8-4 満開
「やっ、」
た、という言葉をイッカが言おうとしたのが、クラハにはわかった。
けれどそれが言えずに……ふらふらとその場に倒れ込んでしまう道理も、よくわかった。
だから、駆け寄って。
やりましたね、大丈夫ですか、と言おうと思ったのだけれど――、
「待て! まだ終わってねえ!!」
ヴァルドフリードの大声が響いた。
その言葉に、クラハの思考も回り出す――まだ終わっていない。一体何が?
〈門の獣〉は撃破した。〈十三門鬼〉も、ジルとチカノが当たってくれているのだ。きっと大丈夫。だとしたらあとは、決めていた手筈なら……、
「鏡だ! 外典魔鏡――そいつがまだ、割れてねえ!」
そうだ、と。
クラハは思い出す。外典魔鏡の破壊。すでに地脈からそれは解き放たれたはずだから、ヴァルドフリードの秘剣によって破壊してもらって、それで一件落着のはず――と。
それより先に、地響きが鳴った。
「うわあ!」
「ちょ、何――」
「離れろお前ら!! 上の奴らも今すぐ離脱だ! 動き出してる!!」
何がそれをもたらしたのかなど、誰に訊かなくともわかる。
誰の目にも明らかだったから。
「魔鏡が――!」
物見台の下でそれが――禍々しい波動を放ち始めている。
マズイ、と思えばすぐに、クラハは行動に出た。
「〈吹け、強く〉! ――手の空いている魔導師は手伝って! 物見台から人を下ろします!!」
魔法を駆使した緊急避難は、すぐに終わり。
だからこそ、犠牲者を出さずに済んだ。
「な――」
「うおっ!!」
カッ、と鏡が光る。
そしてその鏡面が割れ始めるのを見て――クラハはこの地響きの理由に、気が付いた。
虎の魔獣と、理屈は同じ。討ち取られるとわかったのなら、最後まで暴れまわる。このままでは魔鏡も、ジルたちの手によって割られるのを待つだけだから。
その魔力を解き放って。
最後の暴走を、行って。
それがいったい何かと言えば――、
「……おいおい」
「……嘘、」
ヴァルドフリードと、イッカが言うのに。
しかしクラハは、声も出せないほどに、驚愕している。
「ウォオオオオオオ!!!」
吼える声。
それは決して、ひとつのものではない。
そこにいたのは、〈門の獣〉――その未討伐の、残党たち。兎、馬、山羊、猿、鶏、犬、猪――七体の魔獣はどれもがやはり、先ほど討伐した虎には及ばないまでも、外典魔獣に相応しいだけの力を元々持っている。それらが恐らく、外典魔鏡が無理やり出現に関する枷を外したのだろう。一斉に姿を、現して。
しかも、それだけではない。
「で……」
「デカすぎんだろ、おい!!」
ヴァルドフリードが、叫んだとおり。
それらはジルがあらかじめ接敵し、報告していたものと比べて、数倍の大きさがある。
具体的に言うなら。
町のどこにいても、その頭が覗ける程度には。
そして、
「こっちに――中心に向かってきています!」
「あ、あんなの潰されちゃうよ!!」
中心にいる門下生たちを取り囲んでしまえば。
いとも容易く圧殺できる程度の、大きさが――。
「先生!」「どうすれば!!」
「慌てんじゃねえ――いや慌てろ! 全員俺の後ろに入れ! 迎え撃つ!」
「後ろってどっちさぁー!!」
ヴァルドフリードが指示を飛ばし、イッカを初めとして門下生たちが右往左往する中――クラハはそれらを目で捉え、
「出現場所が一方向だけ――魔鏡の効果は消えています! 見えているものを倒せば、それで問題ありません!」
「簡単に言ってくれるよなあ、孫弟子! どっちを背にすりゃいい!」
「それは――、」
考える手間は、ほとんど要らなかった。
作戦会議の時点で魔獣のこれまでの出現位置は全て頭の中に入っている。すでに討伐済みなのは鼠、牛、虎、蛇、竜の五種。これらはそれぞれ北、北北東、東北東、東南東、南南東の位置を占めていたはずだから――と。
「東側を背にすれば――」
「ダメだ!!」
叫んだのは、イッカで。
きっと彼も――作戦を立てるのにたくさん手伝ってくれたから、クラハと同じことを考えて、同じ結論に辿り着いて。
その上で、それを見たから。
すぐに、叫べたのだと思う。
「先生、東から先に――」
まだ遠間にいるはずだった、兎。
それが今、地盤を沈下させるような勢いで、大きくその両足を踏み込んで。
彼らのいる場所へと、一息の跳躍を。
「――マズ、」
兎の巨体が、月を隠す。
反応できたのは、ほんの数人で。クラハとイッカはしかし、もはやこれほどの魔獣を相手に通せる火力の持ち合わせがなく。
一方で、ヴァルドフリードは。
その秘剣を以てすれば両断も容易であろうに――しかし一瞬、痛みに呻くような声とともに腰を曲げて、僅かな遅れを生んでしまって。
だから、それは。
その魔獣は――そのまま、空中で。
「――――〈破魔礼閃蒼〉」
あまりにも、滑らかな。
真っ蒼な刃によって、両断された。
どう、と兎の骸が落ちてくる。
その衝撃は、大きさが大きさだけに途轍もないもので――それどころか西側からいまだ健在の〈門の獣〉たちが迫ってきていることを考えれば、本来動揺こそあれ、その他の感情など入る隙間はどこにもなかったはずだけれど。
だけれども。
「――まだ夜明け前だぜ、オイ。爺の早起きか?」
ヴァルドフリードが、口の端を釣り上げて。
「馬鹿を言うな。私の早起きはそんじょそこらの爺とは年季の入り方が違う」
特別製だ、とその蒼い刃の主も、笑って応えれば。
「さ……っ」
イッカが。
それだけではなく、門下生たち、全員が。
その蒼い刃――〈十三門鬼〉が討ち果たされたことで眠りから覚め、たったいま駆け付けてきた、長髪の剣士を。
彼を今、見ている。
「サミナト先生!!」
「うむ。……皆、心配をかけた。そして、よく頑張ってくれた! 礼を言う――おかげでこのとおりだ!」
にわかに、戦場は湧き立った。
たったひとりの剣士が帰還しただけで――もはやこれからの道に負けはないと、誰もが確信し。
そして、また。
これから起こることはもう、その確信どおりのものと言って、何らの差し支えもなかった。
「どれ、最後くらい仲間に入れてもらうとしよう――まだ動ける者は、私に続け! 折角だ、ここからは無傷で討ち取るぞ!!」
「はい!!」「隊列組め!」「気合入れていくぞ!」
「てんめえ……。最後の最後で美味しいところだけ持っていきやがって」
「悔しければお前も来い、ヴァルド。久しぶりに腕比べでもするか。負けの言い訳はもうその腰があるんだから、気楽なものだろう」
「魔獣にやられてまんまとおねんねくんが言うじゃねえか。圧敗のショックでもっぺん昏睡させてやる」
望むところだ、なんて。
憎まれ口を叩き合ういい年の大人たちが、まだ元気のある門下生たちを引き連れて駆けていくのを、クラハは茫然と見つめながら。
どうも、と思っている。
あれだけ絶望的と思えた状況は……たったの一瞬で、覆されてしまったらしい、と。
「クラハさん! 僕、先生と行ってくるね!!」
「あ、はい――あ、イッカさん! 無茶しちゃダメですよ!!」
わかってるってー!と聞いているんだか聞いていないんだか、よくわからないような能天気な返事を、イッカは振り向くこともないままにして。サミナトに追いついて、何事かを言われて、ほとんど泣き出してしまいかねないくらいの勢いで、彼は笑って。
それが見えなくなって、ようやく、肩から力が抜けてくれば。
「――クラハ。これ、何があった?」
「わ、」
後ろから、急に声をかけられて。
振り向くと……そこには、当たり前のように。
「ジルさん! ご無事でしたか!!」
「ああ、クラハも無事で何よりだ。……チカノが動くのに合わせて戻ってきてたんだけど、途中からわけわかんなくなってな。とりあえず魔法陣の直線だけ辿ってたら、ちょうどここまで来たもんだから」
ああ、とクラハは頷いた。
この場所から山へと……〈呼応深山〉として活用した山までの道は、魔法陣による目印のついた一本道。いくらジルでも、それを辿ればここまで戻ってくることはできる、と。
かくかくしかじか、と今あったことを、クラハはジルに説明して。
途中からわけわかんなくなったというのはおそらく、南西方向から戻るチカノが、途中で〈門の獣〉と接敵して戦闘に入ったのだろう、という憶測も伝えれば。
そうか、とジルは頷いて。
それから、うん、と背伸びをした。
「じゃあ、俺は万が一に備えてこっちの方を手伝おうかな。怪我人とか、疲労した人たちで撤退だろ?」
「あ、はい。その予定です」
「よし。それじゃ、あっちは張り切ってるみたいだから心配要らないだろうし、こっちはこっちでのんびり――」
「……?」
じっ、と。
ジルが話の途中で、こちらを見つめてきたので。
一体なんだろう、顔に何かついているのだろうか……とクラハが不思議に思って、そのあたりを手のひらで触ってみれば。
ふ、と淡い感触がして。
取って見れば、それは。
「……花びら?」
おおっ、とどよめく声が上がったのは、その瞬間のこと。
クラハもジルも、釣られてその声を上げた人々の方を見る。そして彼らが皆一様に同じ方向を見つめていることがわかれば、さらに視線は動き――、
「――山桜か」
「――すごい、満開……」
東の国の、小さな町のことだった。
その町は周囲を山に囲まれていた。それも、ただの山ではなく、息吹を待つ山。外典魔鏡からの抑圧によって、ずっと蕾の中で、息を潜めていた……そんな山に囲まれた、小さな町。
それに、今。
馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうほどの春が、少し遅れてやってきて。
山も笑っている、としか。
表せないほど鮮やかな爛漫が、夜を照らして一斉に。
しばし、ふたりは他の人々とともに、それに見惚れて。
それから不意に、ジルが。
「……どうせなら、全部終わってからがいいかなと思ったんだけど」
「えっ、あっ、はい!」
「あ、ごめん。折角見てたところに割り込んで」
「いえっ! 全然、大丈夫です! なんでしょうっ」
背筋をピンとクラハが伸ばせば。
しかしジルは、ちょっと困ったように笑って。
なんだかこんな雰囲気だし今やっちゃうか、と言って。
「ヘイ、」
と。
その右手を、肩の前に掲げてくれた。
当然クラハは、その動きの意味がわからないわけもなく。
けれどこんな形で来るとは思わなかったので、咄嗟に。
「――……よ、よろしくお願いします!」
両手を。
顔の前に、差し出した。
で、ジルがやってくれる前に、気が付いて。
「あっ、違――私から……あ、というかすみません! なぜ両手で!」
「いや、大丈夫。全然その……」
どっちでもいいんじゃないか、と。
ふ、と彼は微笑んで、
「――よし。折角だから両手にしよう! クラハも俺も頑張ったし、二倍ってことで」
「は、はい!」
「それじゃあ行くぞ……」
せーの、とジルは、合図なんかをしちゃったりして。
後には不器用で、優しい音と、声がふたつ。
ぺち。
いえい。