6-1 第一の刺客
「いや無理無理無理! 荒療治すぎるって! 君、ぐらついた乳歯を指で引っこ抜いてたタイプだろ!」
「いや。生まれたときから全部永久歯だった」
「そんなわけがあるかよ!!!」
というわけで、押し合いへし合いをしている。
それから三時間後。もう日も傾きかけるかという時間帯になってようやく辿り着けた、食堂の前で。
いやもう無理無理と掴まれた腕に全体重をかけて、んぎーっ、と逃げようとしているのがユニス。その横で「ここで手を離したらとんでもないことになるんじゃないか……?」と不安になって、一度握ったその手を離すこともできなくなり、ただむやみやたらに鍛え上げられた体幹を披露しているのがジル。
ここに着いてから、もう五分くらいは揉めている。
「さっき『甘えればいい』とか言ってたのは何だったんだよー! 全然厳しいじゃないか! 無理だって!」
そこまで厳しいだろうか、とジルは思っている。
そこまで厳しく感じるなら、別に無理にはやらなくてもいいとは思う。でも、もしかしたらこれからすることをユニスが勘違いしてるかもしれないと思うから、一応。
「俺が間に入って、デューイと話すだけだぞ」
「わかってるよ!!! わかった上でこうやって嫌……こうなってるんだろ!!!」
わかってるとわかれば、話はそこで終わりだった。
「そっか。じゃあ、ごめん。無理言って悪かったな」
「えっ」
「よく知らない人が怖いっていうから、一度俺がクッションに入れば少しずつ慣れていけるかと思っただけなんだ」
ごめんな、ともう一度言う。
ふ、とユニスにかけられていた体重が、手首から抜けていく。
だからジルは、「お、」とそれに反応して指を解いて、
「別に、今すぐどうこうする必要もないしな。ただ、言ってくれればいつでも力になるから、それだけ覚えておいてくれればいいよ」
とりあえず、自分の気持ちだけをユニスに伝えた。
ふと窓の外の天気の様子を見つめたりしながら、急な雨が降り出しそうな気配がするなとか、となるとそろそろ夕食の時間にもなってくるなとか、そういうことを考えながら、
「ここまで来られたんだし、食堂で――」
夕食の時間が来るのを待っていようか、と。
背を向けたその瞬間、
「…………?」
きゅ、と背中を引っ張られるような感触がする。
振り向けばユニスが俯いて、服の後ろを引っ張っていた。
「…………別に」
「別に?」
「別に、嫌とは言ってないだろ!」
勢いよく、顔が上がる。
普段は澄ました顔をしているのが、いつになく真剣に。頬までちょっと赤くして。
ジルは、少しだけ考えた。
というより、さっきのやり取りを頭の中でちゃんと洗い直して、
「言ってなかったか?」
「言ってなかったの!」
絶対言っていたと思う。
思うが、一旦そのことは胸にしまっておいて、
「僕だって、思っているんだよ。クラハさんやデューイさんが話しかけてくれたときに、『あ、はい……』みたいなことだけ言って離れていくのは失礼だよなって」
「……おう」
ユニスの言葉の続きを、聞くことにする。
そんなことになってたのか、とか思いながら。
「だからその、いつかは僕もこう、上手くやらなくちゃいけないな、とは思ってるんだけど」
「ああ」
「でも僕ってほら、繊細だから。そう。いきなりって言われても難しいところがあるっていうか。かと言ってそんなに簡単に諦められても困るっていうか、根気強く背中を押し続けてほしいっていうか」
「わかった」
「うわぁああー!!! ばか!!!! 本当に背中を押すな!!!」
大騒ぎだった。
後ろに回って、肩にそっと触れただけで。
水をかけられた猫のようにユニスが身を翻す。じり、じり、とこちらに警戒心を剥き出しにする。正直なところジルの心には「ちょっと面白いな」という気持ちが芽生え始めてしまっていたが、向こうは真剣なのだからこれは良くない。何でもかんでも芽生えさせて育てればいいなんていう夏の掟には従わず、真面目な顔で、
「そういうことなら、根気強く説得を続けてやる気にさせてみるけど」
「ああ、頼んだよ。……頼んでいいの? これ、なんかおかしくない?」
おかしい気もしたが、それより、
「とりあえず、食堂の中に入って話さないか。廊下は暑いし」
何より立って話してると落ち着かないし、と。
ジルは非常にまっとうな提案をユニスに行った。まっとうな提案は、「それはそうだね」とユニスを一旦頷かせる。
「――いや、待て待て待て待て」
そして瞬時に我に返らせる。
「中に入っちゃったらもう試合開始じゃないか。みんないるんだろ」
「え?」
「えっ?」
「いや……」
別にそんなつもりではなかった。言われてから「そうか、その可能性もあるのか」とジルは気が付いた。ああ、と遅れてユニスも気付いたらしい。一緒に三時間迷い倒していたから、ジルにそんな手回しの余裕はなかった。
「確かに、中でもう料理を始めてるかもな。ロイレン、煮込みの時間にこだわるみたいだし」
「……いや。ロイレン博士ひとりなら、なんとか」
「いけるのか」
魔法に関連した人だと『知らない人ポイント』が一点下がるんだ、とユニスが言う。別に本当にポイント制を取っているわけじゃないだろうから「そうか」と流しかけて、いやユニスの場合は本当に頭の中で厳密に『知らない人ポイント』を設定して管理しているのかもしれないと思い直す。興味が湧いてくる。
「僕も落ち着いて話せるならそっちの方がいいし。ちょっと中、覗いてみようか」
「そうだな」
「いや待て待て待ちなよ。なんだいその無造作な動きは」
「扉を開ける動きだけど」
「そんなに大雑把な動きをしたら僕らが外にいるのがバレちゃうだろ!」
そっと行こう、とまずユニスは言った。
しかしこちらのことを大雑把だと思って信頼していないのか、すぐに「僕がやる」と言って前に押し入ってきた。
「君は全く……。今ので〈オーケストラ〉のいる部屋に入ったときの悪い記憶が蘇ってきたよ。心の健康のために、今後ふたりでいるときは全てのドアというドアを僕が開けさせてもらう」
「ありがとう」
「ああ。しっかり後ろから観察して、誰かをエスコートするときの参考にしてくれ」
よく見ているんだよ、と言って。
ユニスが、ドアノブを握る。
「扉を開けるときは、こうやってそっと、スマートに――」
「よく来たな、ユニちゃん」
「ワ゜ーーーーーーッッッッ!!!!!!!」
動物では出せなそうな声と、動物ではできなそうな動きが同時に披露された。
いまいちジルはその声と動きをどう表現したらいいのかわからない。確かなことはユニスが飛びのいて、自分の背中に隠れたこと。服を思い切り引っ張られて首が絞まっていること。勢いよく手放された扉は重みと構造に従ってバタンと締まり、「うえっ!」とよく聞き慣れた感じのくぐもった声が向こうから、ガン、という音とともに響いてきたこと。
流石に可哀想なので、ジルは早速ついさっきの約束を破ることにする。首を絞められたままで、扉を開ける。
すると目が合う。
腕を組んで、足を大きく開いて立つ男。
鼻の頭をちょっと赤くした金髪の男の、堂々とした立ち姿と。
「……大丈夫か」
「よく来たな。オレはコミュニケーション道場第一の刺客、デューイだぜ」
そしてなんだかよくわからないノリを展開された。
「よかったな、ユニス。今のは気にしてないって」
「あ……。どうも、」
すみません、と蚊の鳴くような声で、ユニスが背中に隠れたまま言う。うむ、とデューイは頷く。
「ねえ、ちょっと」
さらにきつく、ユニスに背中を引かれた。
だからジルはちょっと膝を折って、耳打ちされるような格好で、
「ん」
「君、嘘吐いただろ……!」
「……? 何が?」
「話が通ってるじゃないか……! コミュニケーションがどうとか、あらかじめ打ち合わせしてスタンバイしてなきゃ――」
「ククク……部屋の外であんなに馬鹿でかい声でお喋りとはな。このオレを相手に『どうぞ会話を円滑に進めてください』って言ってるようなもんだぜ」
「だって」
「…………」
ごめんなさい、と消える寸前の蝋燭の火のような声でユニスが言った。今ジルの心の中には「今日はもう十分頑張ったから、続きは明日にするか!」と告げたい気持ちが芽生え始めており、夏の陽気を浴びてすくすく育ちつつある。しかしユニスからついさっき「根気強く背中を押し続けてほしい」と言われたことを思い出し、綺麗に気持ちに蓋をする。
食堂を見回すと、そこにいたのは第一の刺客だけではなかった。
キッチンの奥では、ロイレンが野菜を片手に持って重さを計っている。目が合えば手を振られたから、手を振り返す。
第一の刺客の向こうでは、窓辺のだいぶ日当たりの良い席でクラハがちまちまと、豆の新芽のヒゲ取りをしている。目が合うと困ったように笑う。その隣にはリリリアが座っていて、胡桃を指の間に三つ挟んでバキボキ殻を割る荒業を見せつけてクラハを驚愕させている。殻を取り除くのが大変だろうなと思った次の瞬間にはこちらにじっ、と目を合わせてきて、にっこり笑って誤魔化しにかかる。
誤魔化されてジルは、デューイに視線を戻す。
鼻が赤くなっていたのも元に戻って、彼は不敵な笑みを浮かべて。
こんなことを、言う。
「さ。楽しくお喋りして仲良くなろうぜ、ユニちゃん!」
背中に隠れたまま、「無理かも……」とユニスが呟く。
でもユニスも初対面の頃こんな感じじゃなかったかな、とジルは思った。