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1-1 大したことじゃありませんから



 ちょっと待ってな、と言ってジルが甲板から海に飛び降りていくのを、クラハは茫然と見過ごしてしまった。




「うわあ!」

「なんだ!?」

「人が落ちたぞ! 船員呼べ!」


 ざっぷーん、とものすごい飛沫が立ったし、甲板にはそれなりに人もいた。だからすぐに悲鳴も上がるし、どたばたと、慌ただしく騒ぎも起こり始める。


 しかし一部始終を見ていたクラハは、同じくそれを見ていた隣の親子とともに取り残されて、ただただ唖然とするほかない。


「あ、え……」

「おにいちゃん、」


 おちちゃった、と泣きそうな顔で母親の手を引く幼い子ども。彼の手には、小さな金属のチェーンが握られている。そしてよくよく見れば、それは壊れていること……留め金以外の場所で鎖が千切れて、だらりと垂れ下がっていることがわかる。


 クラハは、本来そのチェーンに通されていた『何か』が今、そこから抜け落ちているということが想像できる。

 だって、さっきまでジルと一緒に、そのことを聞いていたから。



 南の国へと向かう船の途中である。


 東の国の外れから、南の国の待ち合わせ場所に、海路で向かう途中。乗り込んでまだそれほど時間も経たない、昼の手前。「クラハって、船は初めてか?」「それなら折角だし、外に出て景色を見てみないか」「すごく綺麗だぞ」――ジルはそう言って、クラハを甲板まで連れ出した。


 色々なことに目を瞑ったり、考えごとから目を逸らしたりすれば、それは確かに美しい光景だった。


 青すぎる空。遥かに見上げる、お化けみたいに大きな入道雲。

 波は穏やかで、けれど照り付ける陽射しに白い光を跳ね返して、ときどきは虹だって見せてくれる。


 遮るものもなく吹き渡る風が、身体の感覚を失わせる。どこかに落ちていくような、それとも飛んでいくような、永遠に終わらない落下のような、飛翔のような――視線が遠くへ遠くへと旅するにつれて、地平線の向こうで空と海が音もなく溶け合っていく。



 この世には、どこにも果てなんてないように思えて。

 確かに、と。



 確かに自分はこういうものが見たくて、こういうことを感じたくて旅に出たのかもしれない、なんて。そんなことまで思わされるような、綺麗な景色で。だからクラハも、海風に揺れる髪を押さえながら、思わず素直に感慨に浸ってしまった。


 だからここまでは、全然良くて。



「あっ!」

 そのときに響いたのが、子どもの声だった。



 クラハは声がした方を見たし、その後の行動を考えるなら、おそらくジルもそうしたのだろう。自分たちの隣、甲板の縁のあたり、柵を掴みながらしゃがんでいる子どもと、その肩を抑える母親らしき大人の姿が目に入った。


「ペンダント!」

「ちょっと、危ないから!」


 母親の言う通り、やや危うげのある体勢だった。

 柵にはもちろん転落防止の機能もある……けれどその子どもはあまりにも小さかったから、何かの間違いでその隙間から転がり落ちてしまうことだってありえそうに思われた。


 しかし母親の制止を聞かないまま、彼は、


「でも、パパの!」

「新しいの買ってもらえばいいから! ほら、立ってこっち――、」


 そこまでが、クラハがちゃんと意識を鮮明に保てていた部分で。

 あとの流れは、もうわけがわからない。


 ジルが不意に、その子どもに近付いた。


 落としちゃったのか、と訊いた。

 うん、と子どもは突然に現れた眼鏡の青年に戸惑いながら、頷いた。


 大切なものなのか、と訊いた。

 うん、と子どもは深く深く、頷いた。


 そうか、とジルも頷いた。

 ちょっと待ってな、と言った。


 ざっぷーん。


 阿鼻叫喚だった。



「…………」


 ふらふらと、クラハは柵にもたれかかる。海を覗き込もうとしたのか、それとも何だかくらっと来てしまったがために支えを欲していたのか、自分でもよくわからない。


 わからないからとりあえずどっちもやってみることにして、しがみつきながら眼下を覗き込むと、すでにジルの飛び込んだ跡はどこにも見当たらなかった。当たり前の話で、船は進んでいるのだ。今頃船体の腹のあたりが、彼の着水したポイントを覆っていることだろう。


 だからなのだと思う。

 ざぶん、と船の真反対の方向で、さらに波音が聞こえてきたのは。


「おわあっ!」

「飛び魚か!?」

「半魚人の侵略か!?」


 だいたい最後の声で、何が起こったのかわかった。

 クラハはそのままの体勢で耳を澄ます。するといつもの声音で、こんなことを言っているのが聞こえてくる。


「……あれ? おかしいな、別の船か――」

「ジルさん! こっちです!」


 呼べば、すぐに顔を出した。

 どういう方法を使ったのだかわからないが、よほどの勢いでこの船に飛び乗ってきたらしい。船のもっとずっと奥の、こちらから見れば二階に相当するような場所から、彼は、


「お」

 びっしょびしょで、姿を現した。


 ひょい、とその二階からもジルは飛び降りる。一瞬ものすごい音がするかと身構えたけれど、そこは流石の体捌きで、まったく重さを感じさせずにすらりと着地する。


 こちらに歩いてきて。

 それから、子どもの前で屈みこんで。


 ぱ、と手を開けば。


「――僕の!」

「よかった。正解みたいだな」


 どうぞ、と彼はそれを子どもに手渡す。

 ありがとう、と子どもは大きな声で言って、さらに隣の母親も、驚くほど深く頭を下げて、ジルに礼を言う。


「すみません。すごく大事にしてるプレゼントで……あの、お礼を」

「いえ、お気になさらず。大したことじゃありませんから」


 少しは気にしてほしい、とクラハはちょっとだけ思った。

 もちろん、親子に対してではなく、それと向き合う青年に対して。


 子どもが手を振って、母親が何度も頭を下げて、船室へと戻っていく。

 ジルがそれに手を振って頭を下げるので、自然クラハも、隣で同じような動きをしばらくして。それからようやく集まってきた船員たちとなんだお前は不審なびしょ濡れ男め半魚人とはお前のことか――いや違う待て俺は密航者でも何でもなくてほらここにこうして切符だってあれ待ってくれ本当に切符はあるんだ嘘じゃない海に落としたのかも――なくさないように私が二枚とも持ってます――なんて話をして。


 お騒がせしてすみませんでしたとぺこぺこ頭を下げて、上げれば。

 ジルは。


「ごめんな。一緒にいただけで、とばっちり食らわせちゃって」

「…………」

「それから、呼んでくれてありがとう。上ってきたのにクラハがいないから、別の船に乗ったのかと思って焦ったよ」


 そこではない、とクラハは思う。

 が、そこではないとしたらどこなのだろう。自分に問いかけてみれば、そもそもいま目の前にあることではないのだ、とも思う。


 そう、強いて言うのであれば、引っかかったのは。


「あの、ジルさん」

「ん?」


 大したことじゃありませんから、とジルは言った。

 クラハはそれを、ごく最近に別の場面で聞いたことがある。


 全然大したことじゃないんだけど、と言って。

 とんでもない話をされた記憶がある。


 勇気を持って見上げれば、ジルはすっかりびしょ濡れだった。

 指摘すれば「夏だしすぐに乾くさ」とかそういうことをやたらな爽やかさで言われるんだろうな何も言わずに着替えを持ってきた方が――なんて思いながら、クラハはしかし、ほんの少し前の春をかけて両腕にめいっぱい抱え込んだ勇気で以て、肝心なことを口にしてみることにする。


「できれば、今度からは――」


 それは、つまり。





「今度からは前もって相談してもらえるように――えっと……もっと! もっと私も、ちゃんとします!」


 呪いで死にますとか、そういう滅茶苦茶な情報を後出しされたことにも関係する、意見表明なのだけど。






「……あっ、いや! 悪い! 全然そういう……いや、そういうアレじゃないっていうか、俺が考えなしなだけで全然! 全然その、頼りにしてないとかそういうのじゃないし、全面的に俺が悪いんだけど――」


 というかいつも頼りっぱなしで申し訳ないくらいで、なんて。

 ジルが可哀想になるくらいに焦った調子で、言うものだから。


 いえ全然全然、とクラハは返して。

 いや全然全然全然、とジルにはさらに返されて。




 夏空の抜けるような青色の下。

 言い合いはいつまでも終わらなくて、周囲の乗客たちからくすくす笑いを貰っているのに気恥ずかしくなって、肩を並べて黙り込んだりして。


 とりあえず、ふたりの調子は。




 一歩進んでまた迷走、とか。

 そんな感じで、順調に。



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