り口。待たれているとは思わなかったのか、廊下を歩いてここまで来たその人は目が合うや驚いた顔をして、それからいつもの清潔な微笑みを浮かべて、指の背で軽く壁を叩いた。
扉のない部屋のための、小さなノック。
「失礼。二階から明かりが見えたものですから……交友を深めているところだったら、とんだお邪魔でしたね」
「深めてません」
間髪入れずのネイの否定をものともせず、さらにロイレンは言う。この子、あんまり交友関係が広くないんですよ。
保護者面やめろ、とネイは本当に嫌そうな顔をして、
「ちょうどよかった。センセー、この人持って帰ってくださいよ。自分の部屋がわからなくなったらしいんで」
面目ない、とジルが頭を下げれば、ああそういう、とロイレンは余裕を持って頷いて、けれど一拍置いて首を傾げた。
「どうやってここまで来たんですか?」
ジルは外を指差す。ネイも同じように外を指差している。ちょっとだけ補足する。ロイレンと同じく、明かりが見えたから誰かがいるものだと思って、自分の部屋から壁を伝って降りてきたんだ。
あはは、とロイレンは屈託なく笑った。
「それは何とも……。ジルさんは機転が利きますね」
馬鹿にされてますよ、とネイが言う。いいえ、とロイレンが言う。それなら壁を伝って帰るのはダメだったんですか、と訊かれるから、またもう一度同じやり取りをする。
けれど、それからは少しだけ違う流れになった。
「外から来たなら、屋上には行きましたか?」
「屋上?」
いや、と首を横に振る。そうですか、とロイレンは頷く。
「行ってみると、面白いものが見られるかもしれませんよ」
それにほら、と彼は言う。
屋上なら、壁伝いで迷わず行けるでしょうから。
†
うわあ、と腰を抜かさせてしまった。
本日二度目の罪。
研究所の屋上は、流石に屋内よりはやや蒸していたけれど、昼間の熱はすっかり風に乗ってどこかに消え去ってしまったらしかった。しかし吹き晒しかというとそうでもなく、中へと続く扉の前に、日除けのためなのか、少しばかりの庇が置いてある。
その下に、夜更かしの魔導師がいた。
「ああ、ユニスか……」
「ああ、じゃないだろ! なん……え、何? なんで外から来たの? あ、迷った?」
こっちには大して申し訳ないと思う気持ちが湧かないので不思議に思ったけれど、記憶を探ったらすぐにその理由に思い当たった。あの港町に着いた途端の瞬間移動のサプライズ。あれのおかげで、ユニスのことはどれだけ驚かしてもいいと自分は学習してしまっているらしい。
それはそれで良くないよな、と思う。
ひょっとして自分は結構根に持つタイプなのだろうか。自省しつつ、困惑してへたり込んでいるユニスにジルはここまでの経緯を説明する。かくかくしかじか。
なるほど、とユニスは頷いて、
「――いや。だったら『ああ、ユニスか……』じゃなくて『やったー、ユニスだ!』であるべきじゃないかな? 僕がいたんだよ?」
「何してたんだ?」
流しながら、隣に座る。
風に当たって、紫色の髪がやや乱れている。そこそこ長い時間、ここにいたのだろう。もしかすると毎日そうしているのかもしれない。何が目的なのか気になって訊ねれば、「スルー?」とちょっと唇を尖らせてから、
「そりゃあ、星を見てたのさ」
へえ、と一緒になって空を見上げた。
確かに、よく星の見える夜だった。
夏の空には星が多い気がする。ひとつひとつの星の名前なんてジルはもちろん知らないけれど、光る砂をばらまいたみたいに鮮やかな空だった。真上を見て、それからどこまで視線を下げても煌めきは無数に続いている。あの樹海の木々の向こうにだって、それからその木々の根本の海の下にだって、どこまでだって広がっているように見える。
何かに包まれている、と感じる。
その割に、その星のたったひとつですら、絶対に手が届かない遠くにある。
「そういえば、星の魔法ってどんな風に研究するんだ?」
口を突いた問いは、その遠さが心細さに変わらないようにするためのものだったのかもしれない。
よく訊いてくれたね、とユニスは笑って、
「一緒にやってみようか。まず、星を見る」
「うん」
「そうすると何かこう、心の奥からぼやーっ、とした気持ちが湧きあがってくる」
「……うん」
「何だろうこれは……と思っていると急にカッ!とそれが確信に変わる!」
「は?」
「ああ、確信って言うとわかりづらいかな。君だってあるだろ。何かが急に『わかった!』ってなる瞬間。あれだよ」
ユニスはそんなに教師には向いてないんだろうな、と勝手に酷いことをジルは思った。自分だって人にとやかく言えるほど良い教師とは思えないけれど。
が、その急に「わかった!」になる瞬間に心当たりがあるかないかで言うと、
「〈覚醒〉みたいなことか?」
「いや、それとも違って……何だろう。ある日急にこう、あるだろ。『これってこういうことなんだなあ』ってわかるときが」
そして、その説明もまた、それなりにしっくりくるところではある。
中央の国での魔剣との決闘――あの最後の一太刀で、似たような感覚を覚えもしたから。
だから、とりあえずそこのところは「なるほど」と頷いておく。
頷いてはおくけれど、
「……え、それで研究って終わりなのか?」
流石に剣でももうちょっと試行錯誤するぞ、という気持ちで訊ねた。
いいや、と首を横に振られれば、ちょっと安心する。
「もちろん、それはただの始まりだよ。思い付いたことが理論的にどう説明できるかとか、実際に魔法に起こしてみて効果の裏付けが取れるかとか、そういうのを……観察と実験。それから、翻訳かな」
「翻訳?」
「そう。自分が感じたことを、魔法の言葉で人に伝えられるように訳し直す。ウィラエ先生がこういうの得意なんだよね。学園でもずっと先生の書いた本が副読本に使われてるらしいし。で、実験はロイレン博士が得意だね。薬学の権威だけあって、実験条件を整えたり効果測定の手法を確立したりするのがすごく強い人なんだ。見えやすい分野はいいんだけど、見えにくい分野で『正しいこと』を『正しい』って言うのってすごく手間がかかるんだよ」
「へえ……ユニスが得意なのは?」
「どう見える?」
観察。
言えば、せーかーい、とユニスは言う。笑って、立てた膝に寄りかかるようにしながらこっちを見て、「さては君も観察系だな?」なんて言う。どうだろう、と真面目に考えてしまった。あんまり、どれも得意な気がしない。
面白い話が聞けたな、と思った。
だからジルは、腰を上げて、
「じゃ、あんまり遅くならないうちに寝ろよ」
身体に悪いからな、と言い残そうとした。
おやすみ、と背を向けようとした。
がしっ、と服の裾を掴まれた。
「……どうした」
「……え、今の話あんまり面白くなかった?」
冗談かと思ったが、どうもそういう雰囲気でもない。
あれから――つまり初対面の人と話す前に台本を作るとかそういう話をしてから、ユニスはそういうのを隠さなくなった。だからわかる。
「ここに来て五分も経たないうちにベッドに戻りたくなっちゃうくらい僕の話は退屈かなあ!?」
リリリアなら、「そうだ!!!!!!」と叫んで「私は寝る。眠いから」と颯爽と踵を返すのだろう。が、別にジルはリリリアではないので、普通に、
「別に面白い話だったと思うけど。ただ、あんまり居座っても魔法の研究するのに邪魔だろ」
「はいそれじゃ今日の研究終わり。明日と明後日と明々後日の分の研究も終わり。あー暇だなー! 心優しい友達がお喋りに付き合ってくれなくちゃ暇すぎて泣いちゃうなー!」
一拍、その言葉を受け入れるための時間があって。
なんだそれ、と苦笑しながら、もう一度ジルは腰を下ろす。
へへ、とユニスも笑った。
「あ、でも忙しかったり本当に眠かったりしたら全然大丈夫だよ」
「いや、もう後は寝るだけだし」
いいんだけど、と言えば何だか夜が無限にあるような気がしてきた。
後は寝るだけ、と思った瞬間から一日は途方もない長さに変わる。特に次の日の朝、何をする予定もない日は。
そんな長さが許された夜なら。
目の前にある星なんて、全部数え上げてしまってもいいような気もする。
「名前とかついてるのか?」
こっちから切り出した。
迷宮で出会ったときは天井だらけの地下だったから。こんな風に落ち着いて空を見上げたこともそんなになかったかもしれない。
「星に?」
「星に」
「結構つけてる人は多いけど、研究上は記号で呼ぶことが多いかな」
「記号……」
「この星から見てどういう位置にあるかとか、どういうタイプの光を発してるかとか。正直結構利便性重視で、あんまりロマンチックな名前が付いてないやつの方が多いよ」
「好きな星は?」
「――え。いや、別に」
考えたこともなかったな、とユニスが言う。
考えたこともなかったなんてことがあるのか、とジルは少し驚いている。
「そう言われると、特定の星が好きってわけじゃないのかもね。なんかこう……全体? 別に海が好きな人だってどこどこの水が掬い取ると最高でさあ、みたいな話はしないだろ? そういう感じ」
「……いや、それは海の水は混ざり合って結局同じになるからじゃないのか。星は別に、混ざらないだろ。液体じゃないんだから」
「星も混ざるよ。二つの星がぶつかって一個の星になったりするし。後は混ざらなくても、一緒に回り出したりもするし。ジルの好きな月だって――ああ、そっか。ジルは月好きだよね」
技名に使ってるし、と言われて。
まあ確かにそうかもしれない、とジルは自分で思う。そういうのがあるから、ユニスにも好きな星の話を振ったのかもしれない。
が、それよりも、
「月が何だって?」
「実証はされてないから仮説として聞いてほしいんだけど、あれって昔どこかから降ってきた星が僕らの住むこの星に衝突してできたんじゃないかって考えられてるんだ。ぶつかってバラバラになった破片が、重力に引かれてあのへんに落ち着いた、っていう説」
へええ、と驚くほかなかった。
そもそもね、とユニスは続ける。
「液体なら混ざるけど固体なら混ざらないっていうのは確かに短期的にはそう見えるかもしれないけど、大きなスケールで考えたらそこまで問題じゃないんだよ。氷だってそのうち融けて水になるわけだし、人間だって今はほら、こんな風に僕らも生きてるわけだけど、死んだ後に水の中とかに放置しておいたら段々どろどろになって液体みたいになっていきそうだろ?」
「……まあ、確かに」
言い方悪くないか、と思いつつ、
「星にだって寿命があるんだよ。気体になって宇宙に流れ出して、色んなものと混ざってく。何百万年とか、何百億年とか、そういうスケールの話だけどね」
今度は、どっちに驚けばいいのかわからない。
星に寿命がある、という新事実の方か。それともユニスが星を見るときに、何百億年なんて到底自分には関わりのないような時間の尺度で物を考えていることの方か。
どっちに驚こう、と考えている間に、ジルの思考は一歩先に進んでしまった。
「じゃあ、宇宙って最終的に……こう、コップの中の水みたいに、全部同じになるのか」
お、と今度はユニスが驚いたような顔をする。
すぐにそこまで来ちゃうのか、ジルって魔法にも向いてるのかもね、と。嬉しそうな顔にも変わってから、
人差し指を、口の前に一本立てて、
「それはまだ考え中。今後の研究成果に乞うご期待」
「……そうか」
なんだか、不思議な気持ちだった。
人間の最後は死んで終わりだとわかっているのに、宇宙の最後はどうなるのかまだわかっていない。自分たちが生きているこの場所がどこに向かっていっているのか、〈星の大魔導師〉ですら知らなくて、だからきっと、誰も知らない。
あるいは、宇宙に終わりなんてなくて。
ただぼんやりと、迷い歩いているだけなのかもしれない、なんて、
「ちなみにジルはどうなると思う?」
思っていたらそう訊かれたから、うーん、と一応考え込んでみる。本職がまだ答えを出せていない問題に対して、素人の自分が適切な仮説なんて出せそうになくて、
「どこかに落ちていく」
だから、口にしたのは一番星らしい言葉の真似事だった。
「落ちていく?」
「流れ星ってあるだろ。あのイメージ。ああいう風に、宇宙が丸ごとどこかに落ちていく――」
説明が途中で終わったのは。
ふふ、とユニスが嬉しそうな笑いを溢したから。
「ジル」
「……何だ」
「僕もそれ、昔同じこと思ってた」
うお、と自分で自分に驚いた。
マジか、と。昔がいつのことだか知らないが、たとえば十五年くらい前のユニスが同じことを思っていたのだったらここから十五年自分も魔法の勉強をすればユニス並みの大魔導師に――なれるとか、そういう話ではないのだろうけど。
「その頃はぼんやり、宇宙に外側があるって僕も思ってたんだよね」
「ないのか?」
「あるかもね。でも、宇宙がどう終わるかを考えるときに僕たちが語りたいのって、大体は『全部終わったらどうなるの?』じゃない?」
それは確かに、と頷けば、
「だからできる限り外側まで含めて『宇宙』っていう風に僕は考えてきたんだけど――でも、直感的には確かにわかるなあ。星が終わるところって、パッと観察できるのだと流れ星が一番近いもんね。あれ、こうやって夜空に見える星のほとんどとはちょっと違うやつなんだけど」
「え、」
「あれって石とか塵なんだよ。僕らの星に落ちてきて空気とぶつかったときに、一瞬だけ高温になってああいう風に輝くんだ。一方で夜空に見える大体の星は太陽みたいに常に自分で輝いてる星で、ものすごく僕らの星とは距離がある。だからかなり別物。こうして今僕らの目に見えてる星がある日ひょいっと落ちるわけじゃないんだよ」
知らなかったでしょ、とユニスは言う。
知らなかった、とジルはもちろん答えた。目に見える星は大体太陽の仲間なんて、そんなことすら全然。宇宙について知っていることなんて、月が自分では輝いてなくて、だから満ち欠けがあるってことくらいだ。
へええ、と後は嘆息するばかりだった。
そうなのか、と感心するほかない。夜になればいつでも見られる景色。その奥に、色々なものが隠されている。それを自分は、多分これからどれだけ生きても百分の一どころか万分の一だって知ることはできないのだと思う。
世界は広いんだな、と思う。
そんなの、当たり前のことなのだけど。
「――そういえば、ジルの生まれたところにも流れ星の話ってあったの?」
ん、と星から隣に目を移す。
さっきの続きでまたそういう話なのかと思ったけれど、「あ、いや」とユニスは軽くそれを否定して、
「もっと単純な話。ほら、ジルの地元ってあんまりラスティエ教の話が伝わってないって言ってたろ。だからこういう細かい文化も違うんじゃないかなと思って。流れ星に関連して何かほら、おまじないみたいなものって聞いたことはないかい?」
おまじない、とジルは繰り返す。
そう、とユニスは頷いた。根拠がないのがおまじない。あるのが魔法。迷信とか言い伝えとか、そんなのだっていいけど。
心当たりは。
とりあえず、自分ではすごく一般的だと思っているのがひとつだけ。
「流れ星が見えたときに願いごとを唱えると……ってのはあったな」
「絶対叶わないって?」
「こっちだとそうなのか?」
いや、とユニスは笑う。
「こっちも同じ。三回唱えると願いが叶うって」
「三回?」
「えっ、そこは違うの?」
「いや……だって、三回も唱えられないだろ。一瞬だし」
そりゃそうなんだけど、とちょっと困った顔になって、
「難しいからおまじないになるんじゃないの?」
「叶わなかったらおまじないじゃなくないか」
「いや、そもそもおまじないは気休めだから叶わないっていうか、そういうのが叶う叶わないっていうのが簡単にわかっちゃったら信憑性がなくなって伝承されなくなる――」
いやでもジルの地元じゃそれが伝承されてるのか、なんて言って考え込み始める。
専門の先生の考察だ、とジルは考え込むユニスのつむじを見ている。一応自分としても三回と一回のどっちが適切かとか、おまじないがどうとか考えを巡らせてみたけれど、さしたる成果を得られそうにもなかったので、星空に視線を戻す。
綺麗だな、と思った。
眼鏡さえあれば、こんなに綺麗なものが何もしないで見られる。
ちょっとだけ、その眼鏡を外してみた。ひとつひとつの粒があれだけはっきりと見えていた星空が、急にぼやける。光が何重にもブレて、霞んで、大雑把な光の帯みたいになる。
こういうのが。
宇宙がそのうち、辿り着いていく姿なんだろうか。
「おい」
ぼす、と腕を叩かれた。
眼鏡をかけ直す。眼鏡を外している間に隣にいる人間が違う誰かになっているなんてイリュージョンは別になかった。ユニスが普通にそのまま隣に座っていて、ちょっと不満げな顔でこっちを見ている。
「君、急に僕を放置するんじゃないよ」
「考えごとしてるときに横から話しかけられたら邪魔だろ」
「いいんだよ。考えごとなんてひとりになったらいくらでもできるんだから」
それより、とユニスは言う。
おまじないの話、と微笑んで、
「難しい話はこのへんにしておこう。楽しい話をしようじゃないか」
「流れ星に願いをかけるなら何って話か?」
「なんで先取りした? 会話術の見せつけ?」
「いや、俺も別に会話が上手い方じゃないぞ……」
じゃあ同レベルってことだ、となぜかユニスは満足げになる。
満足げになるならそれでもいいか、と思うから、ジルは頷く。同レベルだな。
「願いごと……『明日は涼しくなりますように』」
「そんなの天気次第だろ。流れ星だってそんなの言われても困るよ。ただの塵だぜ」
「別にいいだろ。星も天気のひとつみたいなものだし」
「……初めて聞いたかも、それ。確かに星降る夜って――いや聞いたことあったね。全然あった」
「上げてから落とすなよ」
「落としてはなくない?」
「というか星が困らない願いごとって何だよ。何かあるのか。この星に降ってくるだけの小さい石が自分の力で叶えられる願いって」
「……『もっと綺麗に輝いて』?」
それ星のさじ加減で決められるものなのか。
わからない。星にも気合いがあれば可能かもしれない。
気合いって、と思わず呆れてしまう。
最高峰の魔導師が使う言葉なのか。
「ああでも、ものすっごく巨大な流れ星が落ちてきて地表をドカーンと吹き飛ばしたら、舞い上がった砂埃で太陽からの熱が遮られて涼しくなるかもしれないね」
「お、そうなのか」
「そのくらい大規模な流れ星だと落ちた周りも爆発してとんでもないことになると思うけど」
怖、とジルは零す。
怖いねえ、とユニスも言う。
「じゃあやめとく。そこまでして涼しくなってほしくはない」
「やめときなよ。僕がいれば普通に涼しいんだから」
うん、と頷く。
それにしても、とジルは思った。これだけダラダラ話しているのに、一向にその流れ星とやらが流れてくる気配はない。これだけ星があれば一個くらいは流れてもおかしくなさそうなものだが――と思ってからすぐに復習。別に、目の前に見えている星と流れ星は関係ない。だったらどういうときに流れ星は降るのだろう。石や塵は、自分たちの住む星と、宇宙の中でどう出会うのだろう。
そんなことを思いながらも。
ふと思い出す。ユニスから借りた本。タイトルは『なぜあなたには友達ができないのか~孤独を作る七つの要因~』。その何ページ目だったか、流石にそれは忘れてしまったけれど、何となく柱の文字が記憶に残っている。
「ユニスは?」
自分が答えたら、相手にも同じ質問をしてみましょう。
ん、と少しだけ間があった。振り方がわかりにくかっただろうか。隣を見る。少しだけ、瞼が重くなっているように見えた。最近ずっと朝型の生活をしていたから、さしもの〈星の大魔導師〉もと言ったところだろうか。
そろそろこのへんにするか、と言いかけたところで。
そうだなあ、とユニスは言った。
「僕は……」
僕なら、と。
瞳は星をちりばめたように輝いている。銀河と同じ色。何百億年も続くらしい広大なあの空間を、全て押し込めて綺麗に綺麗に整えてしまったような、夢見る目。
その目に一筋、光が走ったような気がして。
ジルは空を見る。
「何も、」
星の流れない夜に。
「何にも要らない。
欲しいものは、全部ここにあるから」
とんとん、と扉を叩く音がした。
ユニスは動かない。ジルは振り向く。屋上に扉はひとつしかない。研究所の中へと通じる戸。ノブを握れば、当然のことだけれどそれは、簡単に開く。
「こんばんは。さっきぶりですね」
ロイレンが、やたらに美味しそうな匂いを漂わせて立っていた。
「送り出してから、おふたりがちゃんと部屋に戻れるのか心配になりまして。お迎えに――っと。先に夢の世界ですかね」
終わりに向かうにつれて、声は小さくなっていく。
振り向くと、ロイレンの言うとおり。うつらうつらとユニスは舟を漕ぎ出している。
「……大丈夫、起きてる……」
「とのことです」
「いえ、自己申告だけでは何とも……」
ほら、とジルはユニスの肩を叩く。部屋まで戻るぞ。ん、と言ってユニスが両手を広げ出す。嘘だろ、と思うからとりあえず二の腕のあたりだけを掴んで持ち上げてみる。意外にと言えばいいのか、流石は〈星の大魔導師〉と言えばいいのか、ユニスはしっかりした足取りで立ち上がる。それから肩のあたりを掴んできて、遠慮なくでろりと体重を預けてくる。
重い?と訊かれるから、ジルは答える。
普通。
仲良しですね、とロイレンは笑って、
「クッキーも焼き上がったのでよければ、と思ったのですが。この分だと無理そうですね」
「……大丈夫、いける……」
「とのことです」
「自己申告だけでは何とも……」
ふらふらと歩くユニスを振り落とさないようにしながら、珍しく先導するようにジルは歩く。ロイレンが戸を開けてくれている。その向こうへと行く。でも、と言う。それなら俺だけでも食べていいですか、折角だし焼きたての方が美味しいだろうから。ええ、もちろん構いませんよ、ユニスくんを部屋に送ったらふたりで行きましょうか。むにゃむにゃと後ろで何事か寝言みたいなことを口にしている奴がいて、耳を澄ませる。するとこんな声が聞こえてくる。
僕も食べるってば。
はいはい、とジルが笑ってその背中を軽く叩けば。
んふ、と嬉しそうに、ユニスも笑った。
(幕間・了)




