2-1 なぜ私たち人間がこの現世界に存在するのかっていうと
「ジ――」
ジルさん、と。
叫んでクラハは、駆け寄ろうとした。
目の前で起こったことを目にしたならば、当然の反応だったはずである。
唐突に、ジルが奇妙な景色を見つけた。
そしてその奇妙な景色の上に座る女に話しかければ、何やらよくわからないうちに魔法陣が光って、足を掴まれて、地面の中に引きずり込まれていた。
その一部始終を見れば、心配するのは全く当然のことで。
だからこそ、そこではた、と立ち止まることができたのは、彼女の判断能力があってこそのものだったのだと思う。
本当にそうなるだろうか、とクラハは考えた。
駆け寄る途中、名前を呼ぶその途中、足を止めて、こう考えたのだ。
仮に今のが何かの不意打ちだったとしたら、ジルは、竜殺しの剣士は、あれほど容易く引きずり込まれていってしまうだろうか。
反射神経と速度を武器に戦う、この世で一、二を争うだろう剣の使い手が。
本当にそんなに呆気なく、目の前から消えてしまうものだろうか。
そう思えば、後は早かった。
テラスの石畳の上を観察する。どこにも、ジルがこの場に留まろうとした痕跡が残されていない。掴んだ跡も何も。何の抵抗もなく、どころではない。彼が自ら身体の力を抜いて、されるがままになったとしか思えない。
それからは、ついさっきのジルと、目の前にいる藍色の髪の女性の会話を頭の中で反復して……不意に、顔を上げれば、
「手荒な歓迎ですまないな。どうしても、あの子たちがそうしたいと言ったものだから」
その女性――ウィラエは、こちらに。
表情の変化はあからさまなものではないけれど、しかし申し訳なさそうな様子で、語り掛けてくる。
あの子たち、という言葉にも。
もちろんクラハは、心当たりがあった。
「あの。ひょっとして、この魔法陣を敷いたのは」
「ああ。東国の〈魔鏡転移〉の話を聞いてから、自分でも開発してみたくなったらしくてね。流石に滅王の遺産と比べられるほど機能に優れたものではないし、様々な条件の縛りもあるが……」
とにかく、と彼女は。
ゆっくりと、今度はクラハのいるパラソルの椅子に腰を下ろして、
「こんなことの後ではなかなか信じてくれとは言い難いから、少しばかり自己紹介をしてから案内させてもらうとしよう。まだ、その飲み物も途中みたいだからな」
すいと長い指で差すのは、先ほど買ってきて、まだ自分の手の中で半分ほど残っているフルーツジュース。
クラハはそれと、彼女の顔を交互に眺めて。
気を遣われている、とわかったものだから。
いえ大丈夫ですすぐにでも後を追って――と言い募ろうとした。
のに。
「結構揺れるんだ。移動中に」
その言葉を咀嚼して。
急いで飲み干そうとカップを傾ければ、ウィラエは優しい口調で「勿体ないな。ゆっくり飲むといい」なんてことを言う。
「いえ、しかし」
「味わって飲まれた方が、作った人間だって嬉しいさ」
「…………はい」
さて何から話そうか、と彼女が呟けば、ニャア、とウミネコの鳴く声がする。
真っ青で真っ白な、夏の港だった。
†
一本釣りだった。
足首を掴まれて、吊るされたマグロのように天地上下が逆さまになっているのだから、まずそう言い切ってしまって何の問題もない。
そしてその足首を掴んでいる手の感触に、なんと驚くべきことに、ジルは心当たりがある。
「ジルくんって、見た目より重いねえ。あ、嫌な意味じゃないよ。金属製みたいでカッコイイよ。うん」
「……俺はどちらかと言うと、あなたに俺を宙吊りにできるような筋力があったことに衝撃を受けてる」
「わはは。私の身長は飾りではないのだ」
体勢としては、ちょうどその声に背を向けている形になる。
となると当然、視界自体は自由に利くわけで。だから周辺に何があるのか、一体いま自分がどこにいるのか。それを見極めようと、辺りに視線を走らせることくらいはできる。
部屋だった。
ついさっきまで、開放的な港のテラスにいたはずなのに。
大きな窓があって、陽射しが強く差し込んできている。窓の先にあるのは、とにかく緑。東の国を分け入って進んだときのそれとは違い、鬱蒼というイメージではない。明るい、夏の緑だ。
部屋はその緑色に少しだけ当てられて、しかし大半は白い色に染められている。滑らかな壁、床。それらは当然、日の光に当てられて灼けている。けれどその妙に整った印象と、その他、部屋の中にあるたくさんの金属製の書棚を見れば、何となくジルは、こんな印象を受ける。
研究室、と。
思ったところで、ぬっ、と視界に顔が飛び出してきた。
「やあ」
「…………よ。元気そうだな」
「もちろん、元気いっぱいだよ。こうして君にも会えたしね」
床から生えているがごとき状況のジルの目線に、高さを合わせるように。
それなりの身長を折り畳んで覗き込んでくる人物に、やはり驚くべきことに、ジルは心当たりがある。
紫色の髪に、銀河色の瞳。
それこそ星明かりのように整った、その容貌の持ち主。
魔法連盟に認められた七人の中でも最年少の大魔導師――最高難度迷宮を共に攻略した友人を。
ジルは、知っている。
「久しぶりだな――ユニス」
「ああ、久しぶり! 僕に会えなくて寂しかっただろう!」
満面の笑みで、そんなことを言われれば。
びっくりしたんだぞとか、何もいきなりこんなことしなくてもとか、そういう言葉は吹き飛んでしまって。
とりあえず、
「謎解き、楽しかったぞ。ちょっと消化不良なところもあったけど」
「そうだろう? せっかくだから再会までの演出には凝りたくてね。本当は八十八のヒントを仕込んであったんだけど、君、すごく答えに近いところを最初に見つけてしまったものだから――」
「ごめんねー、ふたりとも。この体勢のままで会話開始するの、お姉さんちょっと嫌かも」
おっとごめんね、とユニスが頷いた。
ごめんごめん、とジルも言ってから、「いや『ごめんごめん』ではないな」と気が付いた。
が、その気付きが言葉に変わる前に「下ろすね」との言葉が聞こえてきてしまうので。
ジルは床の上に手を突いて、「いいぞ」と一声かければ足首を放されて、逆立ちするようにして、さらにそこからくるりと足を落として、吊るされたマグロから人間に戻る。
すると、やはりそこにも、知った顔が立っている。
「ジルくんには言いづらいんだけどね……」
夏の日差しの中できらきらとその長い髪を輝かせる、何ならちょっと自発的に発光しているのではないかと思わせてくるくらいの、美しい人。
教会最高権威である四聖女の一人。
中央の街でのあの夜に、滅王の再封印を共にした友人。
リリリア。
彼女が、そこにいて、
「ジルくんは逆さ吊りにされてたから、この部屋が逆さまに見えてたんだ」
「うん」
「いきなりこんなこと言われても混乱するかもしれないけど……これからは、この部屋の正しい向きはこれだったって現実を受け入れて、懸命に生きていこうね」
「解説ありがとう。あんまり外見からはわからないかもしれないが、俺にも重力の感知機能はついてるんだ」
相変わらず、なんだか独特なことを言っていた。
さて、とジルは頭に上っていた血を下へと落とすように、眼鏡を押さえてふるふると頭を振る。それから、まずは一番気にしなくてはならないこと。
「クラハはどこに?」
「もちろん、後から来るよ。先生が今ごろ事情とか、転移の仕組みを説明してるんじゃないかな」
「ああ、先生ってあの」
ウィラエ、と名乗っていた女性。
なるほど、ユニスの魔法の師。年齢から見ても確かに違和感はないし、話し方のベースもちょっと似ているな、なんて納得をして。
「じゃあ心配はなさそ――待て。後からゆっくり来られるなら、なんで俺は説明なしでいきなり引きずり込まれたんだ」
「びっくりするかなと思って」
「『びっくりするかな』でやっていいのって後ろから脅かすとか、そのくらいだろ」
とんとん、とジルは後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、「ぶに」とリリリアの指に頬を突かれて、そのうえすごくいい笑顔で「ふふ」と微笑まれた。
たまには脅かされるのも健康に良いかもしれないな、とジルは思い直した。
学びは人を成長させることもある。ときに急速に。
「じゃあまあ、そのへんは流すとして……それでも訊くことが多すぎるな。何から訊いた方がいい?」
「まずは謎解きの問題作りに僕がどれだけの工夫を凝らしたのかを聞いてほしいな」
「すごく長くなるから夜になってから訊いた方がいいよ」
「アドバイスありがとう。それじゃあ、これから行くか」
ジルは言って、足元にある模様を指差した。
魔法陣。……それ以上のことは、乏しい魔法知識からは読み取れない。
「転移魔法陣だよ」
さらり、とユニスが言った。
「転移ってそんな、迷宮以外でできるやつなんだっけ」
「いや、できないよ」
「世界初だそうです」
だよな、とジルは確かめるように頷いた。
つい数ヶ月前に東国でその〈転移〉に苦しめられたことは、記憶に新しい。あのとき現地の魔導師たちと作戦の打ち合わせをする中で、現在〈転移〉は迷宮内でのみ可能、例外はあの外典魔鏡のみ――というような知識を、教えてもらったはずだから。
「……開発されたのか」
「したよ」「したそうです」
「そしてこんないたずらに使われたのか」
「大事なことだよ」「大事なことだそうです」
そんなに大事なことかな、と当然疑問は湧いたが、しかし専門外の領域のことはよくわからない。そうか、と一旦頷いてみれば、もう少し詳しい解説をふたりがしてくれた。
「完全に新しい魔法というわけじゃなく、迷宮で使われる踏破転移の応用だから、あまり実用的とは言えないよ。細かい必須条件が膨大で……でも、ちょうど港とここを繋げるのはできたから。移動時間の短縮に使ったんだ」
「この魔法、私とユニスくん、それからウィラエさんが揃っても結構魔力を持っていかれるから、あんまり気にしなくてもいいと思うよ。制御がすごく難しいのもそうだけど、個人的にはあんまり簡単に普及させるのも危ない技術だと思うし、しばらくはここだけの話、って感じかな」
「うん。先生を通じて魔法連盟預かりの技術にしてもらおうと思っているところだ」
ざっくりまとめると、ただの近道だからあんまり気にしなくていいよ、というようなこと。
だからジルはお言葉に甘えて、次の疑問に切り替えることにする。
「じゃあ、そもそもの話なんだが。ここはどこなんだ」
「難しい質問だね……」
「なぜ私たち人間がこの現世界に存在するのかっていうと……」
「そうだな。歴史の始まりから紐解いてもらって……」
「あっ、ジルも乗っかった」「収拾がつかないよ、どうするの」
どうすればいいんだろう、とジルも困り始めていた。
三人揃うと物理的な身体の位置のみならず話まで脇道に逸れていく。文通の終盤で異常な厚みになった手紙を見たチカノやイッカから「何をそんなに話すことがあんの……?」と怪訝な顔で見られた記憶が蘇る。
かといって自分ひとりだけが話の進行を担うのは負担がでかくて嫌だな、と思っていると、
「ん?」「あ、」「お、」
ジル、リリリア、ユニスの順番で。
それに気が付いて、視線は足元へ。
「おや。向こうで説明が終わったみたいだね。転移開始だ」
「こっちは何ひとつ終わってないのにな」
「ジルくん、もうちょっとこっちに寄って。ふたりが出にくいから」
了解、とリリリアに引き寄せられるがままに、光り出した魔法陣から離れて、ジルは。
クラハから教えてもらえばいいか、と。
思い浮かべば同時に、これでいいのか、と思わないでもない。