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3-1 樹海



 森の中に海が見える。

 酒に酔って幻を見ているわけではない。全く以て、現実の話だ。


「じ、ジルさん――見てください、あれ!」


 クラハが隣で、しきりに袖を引いてくる。いつもの彼女では絶対にしないようなはしゃぎよう。けれどそうなる気持ちがジルにもわかる。だって、そうしないではいられない。


 視界に映るのは、一面の碧だった。


 それはついこの間まで身を置いていた東の国の山中に見たような、幾種類かの樹々だけが作り出す景色とは違う。全くかけ離れている。


 目に映る樹々は、ひとつとして同じものが見当たらないように思えた。

 茎が違う。枝が違う。葉が違う。土を食い破って陽の光を浴びる木の根すら、その渇きや湿り、太さやうねりのことごとくが異なる。点々と緑の上に散らされた夏の花は、虹に染められたように鮮やかで、太陽の光をきらきらと跳ね返して瞳を押す。


 さらに極めつけは、研究所からしばらく歩いた後のことだ。

 ジルがクラハとともに先導して辿り着いた先に待っていたのは、遥かな下り坂。




 驚くべきことに、そこには。


 その鮮やかな森をかき分けて、なみなみとした海が広がっていた。




「あの木、海水に頭まで浸かってます……! まるで海の中に――」

 クラハが指摘するところも、当然その目に入っている。


 海面の下。きらきらと輝くその水辺の下に、それこそ幻のように浮かぶ森。月が水面に映ったのとは訳が違う。ここから見てもわかる。手を差し入れてかき回したとしても、どこかに消えてはいかないはずだ。


 だってそれは本当に、クラハの言う通り、


「――海の中に、森があるみたいだ」

「喜んでいただけたようで何よりです」


 呟けば、ざっ、と後ろから、ひとりの男が歩み出してきた。

 昨日に顔合わせをしたから、そしてここまでの道中も共にいたから、ジルは知っている。銀の髪。丁寧な物腰。この南方の秘境を拠点に研究を行う、卓越した薬学魔導師。


 ロイレン。

 彼は芝居がかったような仕草で胸に手を当てて、小さく礼をする。


 背後には変わらず一面の、夏の碧。

 豊かな森を。その豊かな森の真ん中を走る海を。その水面が映し取る空と森の緑を。その水面の底に沈む、静かな『ふたつ目の森』の青を。


 舞台の背景のようにして、彼は。

 舞台の案内人めいて、こう言った。



「長々とここまで歩いていただきましたが、改めてご案内を。

 ここは南方樹海。この世に残された最も神秘的な地のひとつ。


 ようこそ。樹『と』海が織りなす、南方の秘境へ」



 ああそういう、と。

 その言葉に不思議な納得を得ながら。


 ジルは探索の一日目、ここに至るまでのことを、少しだけ思い出していた。





「まず我々が目指すのは、この『震え』の源――震源地の特定です」

 朝食のために集まった食堂で、その食事が一段落着いた頃、ロイレンはそう言って切り出した。


 椅子の二、三十脚はある部屋だった。


 食事中に少し訊ねてみれば、時たま冒険者パーティに調査同行を依頼することがあり、その際のことを考えてこの大きさが確保されているらしい。

 広々とした一室で、夏の風と朝日が目いっぱいに吹き込めば、まだ気温が上がり切る前ということもあって、爽やかな白さに満ちていた。


 ロイレンは、ネイが引いてきたボードの前に立っている。そこに張られていたのはいくつかの地図や計画書。どうせ自分が読んでも深くはわからないからと、早速ジルは細かいところの解読をクラハにお願いすることにして、今はリリリアの隣にいる。朝食を終えた皿を彼女がぴかぴかに洗うので、それを重ねて片付けるという、重大な役目を仰せつかっていた。


「一応、私の方でも事前の調査はしています。しかし南方樹海はその性質上、正確なデータが取りづらい」

「多くの〈魔力スポット〉を抱えているからですよね」

「ええ。クラハさんのご指摘のとおりです」


 優秀な生徒がそうするように、クラハがロイレンの説明を補足した。このあたりは実は、ジルも昨日の内に彼女の予想として多少のことを聞いている。


 南方樹海。

〈迷宮〉ではない。世界を循環する魔力が淀んだことで発生する『構造化』は、今のところ見られていない。けれど構造化に至らない程度の淀みの沈積――〈魔力スポット〉化は一帯で、知られているだけで少なくとも百ヶ所以上に見られる。


 元来の地形と噛み合うことで、探索難易度は著しく高まる。

 最高難度迷宮〈二度と空には出会えない〉と同じ、とまで言い切ることができるかは定かではないが、少なくともその複雑さと広大さは驚異であり、現在地図上に起こせているのは全体のほんの五分の一程度。しかもその五分の一も、〈魔力スポット〉の影響で日に日に形を変えていくのだから始末に負えない、と。


 そのあたりのことまでは、聞いていたから。


「ジルくん、もしかして塔の建設に興味がある?」

「え? いや……はい。あったみたいです」

「資材はいくつかに分けて乱立させてね。高みを求めるあまり、文明が崩壊してしまわぬように」


 リリリアに言われたとおりに、ジルは目の前に積み上がった食器の塔を小分けに解体していく。その間にも当然時は流れ、話は進んでいく。


「ですが今回、応援の皆さんに来ていただいたことで大きく状況は変わりました。探索難度の問題からこれまでは浅瀬での調査を主としていましたが、何せ今や、最高難度迷宮を攻略したメンバーが来てくれたわけですから。これなら障害は無視して、その都度最適な調査を行うことができる」

「あ、一応先に申告しておきまーす。先生はともかく、私とデューイは雑魚なので、戦闘関係の頭数に数えないでくださーい。同行はしますけど、付いていくだけで精一杯でーす」


 明らかにこちらの注意を引こうとする声色で、ネイ――ロイレンの隣に立つ、助手の彼女が言う。


 はーい、とリリリアが返したので、ジルも頷いて返した。一瞬それで、ネイと目が合う。一応もう一度頷くと、ども、と彼女の唇だけが動いて、視線は外された。


「となると、効率を優先して、あえて戦闘を行う場合もあるという認識でよいでしょうか」

「そうですね。迷宮とは違って周辺は三百六十度開けていますから、どのルートも迂回すること自体は可能なんですが。そこはクラハさんの仰るとおり、体力や時間の効率と相談することになります」


 ぺた、と不思議な感触がジルの手に当たった。

 戦闘の話が出たから自分も聞いておいた方がよかろうと、手元への視線がおろそかになっていた。というわけで、自分が無意識のうちに何を触ったのかを確認しようとした。


「おっとごめんね。洗うのが終わったから、私も重ねるの手伝おうと思って」

 リリリアの手だった。


「…………すみません。本当に」

「どしたの本気で申し訳なさそうに。私、口では『ごめん』って言ったけどただの反射で、実際は何も申し訳なく思ってないよ」

「お……いや、はい。すみません」

「謝り人形になっちゃった」


 なるほど、とクラハが頷いていた。別にこちらの微妙な心の動きを感知したわけではなく、順当にロイレンの説明を聞いて、方針の理解をしていたのだと思う。おそらく。たぶん。


 彼女は重ねて、


「調査期間はどのくらいを予定していますか?」

「実は、そのあたりが難しいところで。おそらく冒険者の方々は、月単位でのアタックとインターバルが一般的かと思うんですが……」

「ええ、そうですね」


 そうなのか、とジルは聞いていた。

 今度は手元に集中しているので、耳だけで。


「南方樹海は、一ヶ月も期間を空けると地形が大きく変動する可能性があるんです。そうなるとインターバルの後に振り出しになるのはともかく、アタックの帰り道が……」

「道を見失って遭難する可能性がある、ということですね」


 まただって、とリリリアが隣で言った。まだ結末が決まったわけじゃないだろ、とジルは思ったが、ここで常識人顔をして鋭く突っ込むと後で普通に遭難した際に過去の発言を穿り返されそうなので、「そうならないといいな」と穏やかに返した。

 ね、とリリリアも微笑み返してくれて、これからはこの感じでいこうと思った。


「しばらくは様子を見ながら、というところでしょうか」

「ええ。戦闘を請け負ってくださる皆さんの気力体力もそうですが、こちらの調査の進みもありますので。その都度相談させていただければ」


 わかりました、とクラハが応えた。そしてノートに何事かを書き留めていた。

 終わりました、とリリリアが言って、ぱっと手を開く。新品のようにぴかぴかに光る皿の群れがそこに現れた。その数だけを見たら大抵の人間が『おそらくこの食堂はぎゅうぎゅうに混雑していて、立ち食いした人間も出たんだろうなあ』と推測することだろう。自分が控えめに食べていてこれだから――と思ったところで、ふと気になった。


「食事って、どうするんだろうな」

 小声で、リリリアにだけ聞こえるような声で呟いた。


「あ、そうだね。訊いてみよっか。はーい、ロイレン先生ー!」

 小声で呟いた意味がなくなった。


 せ、と少しの動揺をロイレンは見せた。が、すぐに持ち直して「はい。なんでしょう」と彼は答える。見習うべき点が多々あるな、とジルは思う。


「そのアタック?中の食事はどうするんですか? ここからジルくんが全部担いで持っていく?」

「おい」

「いけるでしょ?」

「……まあ」


 それはまあそうだ、と認めざるを得ない。

 持ち合わせている気力体力が段違いだからだ。他のメンバーに合わせてただ歩くだけなら、どれだけ重い荷物を背負っていたとしても息が乱れることすらないだろう。


 けれど、「いえ」と言ってロイレンが苦笑するので、その想定はしなくても良いものだったらしい。


「多少の非常食は持っていきますが、基本的には現地調達を考えています。可食物の見極めは、大体私ができますので」

「おお」


 ありがとうございます、とリリリアが回答への礼を言う。

 そして耳元で「やったね、楽しみだね」と囁いた。なぜここに至って急に耳元で囁いてきたのかはよくわからなかったが、嬉しかったので細かいことはどうでもよかった。


「となると、」

 そしてその疑問の先を、クラハが引き継いで、


「荷物として主になるのは、調査用の魔道具だけということでしょうか」

「あ、いえ。実はそれなんですが、移動用の――」

「うーい。道具一式ご到着~」


 ロイレンが答えかけたとき、ちょうど三人が入ってきた。

 デューイ。金髪の魔道具技師が、両肩に大きな鞄を下げて、えっちらおっちらと。その後ろにはウィラエが。デューイの肩のあたりに両手を挙げて、いつ彼が転んでも支えられるようにと準備しながら。


 そして最後に。

 紫色の髪に銀河色の瞳。やたらに顔貌整った大魔導師が。


「なんだそれ。ユニス」

「ふふふ……。それはもちろん――」


 やたらに大きなリュックサックを、背負わずに。

 魔法の力で、自分の手前にふよふよと浮かせながら。



「着いてからのお楽しみだよ」

 唇の前に人差し指を立てて、ぱちり、とウインクしながら、そう言った。



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