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7-2 水の出所



「……なんだ、ここ」

 ばしゃばしゃと。


 その水槽の中を犬かきで泳いで。端まで着いて、ぐい、と身体を持ち上げて、ぶるぶる身体を震わせて水滴を飛ばす。それからジルは、改めて周囲を見る。


 奇怪な光景だった。


 どう説明したものか、ジルには全くわからない。類似した景色をとにかく見たことがなかった。水槽の奥底にある青い人工灯が辺りを照らしてくれているけれど、その色だって、そもそもほとんど見たことがないように思う。


 かなりの広さだった。見えている範囲でも東国の道場よりも広く、だから全体は、さっきまでいた先史遺跡以上の大きさを持つ建物なのではないかと思う。


 建物。


 そう――建物だった。


 視線を上げれば、天井は三階分くらいの高さの吹き抜けになっている。一階屋根と二階屋根くらいの高さに、壁を這うように金属製の通用路のようなものが設置されているが、人ひとりは問題なく通行できるだろう幅のそれが、建物の大きさと比較してみればひどく小さなものに見える。


 通用路の向こうには、扉があった。

 ということは、明らかに向こうにも空間が続いている。


「……床も、なんだこれ」

 滑らかすぎる、と靴の爪先でそれを叩いた。


 今まで遺跡を巡っていたときに見たそれも樹海の道と比べれば滑らかだったが、これはそれ以上だ。全く凹凸がなく、感触も普通ではない。足裏はやわらかく、そもそもが自然物でできているのかすら疑わしい。自分には判別がつかない。


「……水のタンク、ってだけの雰囲気じゃないよな」


 これまでの遺跡とは、明らかに毛色が違った。

 しかも、こちらの方がより高度で、洗練されている。


 果たしてここは一体何なのか。到底自分の知識や頭の働きでは答えを出せそうになくて、だからそこで思い出す。そうだ、無事にここに着いたのだから。


 ロープを三回引っ張って、向こうに知らせないと、と。

 思ってそれを引っ張れば、一切の手ごたえがなかった。


「…………」


 一応、未練がましく引っ張り切ってみた。


 途中で千切れたロープが、綺麗に手元に戻ってきた。





「…………」


 クラハの顔面は蒼白になっていた。


 千切れたロープを、両手に握ったままで。


「あ、あの、すみません……」

「仕方ないよ。ジルくんってそういう人だし」

「いやいや! 大丈夫だよ、クラハさん! 大丈夫、ジルってほら――鰓呼吸できるし!」

「できるの?」

「は、話を合わせて……!」


 ほんの一瞬の出来事だった、としか言いようがない。


 ジルが滝へと飛び込んでから、ロープは凄まじい勢いで伸びていった。手のひらに擦れるのを見かねたリリリアが、即座に神聖魔法で皮膚を保護してくれたくらいだ。それでも摩擦で火が出るのではないかというくらいの速度。あの人が本気で動いたら大陸の端から端まで一体何日なのだろう。そんなことを思わずにはいられないほどの勢いだった。


 どうすればよかったのだろう、とクラハはそのときのことを思い出している。

 びん、とロープが突っ張ったのだ。


 その勢いに、思わずクラハは舟から落ちかけた。リリリアが掴まえてくれて、おかげでバランスを崩さずに済んだ。それ以上行ってはいけないと伝えようとした。ロープを離してはいけないと思った。


 ぶちっ、と。


 痛んだ髪の毛が千切れるよりも容易く、ロープが軽くなった。


 どうすればよかったのだろう。

 クラハは多分、今日いっぱいくらいはそのときのことを思い出している。


「そんなに深刻なことじゃないんじゃない?」

 リリリアはしかし、あっけらかんとして言った。


「え……?」

「だって水の出所を探しに行ったんでしょ? だったら流石にジルくんも水の流れに逆らって動くってことは一貫してると思うし」


 だから、と彼女は、


「水の流れを辿れば、どこに行ったかはわかるんじゃない? 距離の問題は確かにあるから、合流に時間がかかっちゃうかもしれないけど。一生離れ離れってわけじゃないよ」


 うんうん、とユニスも隣で力強く頷いている。

 だからクラハは、気遣われていることもわかったから、少し無理矢理にでもと気持ちを強く取り直して、


「そうで――」

 すね、と口にしたとき。


 とぷん、と水面で音がした。


 なんだろう。剣に手をかけて、リリリアとユニスのふたりを庇うように前に出る。けれどすぐに、その音の正体に気付く。


 ロープの切れ端が浮いている。


 自分たちが持っているのとは、別の。


「お、」


 リリリアがそっと、それに手を伸ばした。舟の縁から長い腕で掬い取って、じっと見つめて、


「大丈夫だってさ」


 見せてくれる。

 そこにはこんな風に、文字が刻まれていた。



『ぶじ ついた』






 結構良いアイディアに思えたが、排水先がひとつとは限らないのがネックだった。

 あと、書くものと書かれるものの問題で字がいつもより上手く書けなかったのも、ネックと言えばネックだった。


「と。そんなことより」

 けれど今のところ、そのことをゆっくりと考え続けるだけの悠長さはジルにはない。


 もう一度見上げれば、この場所の光量に目が慣れてきたらしい。通用路以外のものもぼんやりと形が見えてきた。どうもそれも見逃したくないように思えて、ジルは動き出す。階段から上れることはわかっていたが、何も街中ではないのだから正直にそれを使うことない。


「よっ」

 単なる跳躍で、二階屋根相当。

 見える中では最も高いところに位置する通用路に、飛び乗った。


 問題は、とジルは頭の中で整理する。当面のところは合流だ。さっきのメモが無事に向こうに着いてくれさえすればあの三人がどうにかしてくれるだろうけれど、その無事かどうかがわからない。来た道を真っ直ぐ戻れる保証がない以上、とりあえずこのあたりで何かできることがないか、手がかりを探してみるのが良いだろう。迷子にならない程度の範囲で。


 歩き出せば、カコン、と靴裏が音を立てた。

 下の水槽横の床についてはよくわからなかったが、こっちは流石に材質がわかる。金属だ。感触からして軽い種類のものに思えたが、自分の体重に対して全く傾きが発生しない。かなりの技術なのだろう、と確信する。


 しかし考えてみれば、それも奇妙なことのように思えた。


 先史遺跡から直通したこの空間。勇敢かつ〈半迷宮〉において建築を行うに足る卓越した技量を備えた稀有な現代人が作った秘密の地下空間……というわけでないなら、つまりここは、先史遺跡の一部ということになる。


 だというのに、なぜ。


「……壊れそうな気配もないな」


 成立は、数千年前。

 これほど水辺に近い樹海の中で、それほど長い期間を錆びもせず、劣化もせず、この軽い金属が形を保っていられるものだろうか。


 ぶるり、と不意にジルは身震いをした。


 理由はふたつ。ひとつは「ひょっとすると自分はとんでもないところにいるのではないか」「何かすごいものを目撃しているのではないか」という感覚が、恐れとも好奇心ともつかない寒気をもたらしたから。


 もうひとつは、


「――空調?」

 まさか、とジルは思う。


 が、止めていた足を再び動かして、通用口の脇、壁沿いを走るパイプに手を当てれば、確信する。


 冷たい。

 明らかに、夏の物体のそれではない。


 地下空間から泳いできた場所だ。ゆえに温度が低い、ということも考えられないでもない。が、どうもこれは、この夏を過ごした研究所でユニスたちに世話をしてもらったのと似ている。魔法が関連したものなのではないかという念が拭えない。


「…………」

 決してそれは、今の時点では何らの根拠も、正当な推論もない直感なのだけれど。


 ジルは思う。


 やはりここが、『震え』そのものの原因になった場所なのではないか?


「もう少し……」

 ぽつり呟いた理由は、自分でわかる。

 動揺しているからだ。


 世界を旅する中で、幾度も信じがたい光景は目にしてきた。

 が、如実に人の手が入った空間でこれほど信じがたい光景を見るのは、ジルにとっても初めてのことだった。


 水の流れる音だけが響いている。

 あの水槽の水はどこから注入されているのだろう。そんなことを考えながら、靴音を高く立ててジルは歩いた。


 扉の前。

 どこかへ続くその場所で、それからピタリと足を止める。


「これも金属か」

 指の骨で叩いてみれば、コッコッ、と硬い音がした。


 かなり分厚いように思う。人工灯はそこまで眩く光っているわけではないから、その場に屈みこむようにしてじろじろと眺めてみる。見たことのない形状だった。蝶番がどこについているのかすらもわからない。


「……開かないか」


 中央についている船舵のようなものがドアノブなのではないかと睨んだ。しかし掴んでみても、押すことも引くこともできない。船舵らしく回してみるのも、東国流の横へのスライドもやはり意味がなく、何かが偶然に引っ掛かっているという風ではなく、密閉の意図を感じさせる。


 斬ってみようか、と一瞬思った。


 けれどすぐに思い直す。貴重な遺跡だ。下手に傷を付けるのは忍びない。


「……ん?」

 だからできればこの場所で、と。より入念に周囲を眺めまわしてみれば、ひとつのものが目に付いた。


 扉の横。

 小さな箱のようなものが、壁に取りつけられている。


 何の気なしのことだった。あまり期待もしていなかった。さっきまで扉に操作を加えていたことの延長。軽く掴んで、引いてみた。


 カパッ、と開いた。

 正直なところ、ジルは非常に困惑した。


「何……?」

 自分でやったことに自分で怯えていた。開けていいものだったのだろうか。周囲の様子を窺う。とりあえずのところこの場所にはひとりきりなので、誰から非難される恐れもない。視線を戻す。


 そこには、いくつかの小さな絵が描かれていた。


 上手くジルは、それを説明することができない。抽象的で、何かの記号のようにも思える。ほとんどは理解できないものばかりだったけれど、ひとつだけ、どうも気になるものがある。


 何かの流れを表すような絵。

 その横。そっくり同じ絵の上に、大きく×マーク。


 深く考えてはいなかった。

 なんだかこれはあの水路の流れに関係していそうな気がする。そう思って、軽く指を伸ばして、確かめてみようと思っただけだった。


 なのに。


「え」

 その指は容易く、カチリ、と絵の上から沈み込んだ。


 ご、と何かが切り替わった音がした。

 慌ててジルは指を離す。一体何が。自分でやっておいて酷い言い草だが仕方がない。全くそんなつもりはなかったのだ。辺りを見回す。すぐには気付けなかったけれど、ほんの少しの時間をかければそれだけでわかった。


 下。

 水槽の水位が、どんどんと下がり始めている。


「…………」

 だいぶ仕事をしたと思う一方で、途轍もない不安がジルの心に訪れている。この遺跡に対して自分は、明らかに操作を加えた。それは今この状況において――後続の三人と合流するという目的を達成するにおいて、最適とも言える効果をもたらした。


 けれど、


「……大丈夫か……?」

 本当にそれだけだったのか、全くわからない。


 目に見える結果は確かに水位の低下だけれど、目に見えないところはどうなっているのだろう。どうしよう。これでこの遺跡の外ではとんでもない事態が発生していたら。『震え』どころの話ではなく、たとえば樹海全体がこの排水で水没しかけていたら。流石にこんなに簡単な操作でそんな大惨事が起きるとは信じたくないけれど、目に見えなければ見えないだけ不安が膨らむというのは古来からよくある話で、だから少しでもここから情報が拾えないものかとほら、耳を澄ませて――



 ガチャン、と遠くで音がした。



「っ」

 びくり、と肩を跳ね上げたのは、その音が水槽の奥からしたものではなかったからだ。むしろ逆方向。今こうして立っている扉の奥の方。


 遺跡の奥。

 誰も踏み込んだはずのない場所から、音がする。


 ガチャン。

 ガチャンガチャンガチャン。


 別の音が混じっていることにも気が付いた。柔らかい床の上を、何かが動く音。時計のように規則正しく、それでいて着実に。


 近付いてくる、音。


「――――」

 ジルは、息を殺した。


 足音を立てないように、慎重に歩法を用いる。剣の柄に手をかける。高い通用路の上、扉から僅かに距離を取る。ガチャン、と一際近い場所で音がする。それから足音が数歩の足音が続いて、


 四秒の静寂。


 最後の扉が、ガチャンと音を立てる。船舵がくるくると回り出す。扉が浮く。




 扉が開く。



 真っ赤な目をした人形が、真っ赤な瞳でこちらを見つめている。



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