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5-3 しくしく泣いてる夢もよく見る



 マズい、とジルは思った。

 廊下を走っていたためである。


 廊下を走っていてマズいと感じることの大半は速度超過が原因で起こり、このときもそうだった。急には止まれない。しかしその曲がり角の向こうに人の気配があるのを感じた。感じたこと自体は幸いだが、感じた内容は全く幸いではない。


 けれど止まれないなりにどうにかする方法を、ジルは知っていた。

 そして角の向こうに誰がいるかを確かめるよりも、それを行動に移す方が早い。


「ふっ――」

 ぴょん、と跳んだ。


 それも並大抵の跳び方ではない。同じ大きさのカエルでも(樹海の中にはいるかもしれない)そんな風には跳べまいという跳び方。走っていた慣性で横に流れるより、縦に伸び上がる方が早い。壁を足場にさらに身を翻す。べたっ、と四つ足をつく。特に何の取っ掛かりもないが、指の力とかそういうものを駆使して張り付く。それからようやく慣性が来るから、一歩二歩、そのまま天井を歩く。


「…………最近の若い子の間では、天井を歩くのが流行っているのかな」


 その音に釣られて、曲がり角の向こうにいた人物がこちらを見上げて、驚きとも呆れともつかない表情で問い掛けてきた。


 ウィラエ。

 藍色の髪の、ユニスの師。


「……いや、そういうわけでもないんですが」

 すみません、と言いながらジルは天井から降りる。両手の指だけで身体を支えながら伸ばし切り、すとん、と落ちる。そして訊く。


「前方不注意で。大丈夫ですか、怪我とか」

「いや、全く。天井から音がするまで、ジルさんが近くにいることも気付かなかった。驚異的な筋力だな」


 どうも、と応えながら、以後気を付けます、とジルは重ねる。そこまで畏まる必要はないが、とウィラエは薄く笑って応えてくれて、


「ところでいいのかな。急いでいたようだったが、私とこうして話して……」

 いて、という言葉までは口にし切らない。


 ふと、心に当たったというように彼女は、


「もしかしてうちの――ああいや。ユニスを探しているのかな」

「あ、」


 そうです、とジルは頷く。どうしてわかるのだろう、とは思わない。おそらくユニスが逃げているところに遭遇したのだろうと予想がついたから、


「どっちにいましたか」

 直球で、訊いてしまった。


 二秒、ウィラエは悩むような素振りを見せた。

 けれどその後は、全く迷いのない動作で親指と中指を合わせる。


 ぱちんとそれを弾けば、まるで初めからそこにあったかのように、床に青い線が長く引かれて現れた。


「ジルさんは方向感覚に明るくないようだから。要らない世話なら、いかにも過保護がやりそうなことだと笑ってくれ」

「いえ、」


 全く助かります、とジルは言った。心からの思いで。かえってウィラエの方が、軽く笑った。


 追っていけば、と訊けば、ああ、とウィラエは答えてくれる。なんてすばらしい魔法なんだろう。感動に飲み込まれないよう気持ちを強く保ちながら、それじゃあどうも、と踵を返そうとする。


「ジルさん」

 その前に、名前を呼ばれた。


 はい、と振り向く。ウィラエがこちらを見ている。日の光が差し込む廊下。片側の髪だけが白く見るような眩さの中で、彼女は、


「……この間は、買い出しの荷物持ちに来てくれてありがとう。お礼を言っていなかったと思ってね」


 たぶん、本当に言いたかったのはそういうことではなかったのだろうけど。

 こちらこそ、とその言葉を受け取って、ジルは歩き出した。





 線が途切れた。

 しかし周囲に、ユニスの姿も気配も見当たらない。


 そうなるとジルの頭の中にまず浮かんでくるのは、馴染み深いひとつの諦観だ。ああ、迷ったか。さらに連鎖して次の一連の考えも脳裏に去来する。引き返そうか。いや引き返すことでかえって状況が悪化するかもしれない。一本道は比較的得意な方だと思っているが、一度引き返し始めればその限りではない。マズイ。どうすればいいかわからない。


「…………?」

 けれどそのとき、彼は思い出した。

 ついさっき、ウィラエと会ったときに彼女が口にした言葉――それは、つまり。


 最近の若い子の間では、天井を歩くのが流行っているのかな。


「…………」

「…………」

「……バレてるぞ」

「……そんな気はしたんだ」


 上にいた。


 傍から見るとだいぶ変な状態だな、と自分のことを棚に上げずにジルは思う。よって若干落ち込む。落ち込んでいる間にユニスが地上に降りてくる。服の裾を直す。それからちらりとこちらを窺ってくる。


 じり、と動く気配を見せて、


「……無駄? これ」

「無駄……ではないかもしれないが、別にちゃんと理由があるならこれ以上は追いかけない」

「その理由を話さなかったら?」


 言われてジルは、考え込む。じりじりと、こちらを出し抜こうと構えたユニスを牽制しながら。止めようと思えばいくらだって止められるということを確認しながら、


「話したくないことなら、深くは訊かないけど」


 言ってから、脳裏にふたりの人物の顔が浮かんだ。

 デューイ。そしてロイレン。ふたりが頭の中でずぞぞ、と現れ、仲良く肩を並べてこう言う。追いかけて抱き締めろって言っただろ。言ったでしょう。帰ってくれ、と押しやる。


 目の前の顔だけが残る。

 ユニスは、


「……なんだか、君と話すと力が抜けるな」

 困ったような顔で、綺麗にはにかんだ。


 逃げないよ、と彼は言った。そう言いつつふらふら歩きだすものだから、ジルも釣られて歩き出す。たぶんどこに行くつもりもなかったんだろうな、と後になれば思う。屋内での方向音痴具合はどっこいどっこいと言ったところだから、行きたい場所があっても辿り着けるはずがなかったのだ。


 腰を下ろしたのは結局、何の変哲もない廊下の隅だった。

 窓から差し込む光が、床の上で水槽のように揺れている。その光に髪が焼かれない程度には壁に寄って、けれど少し動けば足の先が泳ぐようなゆるやかさで、ふたりで座り込む。


 夏草の匂いがする。


「…………」

「…………」

「……あのさ」

「うん」

「知らない人って、怖くない? 一緒にいると、話しかけづらくて……」


 えっ、とでかい声が出そうになった。

 が、ジルには強靭な理性と冷静な判断能力があった。だから、「ここででかい声で訊き返されたら嫌だろうな」と瞬時の判断が働いて、出かかった息をそのまま肺に戻した。牛でもなかなかやらないアクションだろうと自分で思う。


 が、多分そんな気遣いは要らなかった。



「ていうか僕、そもそもジルに友達がいるとショックだって話しなかった!? 手紙で!!」

 急に向こうが、でかい声を出し始めたから。



 ああ、と頷く。思考の九割は「よかった、元気になって」に持っていかれてしまっているけれど、それでも残りの一割で思い出せる。確かに、東の国にいるときにそういう手紙をもらった。これで思考の十割が使い果たされてしまったので、残念ながらそのことに対してジルが口にする言葉は次のようになる。


「そういうギャグだと思ってた」

「なんてことを言うんだ君は!!!!」


 怒られた。

 それもそういうギャグに見えたが、一旦ジルは言われたとおりに受け止めることにした。すみません。まあいいけど、とユニスはすぐに平静の顔に戻って、浮き上がりかけた腰を下ろす。やっぱりそういうギャグだったように見える。


「……いや、でも。本当に結構そういう感じなんだ、僕は」

 そんな風に、溢し始めるまでは。


「めんどくさいよね。こういうの」

「いや、別にめんど……ちょっと待て。それより先に、こっち側から見た話をしていいか」

「明言を避けたね、今」


 でもいいよ、と言うからお言葉に甘えて、


「ユニスってこう……結構気さくな感じだろ」

「いや全然」

「初対面のとき」

「あれは台本を作ってから行ったんだよ」

「台、」


 本、と。

 繰り返してすぐに、


「でもその後も全然普通に――」

「それは君たちに『受け入れられた!』と思ったから調子が出てきただけだよ。家族からは賑やかで明るいって評判なんだ」


 ていうか最初の三日くらいは普通に寝る前に次の日の台本を作ってたよ、と。

 言われて思う。眼鏡をなくしていたあの頃のぼやけた視界の中では、そんなことが行われていたのか。リリリアだったら気付いていたのだろうか。


 そうか、とジルは言った。

 というより、それ以外に何を言っていいのかよくわからなかった。


「台本……台本」

 一番驚いた言葉を繰り返して、それからかろうじて出てきたのは、


「俺も作ったことないな……」

「だろうね。ジルって大雑把なところあるし」

「えっ」

「えっ? あ、良い意味でね。良い意味」

「いや、それ自体は……そうか? よく『神経質』って言われるんだが」

「えっ? ……じゃあそうかも」

「じゃあ?」

「いやごめん、あんまり人と話さないし、比較できないからわからないんだ。僕が神経質すぎるだけかも」


 別にそんなことはないけど、とジルは全く中身の伴わないフォローの言葉をかけた。おそらく全く「別にそんなことはないけど」という響きには聞こえなかったと思うが、とりあえず「うん」とユニスは受け取ってくれる。


 続き。


「だからその、結構夏も過ぎてきたのに、全然話せないんだ。デューイさんとかネイさんとか、それにクラハさんとも」

「……なるほど」

「でもジルって、デューイさんとかクラハさんとはいつも一緒にいるじゃないか」


 いつも、という言葉には疑義があった。

 少なくともデューイからは「全然捕まらない」と文句を入れられる程度ではあるし、クラハとも稽古の時間は一緒にいるけれど、それ以外の時間はお互い自由に過ごしている。が、話の腰を折るほどのことでもないのでそのまま受け入れて、


「するとね。自分でもびっくりするほどそのタイミングでは近付けなくなるんだ」

「ああ」

「しかもジルやリリリアが僕以外と仲良く喋ってるところを見ると、何となく自分はそれより仲良くない気がしてきて、落ち込んでくるんだ」

「……なるほど」

「あと、みんながカードゲームをしているところに上手く声をかけられなくてしくしく泣いてる夢もよく見る」


 頭の中に再びデューイとロイレンが現れる。言う。追いかけて抱き締めてなんたらかんたら。もう一度帰らせる。実際にふたりがここに来たわけではないから、帰らせたところで頭の中に浮かんだ思いはさっぱり消えたりはしないわけなのだけど。


「……最後のは、そういうギャグだよ?」


 覗き込むようにして、ユニスはそう言う。

 それだけっ、と立ち上がった。


「一応言っておくと、ジルにどうこうしてほしいって話じゃないからね。そんなに甘えるつもりはないし。ただ、今日みたいに突然どこかに行ったりするのはそういうことだよって話で。君にそれで嫌な気持ちをしてほしくないから、ただその説明」


 話はおしまい、とばかりに。

 そのままどこかに――本当にどこに行くつもりなのだろう――離れていこうとする。


 本人がそれでいいというなら、確かにそれで済む話でもあるのだけど。

 少なくとも自分が「避けられてる気がする」と感じていたことについては、一応の決着を見たところではあるのだけど。


 その背中に、ジルは一言だけ。


「別に、甘えればよくないか」


 え、と言ってユニスが、もう一度振り向いた。



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