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2-3 五分もかからない



「……人?」

「あ、はい。人です」


 人だった。


 薄らぼんやりとしか見えない……なんだか白くて細長いものがいきなり出てきたくらいにしかジルには捉えられなかったし、てっきり真っ白い花でも咲かせた植物系の魔獣が自分に攻撃を仕掛けに来たのかと思った。


 だから剣を抜こうとして――しかしそれより先に「おわ」とその白いのが言うのを聞いたので、かろうじて手を止めることができた。


「というか、人以外に見えますか? ちょっとショックなんですが……」

「ああいや、申し訳ない。眼鏡をなくしたもんだから、よく見えなくて」

「そうなんですか。それじゃあ、この指。何本に見えてます?」

「三十八」

「あらま。結構眼鏡がなくて困ってる感じですね」


 ちなみに正解は四本です、と女は言った。


 そう、それは穏やかな……女の声だった。



 いったいどういうことだ、とジルは思う。

 まだ、警戒は解いていない。


 曲がりなりにも最高難度迷宮だ。普通の人間が入ってこられる場所ではない。Sランク冒険者たちだって、すべての人員を取り揃えて十分な準備をしなければ、とても中には踏み込んでこられないはずだ。


 それが、どうもこの目の前の人物はたった一人でこの場所にいるように思える。

 少しだけ目を瞑って辺りの気配を探る……しかし、精々が五十歩行った先に魔獣の吐息が聞こえる程度。


 たった一人で、この迷宮に入ってきた女。

 魔獣は言葉を話さない――だから、少なくとも迷宮の用意した罠ということはないと思うが。


 得体が知れない。


 だからジルは目の前の彼女から、注意を逸らせずにいた。


「あー……。なるほど、これかあ」


 が、女の方はそうではないらしい。

 ジルにはまるで頓着しないとでも言いたげに、背中を向けて、地面の上に屈みこんだ。無防備な背中――たぶん背中なんじゃないかと思う――いつでもこちらの必殺が通る、そんな姿勢。


 少なくともこちらに対して敵意はないのだろうか。

 慎重に思考しながら、さらにジルは訊ねる。


「これ、っていうのは?」

「この床にある……靴の裏で触ってもらえればわかると思うんですけど」


 ほら、と手招きしているように見えなくもない。

 訝しがりながらも、まあどうせこれ以上悪くなることもないか、罠だったら発動してからジャンプして避ければいい話だしな、とジルは彼女に導かれるがままに、それに擦り切れた靴裏で触れた。


「……溝……?」

「魔法陣じゃないかなあと思うんですけど、どうですか?」

「どうですか、って言われても。純剣士なので何とも……」

「たぶん、これで跳ばされてきちゃったんですね。私、ここまで」


 話が見えてきた。


「もしかして、この迷宮の攻略に?」

「そうです。教会の人たちに連れられて」

「それでもしかして、たった一人でこの場所まで迷い込んだ?」

「そのとおりですー」

「仲間だ!」


 ウホホ、と歓喜の舞を披露しそうになった。

 が、かろうじて残っていた理性が、彼のその恥さらしアクションをギリギリで引き留めた。もう三日ほど目の前の彼女と出会うのが遅かったら、おそらく完全に精神が野性に帰りきって、躊躇うこともなかったはずである。間一髪だった。


「そうか……。あなたも、いきなり階層主との戦闘中に仲間から背中を刺されたんだな。同情するよ」

「いや、違いますけど……。何の話ですか? たぶん私は転移罠にかかっただけだと思います。詳しくないですけど、あるんでしょう? 前に冒険小説で読んだことがあります」

「え、ああ。そうなんだ……」

「なんで意気消沈してるんですか」


 というか失礼な、と彼女はむすっとした声を出す。

「私と一緒に来た聖騎士団はちゃんとお仕事してくれましたよ。今まで到達した人のいなかった第四層とかいうところまで連れて行ってくれて……。私が鈍くさくて、一人だけ罠を踏んじゃったみたいですけど」

「聖騎士団?」


 その言葉をジルは拾って、


「冒険者じゃないのか?」

「いえ。……話していいのかな。……話しちゃうか。実はですね。ここには私たち、調査に来たんです」

「迷宮のか」

「そうです。三ヶ月ほど前に、このあたりで強烈な……禍々しい空気を感じたと、口々に教会幹部の方々が仰って。私はそのときお昼ご飯を食べ過ぎて寝込んでいたのでよく知らないんですが」


 道理で背が高いわけだ、と思いながらジルは頷く。

 目の前のシルエットや声の出てくる場所から察するに、目の前の彼女の身長は自分よりはやや低いが、しかし女性の平均よりもだいぶ高いように思われる。よく食べてよく伸びたのだろう。


「なるほどな……。ところで、いきなり図々しいお願いなんだが」

「なんでしょう」

「教会所属なら、衛生魔法を使えたりしないか? ……その、見てのとおり雨の日の野良犬みたいな有様だから、できればかけてもらえると……」

「そう言ってもらえるのを待っていました」


 にっこり、という声色で彼女は言った。


「私から言い出そうか迷っていたんです。ドブ沼のヘドロみたいな悪臭を放っていたので」

「ドブ沼のヘドロ」

「はい。ドブ沼のヘドロです。あ、でもあんまり気に病まないでください。誰だって、こんな場所で彷徨っていたらドブ沼のヘドロになっちゃうに決まってるんですから。自然なことですよ。ドブ沼のヘドロは……」


 心の表面に若干の引っかき傷をつけられながらも、「お願いします」とジルは頭を下げた。「お安い御用です」と彼女は言って、ぺたりと彼の腕のあたりに触れると、魔法をかけた。


 ぱあ、とジルの視界に真っ白い光が広がる。

 それが消えれば、自分の鼻先に常についてきていた臭いも、綺麗さっぱり失せている。


「はい、綺麗になりました。かっこいいですよ」

「ありがとう。助かった……」


 感謝を述べながら、実は頭の中で、ジルは計算をしていた。


 間違いない、と考えている。たかが衛生魔法とはいえ、その効果にはもちろん魔法の腕が出る。三ヶ月以上を野で暮らしていた自分の汚れを瞬く間に落とせるとなれば、かなり高位の使い手であることは間違いない。


 教会関係者だということは、嘘ではなさそうだ。

 素性の確かではない相手から魔法をかけられるというのは間違いなくリスクだったが、それを背負うに見合うだけの情報は得られた。


 信頼を預けてもよさそうな相手らしい。


「――っと」


 そのとき、風を感じてジルは剣を抜いた。

 抜刀から納刀までの間を、未熟な戦士であれば肉眼で捉えられもしない。高速の剣技。それが、死角から飛び掛かってきた魔獣を裂いた。


 以前よりも剣技も、感覚も研ぎ澄まされている。

 そのことがジル自身、よくわかる。


「すごいですね、今の」

 感心したように、女が言った。


「聖騎士の人たちより……強い、のかな? なんだかもっとみんなは手間取ったような……」


 これだけが頼りだから、と応えながら、ジルは辺りの気配を探る。

 まだいくらか、自分たちを狙っている魔獣たちがいる。


「とりあえず、少し落ち着いた場所で話そう。俺の普段使ってるセーフエリアがあるからそこに……って、初対面だから、信用しづらいかもしれないけど」

「いえいえ。いいですよー。連れてってください。ぜひぜひ」

「……?」


 思いのほか女の反応がいいことにジルは疑問を覚えたが、しかし彼女の気が変わらないうちに、と先導して歩き出すことに決めた。


「ここからすぐだから。五分もかからない」


 五時間後に着いた。




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