2-3 久しぶり
「クラハはすごいな」
「え?」
ふたりになってから、いきなりのことだった。
ウィラエがユニスとリリリアを連れて退室していってから、ほんの少し。
ちょっとの静けさが部屋に現れた頃に、隣でジルがそんなことを口にした。
「さっきウィラエさんも疲れてるってこと、すぐに見抜いただろ。確かにそうだよな。たぶん、ウィラエさんもユニスと一緒に到着したんだろうし」
「あ、いえ。そんな……」
「それに説明もわかりやすかったから助かった。こっちは全然話進んでなくてさ」
あのままじゃ何年かかるかわからなかったよ、ありがとう、と。
真正面から言われれば。
こんな些細なことで褒められるのが気恥ずかしくなってしまって――それはそれとして『よかったことリスト』には書き込むけれど――いえ、とクラハはつい話を逸らしてしまう。
「でも、全然。さっきなんか、リリリアさんとユニスさんがいらっしゃったのに緊張して、全然話せなくて」
「緊張?」
はい、と素直に頷いたのは、実際にそうだったからだ。
島守りの聖女、リリリア。
星の大魔導師、ユニス。
どちらも、若手として優れているというのに収まらない。
世界中の聖職者、魔導師の中でトップを争うふたりなのだ。
剣士としてのトップクラス……というかトップであろうジル相手には、もうそれほど緊張はしないけれど――いやこれは別にジルに対する畏敬の念がなくなったとかそういう話ではなく東国にいたころチカノ相手にだってそうだったからこれはきっと親しみとか話しやすさとかそういう――いやでもリリリアやユニスが話しにくいとかそういう相手方に起因する問題でも全くないのだけれど――とにかく。
とにかくそういう心の動きは、クラハの中にあって。
「そっか。クラハから見ると、そんな感じなのか」
はい、と頷けばジルは、
「じゃあ、困ったことがあったらいつでも言ってくれ。リリリアとユニスに何か伝えたいけど気後れするとか、そういうことがあれば。もちろん、そういうことだけじゃなくても」
え、と声に出してから。
クラハは、ふと気が付いた。
今さっき、話を逸らしたいがために口にしたこと。
それが、自身の不安についての吐露にもなっていたことに。
このところが上手くいかなくて……なんてジルに対する相談のような形を取っていた、ということに。
少し前の自分なら、きっと口にはしなかったことで。
だからきっと、少しずつ、自分は――
「……はい。もし、何かあれば。相談させてください」
「ああ、いつでも。……と言いつつ、早速俺の方がクラハに頼るんだが」
行くか、挨拶、と。
ジルが言うので。
行きましょう、挨拶、と。
気を取り直してクラハは、建物の見取り図を取り出した。
「そもそもここって、何の建物なんだ?」
「報告された魔導師の方が拠点にしている、研究施設だそうです。ここは……資料室ですね。この位置です」
なるほどな、とジルが見取り図を覗き込みながら言った。
この「なるほどな」が必ずしも『何らかの地理的な理解を得ましたよ』ということを意味しているわけではないと、クラハはすでに知っていた。とても不思議なことだが。
「一応、この部屋を出てすぐ右に行くと突き当たりに階段があって、それを上ると寝泊りのために用意してもらった個室があるんですが……あとでこれは、改めてご案内しますね。一緒に行きましょう」
「悪いな。たぶんそのくらいなら覚えられるとは思うんだけど」
「いえ」
無理だろうな、という否定の言葉ではない。もちろんない。「悪いな」に対してかけた言葉である。
それから、とクラハは続けて、
「ウィラエさんが先ほど言っていた実験室は……」
言いながら、扉を開けた。
当然その先には、廊下がある。ガラスの窓がその廊下の片側をずうっと続いていて、夏の葉々が弾いた陽の光が、浅瀬のように床に溜まっている。
その先の、日焼けした突き当たりの壁。
あそこを左に曲がれば実験室のはずだから、と。
「こちらです」
言えば、ジルは自分に半歩遅れるようにして、とことことついてきた。
「すごいな。この景色……全然違うところだ」
歩きながら、窓の外を見ながら、彼は嘆息するように言う。
だからクラハもそれに釣られて視線を動かす。強い日差し。目が眩むように白く、けれどその白にも負けないくらいに濃い緑色が景色を埋めている。
「そうですね。私もここに来るのは、初めてです」
南方樹海。
もしできるなら、ここで立ち止まって、ずっと眺めていたいくらいだけれど……。
流石にそういうわけにはいかないから、クラハは足を止めない。手で庇を作って、ジルと同じように通りすがりに眺めるだけ。この研究所自体が、樹海からほとんど距離のないところに建てられているからだろう、視界にあるのは樹木ばかり。けれど少し視線を上げれば、僅かながら青空も覗いていて、
「……あ、」
そこに飛んでいる鳥たちを見て、クラハはふと、思い出した。
「どうかしたか?」
「あ、いえ」
『遠ざかるほど、大きくなるもの』。
どこかで聞いたフレーズだと思っていた。
「なんでもありません。少し、思い出したことがあっただけで」
けれど今は、心に留め置いた。
ユニスがジルに向けて作った問題なのだから、自分が横から解説するのも筋違い、あるいはすでにジルはこのことを知っているだろうと、そう思って。
「あ、ジルさん。ありましたよ」
「お、よかった」
そして突き当りを曲がると、それは思ったとおり、その場所にあった。
扉。
もう三人の調査者たちがいる部屋と繋がっているはずの、それが。
さっきまでいた資料室のそれとは、少し毛色が違っているように見える。
資料室の扉は、ごく普通の木製のものだった。けれどいま目の前にあるのは金属製。かなり分厚く、気密性も高く見える、そんな扉。
一瞬、クラハはノックを躊躇った。
するとその間に、ここだよな、とジルが先に手を伸ばして、指の骨でコンコン、と軽く叩いてくれた。
「はい。いま開けます」
すると、女の声が返ってきた。
あまり年かさの声ではない、とクラハはそれだけで判断した。肩肘を張っていない、ひょっとすると自分と同じくらいの年ごろだろうかという印象の声。そして実際に、ドアが内側にきいと引かれて覗いた顔は、その予測からそれほど外れていない。
「はい。どちら様ですか?」
出てきたのは、薄茶色の髪の少女だった。
襟のあるシャツを着た、自分とそれほど変わらないだろう年頃の女性。
小柄だ、という印象を一目見てクラハは受けたけれど、しかしよく見ればそれほどのものでもない。ジル、リリリア、ユニス、ウィラエ……今日が始まってから交流した面々が皆、平均より高い身長の持ち主だから、感覚がずれていただけだ。
実際には自分とあまり変わるところのない、つまり、平均的な体格だった。
「どうも。明日からの調査に、」
参加する、と続くだろう途中で、不思議とジルは言葉を切った。
しかし「ああ、はい」と少女は意を汲んでくれたらしく、「どうもご丁寧に」と頭を下げる。
「中にどうぞ。私はただの助手ですから」
そう言うと、扉をぐいと大きく引いて、招き入れてくれた。
「失礼します」
「失礼します……」
ジルの陰に少しだけ重なるようにして、クラハも中に入っていく。
明るい部屋だった。
薄く白いカーテンが引かれてはいるけれど、遮光性が低いのか。それとも窓台が跳ね返す光だけで、この部屋を照らしてしまうのには十分だったのか。風にカーテンが膨らめばさらにチカッときらめいたから、おそらくは後者なのではないかとクラハは思う。
見取り図からあらかじめ予測していたとおり、最初に自分たちが辿り着いた資料室よりずっと広い。だいたい二倍くらいの大きさで、しかし壁をぐるりと一巡するようにして置かれている物たちが、むしろより雑然とした印象を与えている。
物は、様々だった。
水槽であったり、鉢であったり、あるいは大きな、公共施設の園庭に使わるようなコンテナであったり。形も大きさも様々なそれらが、日の光を浴びてきらきらと輝いている。
「おや」
そして、その真ん中。
窓の傍に、銀髪の男は立っている。
「ひょっとして……」
「お客様。ほら、先生。明日からの調査に協力してくれる方たちですよ」
「ああ、これはどうも! わざわざご足労いただきまして」
茶色の髪の少女に促されれば、歩幅大きく、こちらに歩いてくる。
「『震え』の報告をしたロイレンです。普段はここで薬学と、それに伴う動植物に関する研究を。こちらは助手の、」
「ネイです。普段はこの人の揚げ足を取ったり、机の上に零れたコーヒーを拭いたりしてます」
「ジルで……だ。旅をしながら、剣の修行を」
「クラハと申します。剣術を教えてもらいながら、その旅の補助をしています」
明日からの調査に際してはどうぞよろしく、という調子で頭を下げ合いながら。
若い、と男――ロイレンを見て、クラハは思う。
自分やジルと比べても、というわけではないが、髭のない端正な細面ということを差し引いても、せいぜいが三十前後だろう。
ジルよりもさらに痩身で、しかし不健康に見えるかと問われれば、やはりそれほどでもない。
よく整えられた清潔な服装のためか、それとも単に手足の長く整っているのが印象を変えているのか。判断はしかねるがしかし、あらかじめ想像していたよりもずっと、理知的な雰囲気の強い容貌だった。
何でも、この若さで〈大魔導師〉候補に名を連ねるほどの人物だそうである。
南方樹海の動植物に関する図鑑の最新版について編纂を務め、さらに現地で採集した希少な原材料を栽培・飼育し、専門でもある薬学分野においてはそれらを活かして目覚ましい貢献を――と。
「ええと、」
そういう情報を、後でジルと共有しておこうと思っていると。
そのジルが、部屋の中を見回して言った。
「あとお一方いる、と聞いていたんだが」
「ああ。彼なら……」
ロイレンもまた、同じように視線を動かす。
しかしジルとは異なり彼は、ぴたりとある一点でそれを留めて、それ以上は動かなくなり、
「……ネイくん。彼、何分くらいやるって言ってましたっけ」
「二十分とか言ってた気がしますけど。引っ張ってきますか?」
目線の先は部屋の隅。入り口のそれよりもなお分厚い、重たげな扉があった。
簡素な造りではあるが、しかしそれだけに厳重な気配も漂っている。そして奇妙なことには、その表面に幾らかの歪みや凹みが見られる、そんな扉。
ご丁寧にもそこには、『実験室2 ※危険!!』とプレートがかかっている。
ちらり、とジルがこちらを横目で見た。
いいよな、という顔で。
だからクラハも、ジルを横目で見た。
いいですよね、という顔で。
「気にしないでくれ。どうせ挨拶だけのつもりだったから。明日の準備も色々忙しいだろうし」
「私たちはまた明日、改めて」
「いえ、多分彼が今やっているのはそういうものではないんです」
「そうですね。どうせ何の関係も――」
ないやつでしょう、と続くはずだっただろう言葉が。
掻き消えたのはこんな感じの、ものすごい音が響いたから。
ぼっかーん。
クラハは自分の視界が急に一色になった理由が、一瞬掴めなかった。けれど、何の色だろう、と思えばすぐに見当はつく。見慣れたジルの、服の色。庇われたのだ、ということがわかるまでに半秒。
「いってえ!!」
その声が響くまで、さらに一秒。
「おーい……。一体何を弄ってたんだ、君は」
「業務外だったらそれ、私は片付けるの手伝わないですからね」
呆れたようなロイレンとネイの叱責の声が聞こえてくるまで、もう二秒。
で、そこでようやく、クラハもジルの陰からひょいと顔を出してみれば。
何かが爆発した後のような惨状と、蝶番の外れて歪んだ扉が、床の上に寂しく横たわっている姿と……
三人目の姿が、そこにあった。
「いや君らね。まずオレを心配するところから始めなさいよ。か弱いんだから」
「どこがですか?」「『しぶとい』を絵に描いたような感じですけど」
肩まである真っ直ぐな金髪に、滑らかな褐色肌の、二十そこらだろう年の男。
いちち、と後頭部に手をやって、床に胡坐をかいて、けほけほと喉の奥にまで飛んだ煤を吐き出すように咳をする。
それから彼が、長い睫毛を上げてこちらを見れば、
「――ジル?」
ぽつり、と名は呼ばれた。
え、とクラハは驚いて、名を呼ばれた眼鏡の青年を見上げる。
彼もまた、驚いたように目を見張っていて、
「――――デューイ?」
不思議なことに、その名を。
クラハも、知っていた。
「おおっ、久しぶりだなオイ! なんだよ背も伸びてねえかってかお前聞いたぞあんだけ頑丈に作った――」
「なんか焦げ臭いんですけど、これ私の気のせいですか?」
「ばっ――デューイ! あの魔道具、煙を噴いてるぞ!」
部屋を燃やす気か、とロイレンが慌てて、『実験室2 ※危険!!』と書かれた扉の向こう――正確に言うのであればその扉は綺麗に吹っ飛んでしまったので今は『穴の向こう』と称するべきだけれど――に走り込んでいく。
消火器早く、とか。
植物が燃えないようにどかしますね、とか。
いやあ悪い悪い、本当に悪い、でも仕方ない、とか。
ここの扉直すんで後はふたりでお願いしていいですか、とか。
ちなみに、デューイというのは。
数ヶ月前に、このふたりが訪れて『長期休業中』を知る羽目になった眼鏡屋……というより、道具屋。その店主を務める、若き職人の名前でもあるけれど。
そんな形でぎゃーぎゃーと始まったのを、茫然と見ていれば、
「……なんか、忙しそうだし、」
その茫然にけりをつけるように、ジルが言う。
「今日は俺たちも、稽古したらすぐ寝て、明日に備えるか」
「……はい」
そうしましょう、と。
ふたり揃って踵を返して、仲良く「失礼しました」と囁き声を合わせて、扉を閉めて去っていく。
そんな感じが、最初の顔合わせで。
彼らの夏は、こんな形で始まった。