8-1 健闘を祈る
「なんつーか……ヤキが回ったな。俺たちも」
真っ白な月明かりが、真っ青な夜に差し込む部屋。
座る一人の男が、横たわる一人の男に、語り掛けている。
片方は、目を開けて。
もう片方は、目を瞑ったまま。
「〈無双怪腕〉だの〈東国一刀〉だの呼ばれてキャーキャー言われてたのが、今じゃ腰痛に寝た切りだぜ? まるっきりジジイの末路だな、こりゃ」
自嘲するように、座る男は笑う……表情には寂しさとも、郷愁ともつかない感情を浮かべながら。
とん、と。
眠る男にかけられた布団の上――そこに、無骨な手を置いた。
「力も命も、なくなるときゃ一瞬か。ガキの頃は『最強のオレ様』が永遠に続くもんだと思ったが……」
どうも俺たちはそうじゃねえらしい、と。
乾いた唇で、男は口にして。
「――――でもよ、」
にっ、と。
自らの言葉を、笑い飛ばした。
「面白えよな。ミジンコみてえだったチビガキどもが、今じゃ一端の口を利きやがる。俺やお前が衰えても、平気な顔してチャンバラしてよ。……他人の成長なんざアテにして酒を飲むのはジジイババアの悪癖だと思っちゃいたが、なかなかどうして、年食って悪癖七つとはよく言ったもんだ」
どうれ、と男は立ち上がる。
勢いよく……しかし一瞬、痛みに顔を顰めるようにして、それでもそれを、長く留め置くことはなく。
眠る男を見下ろして、言う。
「ちっとばっかし、おめーのことが羨ましいぜ。弟子に何でもかんでも任せていい気で寝てられるってのは、どんな気分だ?」
もちろん、それに答えが返ってくることはなく。
一秒、二秒――ただ見つめるだけの、時間が過ぎて。
「……ま、いいや」
男は、背を向ける。
「因縁もあるらしいしな――精々、年甲斐もなくガキどもの仲間に入れてもらってくるとするぜ」
羨ましいだろ、と。
一言残して、障子戸は閉められる。
眠る男の指先が。
かすかに、動いた。
†
とんとん、と身体の調子を確かめるように、ジルは地面の上で何度か跳ねた。
物見台の下。作戦の中心と始点はここ。松明と魔法石の灯りがゆらゆらと混ぜこぜに照らしつける夜の中で、数十人が気を張って、忙しなく行き交っている。
見上げれば、夜天には雲一つ見当たらず、月と星ばかりが輝いている。
こればかりは純然たる偶然だけれど、いかにも景気が良い――その上、ここ数日は上手いこと当番業務もなくなっていたから、体調も万全で。
申し分なく。
だからこそ、数日前の思いが、しみじみと浮かび上がってくる。
どうしてもっと早く――――、
「おう、相変わらず辛気臭え顔してんな、ガキ!」
「い――っ!」
どつかれて吹っ飛んだ。
ものすごい勢いで。
しかもそれがちょうど跳躍していた瞬間に合わせられた張り手だったものだから……なんと自分の身長の倍ほどの距離を。
振り向くまでもなく、わかる。
こういうことをしてくるやつは、ひとりしかいない。
「…………おい、中年!」
「無礼者。ナイスミドルと呼べ」
ヴァルドフリード。
己の師匠で――かつ、どうしようもなく大人げないおっさん。
そいつの顔しか思い浮かばないし。
実際、振り向いたらやっぱり、案の定だった。
「人が真剣に考えこんでるときにいつもいつも……!」
「真剣にしょうもねえことを考えこんでんだろ? 無駄な時間じゃねえか」
「んな――っ、」
まあ、実際。
今考えることだろうか、と思わないでもなかったけれど。
がっ、とヴァルドフリードは。
やたらにぶっとい腕を、こちらの首にかけてきて。
「チカノの方はすっげえ集中してると思ったら……理屈坊やは今日も悩み事が絶好調か? ん?」
「……そっちは悩み事がなさそうで、大変羨ましいな」
「だろ。このカラッとしたところが男前の秘訣だぜ」
嫌みで言ってるんだよ、とジルが言えば。
嫌みになってねえんだよ、とヴァルドフリードが返す。
その姿勢のまま、彼は小さな声で。
「ま、そんな気負うな」
「…………」
「竜殺しだの再封印者だの持ち上げられちゃあいるが、おめーは所詮、人ひとりとお喋りすんのもやっとの不器用小僧だよ。完璧にやろうと思うな。うじうじすんな。くよくよすんな」
「……ああ」
「小うるせー理屈をこねるな。俺に従順であれ。口答えすんな。常に俺を尊敬しろ」
「どさくさに紛れて関係ないことを要求するな!」
どす、とジルはヴァルドフリードの脇腹に、裏拳を叩き込めば。
ガハハ効かねえ、としかし彼は、それを意にも介さず、
「精々そうやってでけえ声出して暴れとけ。二十歳なんざ、ようやく掴まり歩きを卒業したガキみてえなもんだ。好き放題やってるくらいでちょうどいいんだよ」
「…………好き放題暴れる、というのは周りの迷惑を考えるといかがなものかと思うが」
ジルは、眼鏡のブリッジをくい、と押し込みながら。
「アドバイスは、ありがたく受け取っておく」
「…………ほんっと、かわいくねーガキ……。ここまで来るともはやグロだな」
「誰がグロだ」
「ジルさん!」
ものすごくタイミングよく。
近くを通りがかったクラハが、こちらに声をかけてきた。
「何か今、足りないものとか……あの。ヴァルドフリードさんは、どうして四つん這いで……?」
「で、弟子からもグロ扱いされてやんの、プププ……」
「気にしないでくれ。もうこのおっさんも年だからな。頭の中で好き勝手に物事を繋げては、ひとりで腹を抱えて笑うフェーズに入ってしまったんだ」
「は、はあ……」
戸惑うクラハにジルは、
「っと。それはともかく、足りないものか。とりあえず大丈夫だと思うぞ。剣もあるし、眼鏡もあるし」
「服は着てんのか?」
「着てなかったら大問題だろ、野人か俺は。……で、このとおり、魔法連盟の人たちにつけてもらった靴裏も、ちゃんとしてるしな」
ほら、と見せ付ける。
ブーツの裏側……少し砂に汚れてはいるけど、溝として彫られているから、はっきりと読み取れる。
魔法陣。
「そうですか。よかったです。……あの、」
「うん?」
「……あ、ええと、」
何かを言おうとしているな、とジルは思った。
が、クラハの中で何かそれを口にすることに葛藤があって、躊躇っているのだろうな、とも思い。
そのまま、のんびり待っていると。
「わ、私から言われるまでもないというか、その、そんな感じのことなんですけど……が、頑張ってください!」
「ああ、ありがとう。クラハも……あ、いや。その前に準備を色々手伝ってくれてありがとう。それから……」
「おめーらそんな複雑骨折みてーな会話してて嫌にならねえのか?」
ヴァルドフリードから、呆れたように口を挟まれて。
うるさいな、とジルは応える。
「色々あるんだよ、こっちは」
「色々作り出してるだけだろ……ほれ、そっちの孫弟子も」
「は、はい!」
「他にも言いたいことがあんなら、もう、スパッといっとけ、スパッと。スパッといけばいくほどお前の今日の戦闘運は吉と出るぜ。切れ味ヨシだ」
え、とクラハが驚いて。
おい俺はともかくクラハに適当なことを――とジルが諫めようとしたところ、
「あの、私も!」
急に、大きな声で。
クラハが、言った。
「頑張ります……! できる限りのことを、やってみます!」
ジルは一瞬、目を丸くする。
そうか、と。クラハは『自分も頑張る』という自己主張すら、今、何も言わなければ心の中に押し込めてしまっていたのか――、と。
げに難しきは人間関係。
お互いがお互いを、違う風に見ている。またその間を繋ぐ関係の糸も、結び目のこっちとそっちで、まるで違うように映ってしまう。そして相手の見ている景色を直接共有することは、決してできず。
だからこそ、そう。
だからこそ、この町に来るまでの間に危惧していたようなことが悩みとして生まれ、そしてきっと、まだ今も、これからもあるのだけれど――、
それでも、今日、この時は。
そう、言ってもらえたから。
「――ああ。そっちも、健闘を祈る!」
「はい!」
見つめ合って、頷き合って。
お互いが、お互いのことを思い合って。
それから、そう時間を待たずして。
「――〈網〉にかかった」
ヴァルドフリードが、そう告げた。
カンカンカンカン、と鐘が鳴る。
それはもちろん、戦闘開始の合図で。
ジルは――少し離れた場所にいるチカノに、目線を送る。
彼女も頷き返してくると、先んじて南西方面へと走っていく。
「クラハさん! 一緒に行こ!」
「イッカさん――はい!」
駆けつけてきたイッカに、クラハもまた、連れられていく。
ジルは、ほんのわずかな時間だけ、チカノから出遅れて行くのが取り決めだったから。
だからしばし――慌ただしく周囲が動き始める中、ヴァルドフリードとまた、ふたりになって。
「――師匠も、」
一応、と。
いくら相手が相手とはいえ、この状況で言ってやらないというのも、ちょっと可哀想かなと思うから。
まあ一応、言っておいてやった方がいいのかもな、うん。
というくらいの、気持ちで。
「……まあ、頑張ったらいいんじゃないか」
「嫌だね」
「はあ!?」
「冗談だよ」
ぽん、と。
やたらに大きな手のひらを、頭の上に乗せられて。
反対に、こう言われてしまう。
「頑張ってこい、ジル」
「……言われなくても!」
かわいくねー、と笑うヴァルドフリードに、背を向けて。
ジルは北東方向へ――一目散に、走り出す。
道筋は。
今、目の前に輝く魔法陣が、教えてくれている。