7-3 のんびり
人形。
それ以外の呼び方が、今のジルには思い浮かばない。
人の形をしている。けれど人ではない。人の形をした魔獣――つまり鬼でもないはずだ、と思う。
「なんだ、こいつ……?」
目の前にあるのは。
人の形をした、金属だった。
じり、と剣柄に手をかけたまま、わずかに左の足を引いて半身に構える。
得体が知れない相手に対する警戒。当然の仕草にしかし、人形は視線の向きを変えない。身体の構えも変えない。
「――――!」
「うおっ」
代わりに、ひどく大きな音を発した。
南方樹海地下、先史遺跡のこの広い空間に響き渡るような音だった。初めはそういう類の攻撃なのかと耳を塞ぎそうになったが、鼓膜を破るほどではない。けれどさっきまで聞こえていた排水の音が聞こえなくなる程度には、他の音が拾いづらくなる程度には強い音。
初めから赤かったその目が、さらに強く光った。
それだけではない。水槽を照らしていた青い光も今は、真っ赤に変わっている。
どれほど直感に鈍い者でも辿り着けるだろうひとつの推測に、ジルも同じく辿り着く。
何かの警告を受けている、と。
「――待て。落ち着け」
相手がどういう存在なのかはわからない。
しかし警告というのは、少なくとも互いに意思疎通の可能性を感じているときに使われる行動のはずだ。そう思うからジルは剣から両手を離して、胸のあたりに挙げる。
「こっちも危害を加えるつもりはない。お互いゆっくり離れよう」
それからじりじりと、後ずさりを始める。
何事も最初は、とジルは思う。穏便に事を済ませることを主眼とすべきだ。相手は悪人ではないし、魔獣でもなさそうだ。では何なのかと問われれば何もわからないが、とにかく普段自分が対峙するようなものではないのだ。
敵対せずに済むならそれが一番、と。
「――――――!!」
「…………」
思うけれど、人形の発する音はどんどん激しくなっていく。
およそ人間以外の動物がそれを耳にすれば、すぐさま尻尾を巻いて逃げ出してしまうような音量だ、とジルは思う。なぜと言って、人間である自分ですら尻尾を巻いて逃げ出したくなっている。人形の音に呼応するようにこの空間のそこかしこから音が響き始めている。光は目も眩むほどに強くなっている。視界は真っ赤に染まりすぎて、自分はものすごく危険な場所にいるのではという不安がじりじりと心の底を焼いている。
やがて、ジルは気付いた。
人形の発する音が、単なる音ではないということ。繰り返しているフレーズがあり、それはどうやら自分には理解できない言葉であるらしい、ということ。
違う言葉を喋っている。
そうなるとおそらく、自分の言葉も向こうに伝わってはいないのだろうということに。
「――――!」
音と光が限界に達して、緊張が爆発する。
人形が、飛び掛かってきた。
「そうっ、」
来るよな、と諦めの中で呟きながら、再び剣柄に手を添える。
飛び掛かり方は単純だった。真っ直ぐ正面から、小細工なし。このひとつの動作だけでジルは戦闘に関する情報を十も二十も拾い、さらにそれに応じた推測を立てることができる。
構えた相手に向かって正面から距離を詰めるのは、ある程度の戦闘知性を持った者であればあまり取らない選択だ。単純にそれだけの知性を持っていないのであれば御の字だが、そうではない可能性も考慮しなくてはならない。たとえばこちらの反応速度を超える動きをするかもしれない。していない。特殊な移動方法や視覚効果を用いて翻弄してくるかもしれない。してこない。単純な身体の頑強さに任せて初撃をしのぎきる心算でいるかもしれない。わからない。
詰められた分の距離を、引き足で取り直す。
速度は圧倒的にこちらが上、と確認した。
もちろん、『現時点では』という留保付きで。
他には、と着地からふくらはぎのバネの稼働に繋げるまでの間に、ジルはさらに考える。東の国でのチカノとの修行を経て、あるいは自分より筋力に乏しいクラハへの指導を通して、戦術面の思考はより一層磨かれている。同じ轍は踏まない。見たことのない相手だ。どこを斬れば無力化できるか見極める必要がある。足。特殊な回避方法や、そこから繋げられる攻撃方法は?
こればかりは、刃を押し当ててみなくてはわからない。
仕留める気のない一撃は好みではないが、しかし相手は先史遺跡から現れた未知の相手だ。そうした分析も必要と言わざるを――
「あ、」
得ない、と考えたところで。
びた、とジルは動きを止めた。
「――――!」
「っ、」
人形が殴りかかってくるのを、上体を傾けて躱す。二発、三発。それほど焦ることもなくその拳が宙を切る音を聞きながら、ジルは考えている。
残念ながら、考える余裕がある。
果たしてこの人形を壊してしまっていいのだろうか、ということを。
「――――!」
「…………」
ついさっきに、あの通用路の奥の扉を斬らずに済ませたのと同じ理由だった。
この人形は――今まさに自分が歩法だけで相手をしているそれは、この先史遺跡に関係するものなのだろう。音も光も、明らかにこの空間と同調していた。この場においてどちらが異物なのかと言えばおそらく自分の方だという自覚がジルにはあり、だからそのことが、強烈な疑問となって彼の手を止めさせる。
斬っていいのか。
斬ることで、何か取り返しのつかない問題は発生しないか?
文化保全の意識はすぐさまより実際的な懸念へと移り変わる。これを破壊することによってこの空間にどんな影響が発生するかわからない。迷宮で魔獣を斬るのと同じだけの効果に留まる可能性などどこにもない。破壊が何らかのトリガーになってしまったら? 何の? それすらもわからないけれど。
言葉を発する、ということは。
たとえば自分以外の同行者だったら、ここから何かの情報を拾えるのではないか?
「――しっ、」
心を決めた。
しばらくこのまま相手をしてみよう、と。
幸いにして、彼我の実力差は明らかだった。大した脅威ではない。さらにはあの排水路にも、あるいはあの一度は開いた通用路の扉の向こうにも、退路はある。
いつでも退ける。
誰を背負った戦いでもない。
そう思えば、不思議とジルの手足は軽かった。剣を抜かずとも、その動きは草原を吹き渡る夏風のように冴えている。人形はこちらの服の裾どころか、影に指すらかけられない。動きに慣れていくにつれて、ジルの思考領域はさらに拡張される。その中であるとき、無意識の、霊感にも似たひとつの気付きがジルに訪れる。
掴める。
骨格のほとんど全てを理解できていた。可動域と、それぞれの部位の大まかな出力量も。その見極めを終えてからのやり取りのある一瞬、ジルの中にその確信が芽生えた。
一、で身を屈めて懐に潜り込む。
二で相手の身体を胴から抱え込む。手足を自由にさせない。腕を回す。首にかける。足に足を絡ませて、大して力を込めることもなく、
「――よっ」
三、で引っ繰り返した。
地面に触れる音すらしないような、美しい技だった。ジルは自分で自分に感動しているが、同時に身体の動きが記憶を呼び起こす。ああ、これは。昔に散々チカノにかけられて、砂を食わされた技のひとつだ。自分がそれを扱えるだけの技量に達したことに感極まると同時に、そこから逆転勝ちまで持っていけた試合があったことも思い出す。
組み伏せられても、思い切り暴れればひっくり返せる。
そうならないようにと、上から力をかけた。
結果として。
多分それが、いけなかったのだと思う。
「――――――!!!」
音が、それこそ鼓膜を破るほど大きくなった。
ついでに、光が赤から黄色に切り替わった。
そして最後に。
組み伏せた人形の口が開いて、その奥に魔法の光が見えた。
「や、」
ばい、と思った次の瞬間。
ジルが逸らした頭の横を、魔法の矢が通り過ぎていった。
ばあん、と背後で音がする。ぱらぱらと天井が崩れ落ちた音がする。振り返るのが怖いが、それだけで大体の状況は掴めてしまう。
まずい。
そっちがここを壊すのかよ。
様々な逡巡と戸惑いと理不尽に対する怒りの末に、ジルはその場から飛びのいた。人形は生き物ならばまず取らないような姿勢で起き上がる。こちらを向く。黄色と黒の入り混じった光を発しながら再び口を開ける。ジルは距離を取る。
追いかけるように、魔法の光が放たれる。
「未剣――!」
それを、ジルは。
空中で思い切り、殴り飛ばした。
手応えはある。剣は折れない。この夏の間にデューイから「それなりのもん持っとけ」と渡されたそれなりのもんだから。爆発の余波で周囲が煤ける。仕方ない。壁に直撃して壊れるよりマシだ、と思う。
もう一度、口の奥で魔法が光る。
本当に壊れるよりマシなのか?と疑問が芽生える。
向こうの対応段階が変わったのをジルは感じていた。わざわざご丁寧に光の色を変えてくださっているので自分でなくともわかっただろう、とも感じていた。そしてその対応段階の上限がここならいいが、これより先がないとも限らない。今か、と思う。今なのか。
今壊してしまった方が、トータルでの現場保存率は上がるのではないか?
「――はッ!」
もう一撃、迷いの中でジルは未剣を放つ。
込めた力が生み出す爆発が、空中で魔法とぶつかる。激しい輝きを残して相殺する。三度目よりも先に決断をしたい。ジルはさらに考えている。計算している。シミュレートしている。
シミュレーションに問題が生じる。
通用路の向こうから、もう三体、同じ人形が姿を現したから。
「――!」
旅人は一息に、剣士の顔に変わった。
少なくとも四体。四体もいればいいだろ。一体くらい壊しても。いや違う。後詰めの数がわからない。壊すなら三体。口が開く。黄色と黒の入り混じる危険な光。身を翻す。通用路に上がる。発射の前に確実に仕留める。
けれど最初の一体だけは、他の三体が現れた時点でほとんど発射準備を終えていたはずだから、と。
後顧の憂いを断つべくして、ジルはその迎撃を終えてから残りの三体に取り掛かろうとして――
「ばっ、」
見た。
まるで見当違いの方向に、その魔法が飛ばされてくるのを。
こちらの速度に反応し切れなかったのだろう。照準が中途半端な状態で魔法が射出された。向かう先は通用路の骨組み。直撃すればおそらく壊れる。遺跡側の存在だろう人形がそうするのだから、そのくらいの破壊は許されるのか?
わからない。
わからない分には、と結局ジルは、通用路から再び跳んだ。
「ふッ――!」
一種の余裕ではあったのだと思う。
戦闘中にこれだけ無駄な工程を入れ込んでも、なお余裕があった。この程度の相手であれば正直なところ、あと百体いても負けはない。戦力差を見極める冷静な視点が、むしろジルに『戦闘以外の選択肢』を増やし続けていた。
だが、それでも。
残りの三体が、さらにジルの速度に反応し切れずに照準を外したのには、対応できそうにもない。
「おま、」
えら、と恨み言のひとつも言いたくなる。こっちはこんなに必死になって庇っているのに。爆発の反動を利用してジルは壁の方まで飛んでいる。着地する。人形の口はよりにもよって、それぞれ別の場所に向いている。
人間は、三つの場所には同時に存在できない。
となれば根本で一気に叩き斬るしかないけれど、斬り払った瞬間にあの蓄えられた魔力がどんな反応をするかを考えれば――と。
爪先に力を込めようとした瞬間に。
もはや不要な心配らしい、とジルは跳ぶことをやめた。
「――――!!」
三体の、魔法の光が放たれる。
それらはそれぞれ別の方向に跳んでいく。壁。天井。それから水槽の、あの警告の騒音の中で、いつの間にか完全に水を排して現れていた剥き出しの底床。
そこに、白い影がぽつりと立っているから。
代わりにジルは、名を呼んだ。
「リリリア!」
「はいよ~」
惚れ惚れするような手際だった。
さらりと彼女の手指が動く。髪の先でも持ち上げるような軽さで、しかし信じられないような効果をもたらす。魔法の光が着弾すらしない。光は彼女に近付くにつれて、蛍火のように淡く消え果ていく。しかも床に向かったひとつだけではない。壁。天井。壊れるはずだったそれらは、何食わぬ顔でそこにある。お前は何の夢を見ていたのだ、と語りかけすらするように。
紫の影が続いて現れれば、それで全てが解決する。
「――〈塞げ〉!」
音も光も、一瞬にして消え失せた。
そして現れるのは、地下空間に特有の真の暗闇。何も見えない時間は、しかし長くは続かない。ぽっ、と明かりが灯る。見慣れた色と温度。彼の視線が何かを探して彷徨うのがこちらから見えたから、ジルはそれを目印に壁から降りていく。
よ、と声をかければ。
最後のひとりを引き上げたふたりも、こちらを振り向く。
「早かったな」
「ジルくんの方はのんびりやってたね。何かあったのかって心配しちゃったよ」
「う」
「いやいや」
追いついてきた三人のうちの、紫の髪のひとりは。
ちょっとからかうようにして笑いながら、肩をぶつけてきて、
「気を遣ってくれてたんでしょ? 僕らの出番がなくならないように」
「……まあ、近いな」
言ってから自分で「本当に近いか?」という疑いが生まれたけれど。
しかし隣の彼は嬉しそうに笑って、こちらを見上げながらこう応える。
「ありがと。嬉しいよ」