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4-1 揃ってから



 それから幾度かの昼と夜があり、クラハは数え切れないほどのものを見た。


 というより、そもそも数えられるようなものではなかったのだと思う。

 目に映る全ては新しいもので、しかも同じものが二度流れてくることすらとても稀だった。川に流れる水の粒を数えることはできない。ましてや海なんて、とてもとても。


 ロイレンとウィラエは、クラハが動植物に――環境に興味を持っていることを知るや、逐一目についたものの名前、性質を教えてくれた。


 そのほとんどを彼女は、手が塞がっていない限りはすぐさま、塞がっているときは夜になって、眠る前にノートに書き留めた。けれど道の半ばを過ぎたあたりになって、この知識が役立つのは行きの道ではなく帰りの道になりそうだと気付く。さらにもう半分を行けば、帰りの道が行きの道と同じとは限らないともわかる。


 豊か、という言葉では表し切れない土地だった。


 たったの七日程度を進んだだけで、自分はこの世のことを何も知らないと思い知らされる。根が空を向く巨木。その幹を二周もするほどの尾を持つ――信じられないことに、魔獣ならざる大蜥蜴。森を分ける海。その底に沈む、これもまた森。その真ん中を泳ぐ栗鼠。それを呑んで水面から飛び立つ、羽ばたくことなく浮かぶ鳥。唐突に土砂降る夕立。泥に混じって流れていく、液体の花々。雨上がりの蜃気楼が見せた、七つに分かれた月の橋。


 きっとそれは、夢にも見ないような光景で。

 きっとこれからは、夢の中に、それを見る。


 目的のある旅だとわかっている。

 けれど許されるなら――きっとクラハはこの旅を、こう呼んでしまうだろう。


 夢のような旅、と。





「おはよ~。今日も早いねえ」

「おはようございます。リリリアさん」


 そして夢のようなことと言えばもうひとつあり。

 大抵の人はたぶんそれを、『人間関係』と呼ぶのだと思う。


 よく晴れた朝のことだった。夜明けの気配がまだ残り、樹々の隙間から見える東の空に、わずかに橙色が滲む。けれど青く暗い薄雲が消えれば、瞬く間に昼になってしまう。そんな時間帯。


 一番早くに起きたから、一番早くに支度をしていた。

 小さな鍋を火にかけている。ふつふつと小さな気泡が浮かんで、それを挟み込むようにして向かいに、リリリアが座る。


「もうすぐ沸きますよ」

「ありがと~」


 結構、よくある光景だった。

 自分が一番先に起きる。そしてその次に、リリリアが起きる。意外と言えば意外だったが、本人が言うには「舟の上で寝すぎて夜しか眠れない……」とのことらしい。それから「家の外だと緊張しちゃって」とも。緊張している人間はおそらく冒険の最中に寝ることはないのではないかとも思われたが、真相は定かではなく、とりあえずクラハはそれをそのまま飲み込んでいる。


 沸いた湯を火から離す。


 あらかじめ採取して、挽いておいた豆。濾紙をセットしたドリッパー。ゆっくりと湯を注ぐ。香りが広がって、ふたり分のカップにそれを注ぐ。ありがとう、とリリリアがもう一度言う。同じタイミングで口を付ける。


 穏やかな時間が流れる。

 奇跡的にも、とクラハは思う。


「ふふ。これ、なんかコーヒーっぽくないね。もっとこう……」

「あずきに似てませんか? 匂いが」

「あ、そうそれ。でも甘くないから、変な感じだね」

「甘くしてみましょうか」

「うそ。できる?」


 仲良くなっている。

 なんとあの教会最高権威。四聖女のひとり、リリリア様と。


 最初はぎこちないものだった。偉い人だし、そのうえ夢の中にも見ないような、綺麗な人だし。

 けれどこういう時間を何度か過ごすにつれて――それから舟の上でも、森の中でも。彼女が他者の強化を得意とし、自分が前衛としてはジルよりも頼りなく、強化される余地があるという関係上、行動をともにするにつれて。


 驚くべきことに。

 この人と話をしていると落ち着く、という段階にまで至り始めている。


「冒険になりますけど。昨日の果物の残りを混ぜてみれば――」

「ちょっと待って。料理人の舌を壊さないように私が毒味するよ。……ふふ」

「どうですか」

「クラハさん、たぶんロイレンさんに騙されてるよ。これあずきだよ。完全に」


 さらには「そんなまさか」なんて言いながら、笑い合う段階にも至っている。

 そしてさらに驚くべきことに、それはリリリアを相手にしたことだけではなかった。


「お。騙してる人が来た」

「いきなり人聞きが悪いですね」

「おや、しばらく見ない間に悪いやつになったな。君も」


 三番目に起きてきたのは、ロイレンとウィラエ。

 ふたりとも同じく良好な関係を築けていた――と言い切るには自分自身の性格の問題があるから、正確にクラハの所感を述べるならこうなる。『自分では』良好な関係を築けていると『思っている』。


 何ですか先生まで、とロイレンが苦笑しながら言って、ウィラエはそれに微笑む。


 かつてウィラエは大図書館に辿り着くより前、学園で教鞭を執っていたことがあり、ロイレンはその頃に彼女が主宰していた研究室の出なのだという。言ってみればユニスの兄弟子で、ロイレンは彼ともまた、うっすらと面識があるらしい。


「で、朝から何の冤罪ですか」

「はい。ウィラエ先生。ロイレンくんがクラハさんにコーヒーと騙してあずきを渡していました」

「残念だよ。ロイレン」

「似た味がするだけですよ。美味しいでしょう、これも」


 まあ実際にコーヒーの仲間とは言い難いところもあるんですが、と。

 自分の分とウィラエの分を淹れながらロイレンが語り出すから、クラハはノートを取る。


 こんな風に、関係を蓄積できていた。

 正直なところ『大図書館の副館長』や『南方樹海研究の第一人者』から知識を賜ることには、恐れ多い気持ちがある。しかし探索の都合上、自分が樹海に関連する知識を得ることは間違いなく集団の利になる、その自覚があるから、こうして多少は気兼ねなく、力を抜いて接することができている。


 それでもやはり、この状況は信じがたいことであり。

 だからクラハは毎朝、こうしてカップに両手を添えながら、強く思う。ここにいるのは自分の実力によってのことではない。たまたま、ジルの傍にいたのが自分だったから。それでも期待された役割を、期待された以上にこなそうと。


 今日も一日、頑張ろうと。


「おいーっす。今日も暑くてやる気が出ません!」

「おはざーす。足が動きません。帰りましょう!」


「…………」


 思っていると、五番目と六番目。

 デューイとネイがふらふらと、なぜか声だけは元気なままで起き出してくる。


 このふたりともいくらか話はできるようになった。だから何となくの経歴は聞き及ぶところだ。


 デューイ。この若さで魔道具師として店を構えていた彼は、この国が故郷なのだと言う。


 かつての店主であり技師としての師でもある祖母が引退を決め、その付き添いとして帰省。するとちょうど姉夫婦が育児に勤しんでおり、実家の雑貨屋の労働力として見込まれ、あれよあれよと言う間に束の間のはずの臨時休業がもう二年。取引先として知り合ったロイレンとの友人付き合いを経て、今はこうして調査に付き合ってくれている、と。


「あ。デューイ、昨日言った計測器の件ですが――」

「ああ。魔力場の関係でちょっとズレてたな。適当にネジ締め直して叩いといた」

「適当にネジを締め直して叩いておかないでください」

「そこはオレの才能を信じて」


 体力はない。本人曰く戦闘能力もない。けれどクラハは知っている。ジルの掛けている呪い破りの眼鏡。その卓越した魔道具を作ったのが彼であると。そしてまた、『探索中に計測器に不具合が起きたときのために』とロイレンに信頼されて、メンバーに選ばれた人物であると。


「ん、」

 彼は、こちらの視線にふと顔を上げて、


「おはー。……なんかやっぱり、どっかで見たことある気がするんだよなあ。クラハさん、オレらどっかで会ったことない?」

「朝からナンパはやめなさい。恥ずかしい」

「お前が言うか?」

「あ、あはは……」


 なぜか初対面からこの調子なので、あまり深く打ち解けたとは言い難いけれど。

 とりあえず必要なことを必要なだけ話し合うくらいの関係は、築けている。


「いやー。今日も労働。明日も労働。やんなっちゃいますね、ほんと」

「ねー。労働やだねー」

「ねー。ほんとですよ」


 そしてリリリアの隣に座って、労働へのスタンスに関する謎の意気投合をしている彼女。ネイ。


「クラハさんは……でも、労働好きそうですよね」

「え。あ、でも、そうですね。好きかもしれません。楽しいことも多いので」

「良くないなー。そういう人は良くない職場に当たると極端に自尊心をすり減らされて、その後の人生に全般的な影響が出るんですよ」

「……………………」


 彼女は、ものすごくズバズバと物を言う。

 見た目は楚々とした、落ち着いたものなのでギャップがすごい。そして大抵の場合その言葉には思い当たるところがあるので、たびたびクラハは何も言えなくなる。


「まあねー。良くない職場は良くないよね」

「聖女様は流石よくわかってくれますね。たとえば毎日てくてくてくてく炎天下の中を歩かされる職場とか。そういうのは良くないと思いますよね」

「でもここ、舟の上で寝てても誰にも怒られないよ」

「肝、太……」


 彼女は、ロイレンの少し遠い親戚なのだと言う。

 特段目立った技能があるわけではない。魔導師としてのささやかな力こそあるけれど、主な役割は肩書通りロイレンの助手。付き合いの長さはそれなりのものらしく、ロイレンの指示の意図を汲んで、彼のもう二本の腕として動いていることが多い。夜はすぐ寝て、朝は遅く起きる。それもあってあまり言葉を交わす機会に恵まれていないが、それでもいくらかは打ち解けてはきていると思う。


 正直に言って、初めに想定していたときよりも全然良い。

 うっすら孤立の予感もあっただけに、随分と楽しい旅路になったと、そう思う。


 思うから、話は弾む。


「今日もだいぶ晴れ間が多くなりそうですね。私も声かけしますが、皆さんも道中、小まめな水分補給を心がけてくださいね」

「そうだな。私もそろそろ脱水症状を起こしやすい年になってきたから、気を付けるとしよう」

「先生。ツッコミづらい上にファンが聞いたら泣くようなことは言わないでください」

「お。ここに年齢が上がったことによって何かが損なわれると思ってる人間がいるぞ。いいんすか、ウィラエ先生」

「良くないね」

「ここ揃うとロイレン先生がボコボコにされるのちょっと面白いですよね」

「ネイくん。面白がってないで」

「でも雨が降ったら降ったで嫌ですけどねー。一昨日とか、リリリアさんがいなかったらおしまいでしたよ」

「始まっちゃったか。私がいたことで全てが」

「そこまでは言ってないっす」

「リリリアさんの神聖魔法の遮水性、すごく高いですよね。私も似たようなものは覚えてはいるんですが、容積も完成度も全然……」

「たぶん水の中に家も作れるよ。作ってあげようか。クラハさんの家を」

「い……いえ、その。お気持ちだけで……」

「『水の中に家作ってあげる』って気持ち、本当に要ります?」


 私は要らないかな、とリリリアが堂々言った。

 えぇ……とクラハが思っていると(そしてそうしている間に「でもクラハさんの隣の家なら欲しいかも」と差し込まれて「えっ……?」となったりしていると)、ロイレンが不意に、「そういえば」と全員の注意を引くように切り出した。


「おそらく今日、遺跡のあたりに踏み込むことになると思います。それに当たっていくつか注意点があるんですが、」


 ぐるりと見回したのは、人数を確認するためだったのだと思う。すかさずリリリアが「あのふたりは結構夜更かしだから」と補って、ウィラエが「そろそろ起こそうか」と腰を上げる。


 だから、ロイレンは言う。


「全員が揃ってからにしましょうか」



 そして言うまでもないことだけれど、クラハは、ジルとは元々仲が良く。

 その一方で、ユニスとはと言えば。



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