5-1 今すぐ追い掛けて
「……どこが?」
なんだか避けられている気がする、と溢して返ってきた言葉がこれだった。
夏の真昼間だった。それも南の国の、南の端。つまりはこの世界で一番夏が張り切っているあたり――たとえばどこかの八人が、人知未達の大樹海に二度三度と入り込んで、二度三度と帰ってきた頃の話。
太陽は、自分がこの季節の主役だと知っていた。
地上に向こう十年分は湯沸かしに困らなそうな量の熱を燦々と振り撒く。
樹々はこれ幸いとばかりににょきにょきと枝葉を伸ばして真緑の塔を突き建てた。
無数の虫や小動物が、それを家とし鳴き躍る。
吹き渡る海風も、もしこれが冬場にもたらされるものであればさぞ有難かろう、何なら愛おしく感じて、家に持って帰ってベッドの上に丁寧に丁寧に敷き詰めたくなるだろう温かみを湛えていた。
夏場なのでそこまで愛おしくはなく、代わりとばかりに奔放に空を駆け巡り、太陽に被さる出しゃばりの雲を、すいすいと舞台袖に引き浚っていく。
建物があった。
その太陽の熱を丁重にお返ししようと懸命な白さで着飾って、それでも結局は日焼けと森のきらめきに色を変えてしまった、真四角の箱。
その中の一部屋に、ふたりの青年がいた。
「どこがって、わからないか?」
「わかんねーよ。むしろオレがお前がひとりでふらふらしてるタイミングを探すのにどんだけ苦労したかわかってんのか?」
「そんなことを言ったら俺だってデューイがひとりでふらふらしてるタイミングを探してたぞ」
「声をかけろよ。別にやることねーんだから」
投げた言葉のブーメランを己が顔面で受け止めると決めたがごとき表情、その青年の名はデューイ。
そしてそのブーメランを特に投げ返さないどころか避けすらもせず、素直に顔面で受け止めて呟く言葉は「確かに」、その青年の名はジル。
真夏の光が降り注ぐ、目も眩むような部屋の中。
無数の箱や荷物が積み重なった部屋の真ん中にジルは座り、端の方でデューイはうろちょろしている。そんな夏の部屋。
夏虫の鳴き声も海の囁きも霞ませて、ジルが声を出す。
「でも、ありがとうな。そっちから言ってもらって助かった。いつなら手が空くかわからなかったから、声をかけにくくて」
「いーよいーよ。つか、悪かったな。店閉めてて」
「そっちも別に気にするなよ。大変だったろ。実家であ……赤子の面倒を見るって」
「お前赤子のこと『赤子』って言うの?」
「いや……捻り出した。なんて呼ぶのが正解なんだ」
「赤ちゃんとか赤ん坊とか色々あるだろ」
「実家ではなんて呼んでた?」
「ベイビーマイハニー」
嘘つけ、と言えば、嘘だよ、と背中でデューイは笑う。箱の前に腰を下ろして、蓋を外してがさごそと漁りながら。
「ま、確かに大変だったっちゃ大変だったけど、親の方が大変だよ。オレは別に。てかそっちも色々聞いたぜ。噂で」
「なんて?」
「えー……ちょっと待て。なんか面白いこと考えるわ」
「大丈夫か、その前フリで」
もちろんダメで、結局デューイはごく普通に知っていることを話し始める。大体のところは聞いてるぜ。
「復活した滅王を馬鹿力で握り潰したんだって?」
「すごい尾ひれがついてるな……」
「あとめちゃくちゃヤバい迷宮を手探りで踏破したとか」
そっちは半分くらい合ってる、と応えれば、合ってんのかい、とデューイは乾いた笑いを返す。それから「お、」という顔をして箱の底に手を突っ込む。ごそごそと、天井のあたりを見つめて指先に集中する顔。そんなに素材の整理がついてなくて大丈夫なのかと訊ねれば、はははと乾いた笑いがさらに続いた。
あったあったと彼は立ち上がり、こちらに近付いてくる。
ちょい貸して、と眼鏡に手をかけてくるから、黙ってジルは目を閉じた。
「で、何だって? その迷宮踏破の仲良し三人組のうちふたりが」
「だから、ちょっと避けられてるんじゃないかって」
「お前とオレとでは『避けられてる』の定義が大幅に異なってる可能性がある――マズいな」
「何が」
「作り方忘れた」
おい、と目を開けた。
冗談だよ、と笑っている姿を想像しながら。
けれど、
「……本気でか」
「本気で。細かすぎて覚えてねーよ、こんなん。数打ちゃ当たるで当てただけだし。覚えてるのは鼻当ての先っぽ削っただけで見えるようになったのが意味わかんなすぎて、ブチギレたことだけ」
「それは俺も覚えてる」
全くそういう雰囲気ではなかった。ぼやけた視界の中で何かがしきりに動いているから、おそらく手に取った眼鏡を上に下に、右に左に眺めまわしているのではないかと思う。
その様子にジルが思い出すのは、もうずっと昔にすら感じることだった。
今となってはもはやなくてはならない、身体の一部とすら感じるようになった眼鏡。それを得るためにデューイと過ごした日々。魔導師にも聖職者にも誰に訊いても呪いとやらの詳細がわからず、「とにかく作りまくってみるしかねえ!」と希少なものもそうでないものも、素材を集めて回った数ヶ月。デューイの店にうず高く積まれたわけのわからない、異臭を放つ魔獣のパーツたち。どうするんだと訊いて、「デザインと材料、総当たりで行くぜ。わかんねーもん」と答えがあって、どうやら眼鏡を作るより呪いを解く方が早くなりそうだ、と気が遠くなったあの瞬間。
レンズ越し、初めてデューイの顔をまじまじと見て。
やった、と両手を挙げたのに、「意味がわかんねえ!」「達成感がねえ!」とハイタッチが空振りに終わったあの寂しい記憶のこと。
旅の先々で、それでも「呪い破りができるなんて信じられない」と驚かれるから。
きっと意味がわからないなりに、あるいは意味がわからないくらいにすごいことを、デューイはしてくれたのだと思うのだけど。
「設計図とか残してただろ」
「捨てた」
「は?」
「ってのは冗談で。正確に言うなら調整後のパターンを上手く残せてねえってこと。一応モデルになったやつは、ほら」
このとおり、とぺらり一枚、紙を掲げて、
「残っちゃいるけど、後は見えるようになるまでぐっちゃんぐっちゃんに弄りまわしてただろ。スペアも含めて二本作ったわけだし、触ってみりゃどうぐっちゃぐちゃにしたか流石に思い出すかと思ったんだが……」
「思い出せなかったと」
「あんだけ必死にやったのにな。恐ろしいぜ、時の流れ」
つーわけで、と。
彼は、ジルの対面の四角い木椅子に腰を下ろして、
「似たようなもん作って、その後は延々微調整だなー。流石にここの調査が終わるまでにはできると思うけど。ま、気長に待っといてくれや。別にこの眼鏡、そんなにすぐ割る予定はねーだろ?」
「あってたまるか。……あ、」
「ん?」
「申し訳なかった。折角作ってもらったのに、簡単に壊して」
ぴたり、とデューイの動きが止まった。
それから「一旦目、瞑れ」と声がする。目を瞑る。「顔動かすなよ」と声がする。ああ、と答えれば、す、と耳の上に感触がある。
目を開ける。
「気にすんな。人が壊れるより、物が壊れる方がだいぶマシだ」
優しくデューイが笑っているのが、レンズ越しに見えた。
「ただ、壊れたって聞いたときはかなりビビったけどな。これすげー強度あるぞ。象が踏んでも壊れねーだろ」
「象に踏まれるよりひどかったからな」
「じゃあなんで顔面無事なんだよ……ってのはともかく、そうなるともうちょい強度上げてえ欲が出てくるな。素材変えてみてー。無謀か? どう思う?」
「俺に訊かれても。どのくらいここにいられるかもわからないぞ。調査状況次第だし。あと、少し気になったんだが、確かこの眼鏡ってものすごく細かいところのバランスで組み上がったみたいな話してただろ」
「うん」
「じゃあなんでボコボコ顔を殴られても機能してるんだ」
「狼さんに会えたら訊いといてくれ」
肩を竦められるから、ジルもまた同じように肩を竦めるほかない。
結局、と思う。
呪い破りの稀代の魔道具だの何だの言ったところで。
結局これは、ほとんど偶然の産物なのだ。
緻密な計算や、素晴らしい新理論に基づいて作られたわけではない。たとえば腹痛で苦しんでいるときにそのへんの草を百種類デタラメな順番で食べたらたまたま何かが腹の中で起こって痛みが消えたとか、そういうこと。
その偶然の結晶を、ただ。
目の前の素晴らしい技術を持った職人が、竜殺しでの一件を恩に着て、またその恩を始点に芽吹いたささやかなる友情を糧として、多大な労力と、膨大な時間とを注ぎ込むことで作り出してくれただけ。
作り出したデューイ自身にも、呪い破りの眼鏡についてわからないところは多い。
それは自分が――呪いをかけられた本人である自身ですら、その呪いがどこにどんな風に作用しているかわからないのと、同じように。
だから、ジルは言うことにした。
この方針を決めるのは自分だろう、と思ったから。
「それなら――」
「失礼。入っても構いませんか?」
その途中で、声がした。
部屋の外から。礼儀正しく扉をノックして。「ういよー」とデューイが軽く答えれば、これもまた礼儀正しく扉が開く。
銀髪の、居住まいの几帳面に正された男。
ロイレンが額に汗をかいて、しかしそれでも清潔な印象を崩さないまま、部屋に入ってきた。
「少し試料を……おや、ジルさん。お取込み中失礼します」
「いや、全然。暑そうだな」
「ええ。屋外のプランターの整備をしていたので。いいですね、この部屋は涼しくて」
ロイレンが顔を上げる。す、とその前髪が風に揺れる。確かに、とジルは思う。
研究所内の各部屋は、素晴らしい魔導師の方々のご尽力によって、夏場とは思えない適切な温度に保たれている。最高、とジルは思うほかなく、日々魔法それ自体とその担い手の方々に対する尊敬の念を深めている。そして探索に出る前日は若干の悲しみを覚えている。満ち足りることで足りなかったことを知る。そういうこともある。
ちょうどいいや、とデューイが言った。
「いま訊くか。な。どんくらいでここの調査って終わりそうなん」
「……訊きますか。それを」
「訊くけど」
「……そんなに下げさせたいですか。私の頭を、ジルさんに」
え、と腰を浮かせた。
その慌てぶりを見て気を遣ってくれたのか、実際にロイレンは頭を下げはしなかったけれど、「申し訳ないです」とはちゃんと口にする。
「正直、全く見込みが立ちません」
「え。そうなのか」
「マジ? でも結構データ揃ってきてるじゃん。よな?」
よな、と振られてもジルは知らない。猟犬のように付いていっているだけだから。
しかし「そうなんですが」とロイレンが腕を組んで答えたことから、少なくともデューイの所感の正しさはある程度裏付けされて、
「どうも、『震え』の発生源の絞り込みが上手くいきません。魔導師組で色々仮説を立ててはいるんですが、何しろその仮説の検証をするにもまた潜る必要があります。のちのちにデータが必要になりそうな地点にはあらかじめ計器を設置するようにしてはいるんですが……」
「地形変動があるから、なかなかデータ採取が長続きしないのか」
ご慧眼です、とロイレンは溜息のように言う。ジルとしては一切そのことを責めるつもりはなく(何せ自分には一切関われないことであり、日々魔法それ自体とその担い手の方々に対する尊敬の念を深めているので)、またデューイは、「ほーん」と具体的な温度のない相槌を打つ。椅子の上で足を組む。
「んじゃ何。仮説立てて当たり待ち?」
「ええ。今のところは」
「今のところってのは?」
「画期的な解決法が思いつく可能性もゼロではない、ということです。何せ稀代の天才大魔導師と、それを育て上げた魔法百般の先生がいますからね」
「ああ、はいはい。んじゃ閃きがなけりゃ永遠にここで当たり待ちもありえるっつーことね」
「ありえると困るので、ありえないようにしたいんですが」
そうなると、とデューイは言う。ロイレンから視線を外して、今度はこちら。
「とりあえず既存のモデルの路線でやってみて、それが終わってまだ時間があったら、って感じでいくか?」
「ああ。それで頼む。いつもありがとう」
「いいってことよ。おかげさまで一生かけても使い切れないような魔獣素材もタダでもらえてるしな。いつもお世話になってます」
「そうか? 釣り合ってるならよかったけど」
「何の話ですか?」
「こいつがユニちゃんに避けられてるって話」
え、とロイレンが驚いた顔をした。
え、とジルも同じく驚いた。
ここで話を戻すのかよ、と思ったから。
「そうなんですか? ジルさん」
「いや、それはそうなんだけど……おい」
「なんだよ。いいだろ別に。オレはお前のこと知ってるけど、ユニちゃんのことは知らねーし。むしろなんで避けられてるのかわかんねーってときにこいつに訊くのは順当だろ。兄弟子だぞ、兄弟子」
「…………確かに」
「期待されるほどの面識はないんですが……」
「そうなのか?」
「私は学園の研究室でお世話になりましたが、ユニスくんは大図書館の内弟子ですから。環境が重なった時期がありません。研究の関係で先生を訪ねたときに、くらいですね。幸い相性が良いのか、多少は親しんでもらえているようですが」
「へえ……。というかなんだよ、『ユニちゃん』って」
「仲良くなりたくて」
「で、避けられてるんですか?」
「いや、避けられてない。こいつが気にしすぎなだけ」
「なんで勝手に答えるんだよ。わからないだろ」
「おや。噂をすれば」
え、と。
今度はジルは、デューイと声を合わせた。
ロイレンが見ていたのは、扉の方だった。ついさっき彼自身がくぐってきた場所。開いている。試料とやらを取ってすぐに退散するつもりだったのか、それとも単にもう一度使うつもりの扉に対して効率を重視するタイプなのか。そのまま開きっぱなしになっている。
突き当たりの倉庫だから、扉を開けていれば廊下のずっと向こうまで見える。
紫色の髪が、窓から差し込む光にキラキラと、宝石のように揺れている。
向こうはまだ気付いていない。近付いてくる。気付き始める。不思議そうに首を傾けて扉のこちら側を覗き込もうとする。
気付く。
目が合う。
ぱあっ、と。
星が生まれるときでもこれほどではあるまいというくらいに、楽しそうな笑顔を見せる。
たたた、と廊下を走って向かってきた。
「ジ――」
そしてピタリ、と。
倉庫の入り口で、足と表情が止まる。
ジルはすでに腰を浮かしている。よ、と迎え入れるための準備はできている。いま眼鏡を作ってもらってたところなんだけど、と会話を振る用意もできている。
けれど大魔導師の彼は、ぴたりと止まったまま。
しかし何事かを頭の中であれこれ思案しているような間を置いて、
「――喉が渇いたから、お茶でも飲みに行こうかなっ」
くるり、と踵を返して去ってしまう。
残されたのは、哀れな青年。
しばらく夏虫の声に身を浸して、遠い海鳴りに心を飛ばして、あと空調の効いた部屋であってもじわじわと日光に背中を炙られて、このままでは服の上から日焼けするのではないかというくらいに熱を持ち始めて。
それからようやく、脇のふたりに振る。
「――な?」
「何が『な?』だよさっさと追い掛けてこい」
「え」
「どこが避けられてんだよ避けてるやつがあんな顔するかよ追い掛けて抱き締めてこい」
おらおらおら、と靴の先を控えめに小突かれるから、ジルは立ち上がる。何かがデューイの中で腑に落ちたらしいことはわかったが、自分の方は全然腑に落ちていない。
助けを求めて、ちらり、とロイレンを見るが、
「――――ジルさん」
彼は彼で、腕組みをしながら目を瞑り、真剣な調子で、
「恐らくジルさんくらいの年齢だとあまりピンと来ないとは思いますが、若い頃の友人というのは、本当に得難いものですよ」
「は、はい」
「そしてその友人と共にいられる時間も――青春時代も、あなたが今想像しているよりずっと短く、儚いものです」
「は、はあ……」
「つまり?」
「今すぐ追い掛けて抱き締めるべきです」
「えぇ……?」
さあ行った行った、とロイレンまで参加してきた。
もう一度ジルは「えぇ……?」と異論を残す。しかしこの背中を押す男ふたりは決して聞き入れない。そのまま倉庫の外に押し出される。ばたん、と扉が閉じられる。
廊下に取り残される。
もう一度言う。
「えぇ……?」