エピローグ-2 しょうがねえから
最後の日だから、というのが理由らしい。
驚くべきことに、門下生と教会と魔法連盟――あと、近所の人なんかも呼ばれまくったらしく。
途轍もなく目まぐるしい昼食会が、道場で開催されていた。
並べられたるは特上寿司。それらを食べるのもそこそこに、やがて、ジルは気付く。
チカノがいつの間にか、ふらっと消えていること。イッカは若手の門下生に囲まれて、たらふく食わされていること。クラハもここで知人友人ができたのだろう、彼の近くで、何人かと席を同じくして、談笑していること……。
そして、どういうわけかヴァルドフリードも、サミナトもいなくなっていて。
結果として自分ばかりが外典魔獣の騒動の立役者として囲まれていて……かつ、疲弊しつつあるということに。
というわけで、
「すみません、ちょっとお手洗いに……」
便利な言葉である。
ジルは、その場所を抜け出して。襖を閉めて、ふう、と一息ついて。
それから、こう呟く。
「……しまった」
ひとりで出てきたから。
このままどこかに行ってしまったら、もう二度と帰ってこられない可能性がある――そういうことに、気が付いて。
さてどうしたものか……何か目印になるものは、と全く無意味かつ無謀極まりない捜索に打って出ようとしたところ。
「…………?」
ちょいちょい、と。
向こうの廊下の端から……人の手が覗いて、手招きをしていることに、気が付いた。
すわ幽霊か、とは。
最近チカノからの純然な嫌がらせとして怪談を聞かされているがために、浮かんだ想像だけれど。
まさか真夏の真昼間からそんなことはないだろう、と。
楽観視して、その方向へ向かって行けば。
右に折れた先の、小さな部屋……その中から、また手招きがあって。
覗きこんでみれば。
「――サミナトさ……サミナト?」
「うむ。まあ、入ってくれ」
はあ、とジルは頷いて。
サミナトのいた使われていない部屋……その中に入る。そうすればサミナトは、すぐさま後ろ手にその障子戸を閉めて。
それから深々と、ジルに向かって礼をした。
「え、」
「改めて伝えておかねばと思ってな。このたびは、ジルくんのおかげで私も、引いては道場もこの町も、助かった。特にイッカは深く世話になったな。礼を言わせてもらう――ありがとう」
いいですよ、そんな、と。
思わず丁寧語を外すのも忘れて、ジルは言ってしまう。
いやいや、とサミナトは顔を上げて、快活に笑うと、
「当然のことだ。受け取ってくれ。……ああ、それから。滅王案件への協力という話、喜んで引き受けよう。と言っても、ほとんど寝ていたばかりの私では、力になると言ってもそこまで説得力はないかもしれないが」
「いえ。そんなことは全く。ぜひ頼りにさせてもらいたい」
「はは。若い子にそう言ってもらえるとまだまだと感じてくるな……ま、私はともかく、チカノも乗り気のようだから、その分は頼りになるはずだ」
「チカノが?」
へえ、とジルは意外に思って頷いた。
一緒にいた時間が長い割に、そんな話はまるでしなかったけれど……。
「あいつも、あれで存外義理堅い。……っと、あんまり言うと怒られてしまうからな。そのあたりは、そんなところとして、」
ジルくん、と。
サミナトはそこから、真剣な顔つきになって。
「――まだ事件は、終わっていないぞ」
「……ああ。そのとおりだと、俺も思う」
彼が言っているのは、と。
ジルには、わかっている。
確かに、外典魔鏡と外典魔獣、その両方を打ち倒して、この町には平和が戻ってきた。
けれど、外典魔鏡を町の中心に設置したのが誰なのか……そのことはいまだ、わかっていないのだ。
「四年前の竜――ヴァルドのやつが粉々にしたせいで、確かめるべくもないが。あれが本当に〈門の獣〉の一種だったとしたら、それほどの前から、この地でも計画が進んでいたことになる」
「再封印騒動で魔剣に乗っ取られていた人物へ、教会が聞き込みを行ったんだが、やはり何も知らないと……」
であれば、とサミナトは真摯な声色で。
「十分に気を付けることだ、ジルくん。これで三度も事件に巻き込まれたとなれば……偶然はすでに、因縁に変わっているやもしれん」
「ええ。……でも、そっちの方がかえって好都合な面もあるから」
サミナトは少しだけ、意表を突かれたような顔をしてから。
「……そうだったな。なかなか、難儀な宿命と運命を背負わされている」
「運命……」
「ん?」
「あ、いや。最近、似たようなことを言われたな、と思って」
ほう、とサミナトは面白そうに頷いて。
そういえば、とジルの目を見て言った。
「〈門の獣〉の全討伐で晴れるかと思ったが……目の呪いは、いまだ解けないままか」
「ええ。……師匠が言うには、絡まっているのではないかと」
「絡まっている……ああ。最初の、」
と、そこで。
一気にサミナトは、心配そうな顔つきになって、
「そういえば、君。まだクラハくんにその話は……」
「……いえ、あの。今すごく、楽しそうなので。もうちょっと時間を空けてからでもいいかなと」
「早めに言っておけ。時間が経てば経つほど、言いづらくなるぞ」
もうなってます、とは流石に言えなくて。
「はい、あの……善処します」
「ああ。善処した方がいい。……困ったことがあったらいつでもうちへ、と会話を締めようと思ったんだが、この流れだとなんだか変に聞こえてしまうな」
「いえ、それで締めてもらえるとすごく助かるんですが」
「……人間関係は、本来うちの専門外なんだが」
そんな風に、話しながら。
ジルは、こう思っている。
この人が元気になって、よかった。
†
「…………?」
ふとクラハは、食事の途中でジルがいなくなっていることに気が付いて。
たぶん大丈夫だろうけど、どこかで迷子になっていやしないかと心配になったから……その場を中座して、廊下に出てみた。
すると廊下の向こうの端から、袖だけが覗いて、手招きをしている。
怪しい。
そう思うから、踵を返そうとすれば。
「コワクナイヨ」
「あっ……」
それは、ヴァルドフリードの声だった。
なんだ、とクラハはてこてこ廊下を歩いて、彼のところへ向かう。
廊下を折れれば、すぐの部屋にヴァルドフリードが座っていて。
「ちょっと時間、いいか?」
と、話しかけてくる。
もちろん、問題なんかなかったから。
クラハは一瞬、その向かいに座ろうとして、
「……あ、あの。すみませんが、あまり正座が得意ではなく、途中で足を崩させてもらっても、」
「おう。俺も正座なんざこれっぽっちも出来ねえぜ。好きにしな」
失礼します、と頭を下げて。
クラハは、足を崩して向かい合う。
「まあそんなに身構えんな……ちょっとした面談だ。俺はしばらくここに残っからよ」
「はい、お聞きしています。こちらでサミナトさんと身体のリハビリに努めるとか……」
「そんな大したもんじゃねえよ。ジジイが年甲斐なく遊んでるだけだ。……んで、」
クラハ、と。
ヴァルドフリードは、真っ直ぐに名を呼んで。
「こういうの、あいつは訊かねえだろうから。一応俺から訊いとく。……剣を学んで、一端の冒険者になりてえらしいな」
「はい」
「何のために、冒険者になりてえんだ」
それは、と。
クラハは、少しだけ考える。
一言ではきっと、語り表せない。
自分がそうと決めた理由……それでもと続けた理由。そして今、そうなりたいと思う理由。それは、全て異なるもののはずだから。
でも、きっと。
これは変わらないことだと、思うから。
「広い世界に、出てみたかったんです。……漠然とした、理由ですが」
「…………そうか」
ヴァルドフリードは、深く目を瞑る。
目を開ければ、続けて。
「それじゃあ今、幸せか?」
「――――、」
やはりそれも、すぐには答えられないし。
答えていいのかも、迷ってしまう。
けれど、きっと――ヴァルドフリードは、ジルの師匠は。
真っ直ぐな答えを、受け入れてくれるはずだから。
「……正直に言うと、わかりません。今でもときどき、ひどい悪夢を見たり……自分が嫌になることは、あります」
「……そうか」
「でも、」
そう、言葉の先を口にすれば。
ヴァルドフリードの目は、大きく開いて。
「幸せになる途中にいるんじゃないかと……そう、思います。それが許されるのかもまだ、わかりませんけど」
思い浮かぶのは、この場所で出会ったたくさんの人々の顔と。
ありがとう、という言葉。
それは自分に向けられたものもあれば、自分が口にしたものもあって……そういう時間の全てが。
たぶん、その場所に繋がっているのではないかと。
今はそう、思っている。
「……心ってのはな」
ヴァルドフリードは、静かに唇を開く。
「思ったよりも、簡単に歪む。たとえば、誰からも評価されない状態で二年を過ごしたり、どうしようもない板挟みで半年を過ごしたり……。そういうことがあると、どんなに頭のいいやつでも、どっかおかしくなる。正しく物が、見れなくなる」
「…………っ、」
これは、自分のことだと。
クラハは、わかるから。
「自分のことが嫌いになる。やることなすこと全部ダメに見える。何でも自分のせいで、悪い結果に見えて、いいことなんか一個もなくて……時々そうやって、人が死ぬ」
「……はい」
「だから、自分がどこにいるかを、忘れんな」
きっぱりと。
しかしどこか、慈しみすら感じるような声音で……彼は、そう言った。
「幸せになる途中にいるってんだったら、生きてりゃそのうち、幸せになんだろ。自分がどこにいるかを、絶対に忘れんな。……孫弟子だからな。あんまり多くは教えねえ」
だけど、と。
「それだけは、よく覚えておけ」
「――はい!」
「よぉし、いい返事だ! 俺からの話はこれで終わ――、」
「……どうされましたか?」
「……いや。今、嫌なこと思い出しちまった」
なんだろう、と。
クラハが首を傾げていると、ヴァルドフリードは自分の大きな手で顔を押さえて、胡坐をかいた膝に肘を当てるように前かがみになりながら、
「……くそめんどくせえ。なんであいつこんな重要な……どういう神経してんだよ」
「…………? あ、あの。何かお困りのことが……?」
「いや。困るのはお前だ、クラハ」
「え゛」
驚いて、思わず変な声も出てしまえば。
いや全然お前は悪くねえんだが、とヴァルドフリードは前置きして。
「近いうちにな、あの小理屈小僧がお前にとんでもねえことを言う」
「と、とんでもない……!?」
「まあほんと、何で言わねえんだよって神経を疑うような話だから、びっくりしたらクラハ、『おめー頭おかしいんか!?』ってぶん殴っていいからな」
まさかそんなことはできるはずもないけれど。
そこまで言っていいようなことを、これから言われるのだと思うと。
「ど、ドキドキしてきました……!」
「生きてるって感じがすんな、おい。……やめやめ。今の話は言われるときまで忘れとけ。それはそれとして置いといて、」
一応、とヴァルドフリードは言って、
「なんか俺に、訊いときたいことはあるか?」
「……す、すみません。今ちょっと、混乱していて……すぐに考えます!」
「いや、思いつかねえならいいけどよ。俺は見送りも行かねえから、これで最後だしな。なんかあれば」
あれ、とクラハはそこで。
訊きたいことが、ちょうどできた。
「あ、えっと……。来られないんですか、見送り」
「ん? ああ。まあな。ここでクラハとの話は終わりにするつもりだし」
「ジルさんとは……」
「今更話すようなこともねえからな。あいつも別に、同じだろ」
そうだろうか。
クラハは心の中でだけ、疑問を浮かべている。
この二ヶ月少しの間、ジルはヴァルドフリードと話すときは砕けていて、とても楽しそうに見えたけれど……。
「そう、ですか」
しかし、そこはふたりの関係の話なのかもしれない。
師弟の連なりの末席に加え入れてはもらっているけれど、そこまで口出しする権利はないのではないか、そう思って口を噤めば。
「で、何もねえか? あいつに訊きてえけど訊けねえ……ってことでもいいぞ。見た目によらず、俺の口は岩のように固えからな」
そこまで言われては。
何かを訊いた方が、なんだかいいような気が、クラハもしてきて。
けれど――、
「――あ、」
「お。なんかあるか」
「あ、いえ。本当にその、」
わ、と。
思わずクラハは、目を伏せる。
口にしようとしたら……なんだか緊張で、涙が浮かんでしまいそうになったから。
ひょっとするとジルには一生訊けない……かもしれない。だから、ここで訊いた方がいいような、そんな気が、ええと、
「言ってみろ。変な質問だったら、笑ってやるから」
「――その、」
優しい言葉が、決め手となって。
たどたどしくそれを……、クラハは。
「どうして、ジルさんは、私を弟子にしてくれたんでしょうか」
言ってから。
ああ、しまった――『ダメだったことリスト』行きだと、クラハは強く思う。
だって、ヴァルドフリードにはこれは、関係がない。
いや知らねえと言われて終わる……そんな未来が、予想できてしまって。
けれど。
「似てるからじゃねえか」
ヴァルドフリードは、あっけらかんとして。
その質問に、答えてくれた。
「似てる……というのは」
「クラハと、あいつが。……ジルな」
「え……ええと、」
どのあたりが、と訊ねれば。
やはり大して考えた素振りもなく、彼は答えてくれる。
「真面目で、傷付いてて……変なとこ不器用で。そういう感じのところだろうな。放っとけなかったんだろ」
「に、似てる……?」
どうも、自分では。
まるで似ても似つかないような……雲泥の差があるような気がしてしまうのだけど。
本当に、そんなことがあるのだろうか。
実感が、まるで湧かなくて。
「……そ、そうなんですね」
「おう、そうだな」
とりあえず、そうして応えるのが精一杯。
「他には何もねえか?」
言われて、しかしそれを受け止めるまで、やはりもう少しかかる。
思考の整理が追い付かないから……もっと訊いた方がいいのかよくないのか、訊くならどんなことがいいのか、何か訊きたいことがあったっけ、そんな風にトントン拍子でぐるぐる迷走が始まって、
「ジルさんのこと、」
「ん?」
「どう、思ってるんですか」
言ってから口を押さえても、もう遅い。
口から放たれた言葉は、口の中には戻らない……しまった。さっきの見送りの件で思ったことがそのまま出てしまったし、これでは質問の流れもなんだかかんだか……と思っていると。
一瞬だけ驚いた顔をした、ヴァルドフリードが。
頬を搔きながら……バツの悪そうな顔で、答えてくれる。
「いやまあ……そうだな、さっきの質問に絡めて答えるなら、」
「こ、答えるなら」
訊いたからには興味を持たないとの精神。
クラハが無理くり前のめりになって相槌を打てば、さらにヴァルドフリードは居心地の悪そうな顔をして。
しかし。
それから不意に、力を抜いて、当たり前のような顔で。
こう、答えた。
「しょうがねえから、俺だけは一生こいつの味方でいてやるかって、そう思って弟子にした」
そんだけだよ、と言えば。
夏の光が、小さな部屋に差し込んでいる。