7-4 〈追い風〉
その日は夢を、見ないまま。
目覚めればすっかり、夜は更けていた。
「っ、寝過ごし――っ、」
バッ、と布団から飛び起きれば。
そのときひらひらと、一枚の紙が、畳の上に落ちていく。
なんだろう、と焦る気持ちのままそれを引っ掴めば、青暗い夜の中、こんな文字が月明かりに照らされている。
『焦らないで、ゆっくり眠っていてください』
それは、もうこの数週間ですっかり見慣れた、ジルの字で。
ああ、そういえば……と。寝る前のことを思い出す。
結局、あのあと。
もう今日のところは、疲れているから眠ってしまおうと、四人で決めて。
隣同士の部屋の前で、別れる寸前。
ジルが、この紙を手渡してくれた。
「起きたとき、この紙があったら『寝過ごしたかも』とか、焦らなくていいだろ。寝起きが悪くて、色々吹っ飛んじゃってたとしてもさ」
結局、そそっかしさのあまり、自分は飛び起きてしまったけれど。
その紙を見れば少しだけ、心が落ち着いて。
自分は今、休んでいても、よかったのだと。
クラハは久しぶりに――そう、素直に思えた。
春の虫が、障子戸の向こうで鳴いている。
いまだ山の花のひとつも咲かない春だけれど……それでも、生きているものの声が、やわらかく響いていた。
しばらく、クラハはそれに聞き惚れてから。
不意に、自分が空腹であるということに、気が付いた。
「……そっか。昨日から何も食べてないから……」
明け方に帰ってきてからは、とても何かを食べられるような余裕はなかったし。
それからの眠りの間、一度も目を覚まさなかったものだから。
少しだけ、考える。
何か食べ物をと起きていって、誰かに迷惑をかけたりしないだろうか、と。
「…………うん」
ひとつだけ、頷いて。
考えた上でクラハは、食べ物を貰いに行くことに、決めた。
少しだけ、夜は肌寒い。一枚上着を多めに羽織ってから、そっと、誰かを起こさないように障子戸を開けて、廊下に出る。
「あ――、」
すると、隣の部屋。
ジルの部屋から、橙色の灯りが、ほうっと洩れ出ていた。
またクラハは、少しだけ迷う。
でもきっと……ジルならきっと、ひとりで起き出しても、ご飯のある場所がわからないとかそういう理由で、何も食べずにいることもあるだろうからと。
そんなことを、言い訳にして。
とんとん、と。
勇気を出して、戸を叩いた。
「はーい。どうぞ」
「失礼します」
「お、」
すす、と戸を開けると、あぐらをかいて机に向かっていたジルが、くるりとこちらを向いてくれる。暖かな灯りに大きな影を襖に映して、彼は微笑んだ。
「起きたか。ぐっすり眠れたな」
すみません、と反射的に声に出そうになる。
けれどそれを、ぐっと飲みこんで。
「……はい。あの、おかげさまで」
「よかった。体調はどうだ?」
「すっかり良くなりました」
「本当か?」
「…………本当、だと思います」
ジルは少し、冗談めかして訊いてくれたけれど。
確かに今までの自分だったら、もし体調が悪かったとしても本当のことはいわなかっただろう……そんなことも、クラハは思う。
「ただ、魔力切れのあとの疲労は、身体のそれよりわかりづらくて……。体感では、大丈夫だと思うんですが」
「そっか。ありがとう。正直に答えてくれて」
はい、と応えれば。
ジルはにこにこと笑って、その言葉も受け入れてくれる。
ぼんやりと、まだ眠気が残っていた。
だからクラハは、ジルのその顔を、何とはなしに見つめ続けて……随分、長く笑ってくれているなあなんてことを、そのぼんやりした頭で考えていて。
あ、と気付いた。
いま彼は、「何か用か?」と訪問してきた理由を訊くかどうか、迷っている状態なのだ、と。
「あ、あの!」
「あ、ああ」
「おなか、空いたので。何かもらいに、ジルさんもどうかな、と」
舌が絡まって、なんだか幼い言葉遣いになってしまう。
ダメだったことリスト……その言葉が、浮かんでくるけれど。
ジルはきっと、そのことには気付かないでいてくれて。
「声、かけてくれたのか。ありがとう。一緒に連れてってもらってもいいか?」
「はい。もちろんです」
代わりに、クラハが気が付いた。
『ありがとう』という言葉……その言葉に不思議と、もう耳馴染みがあるということに。
〈次の頂点〉にいた頃――メンバーのほとんど全員が、変わってしまったパーティに巻き込まないようにと、自分を追い出そうとしていた頃。
その頃には、まるで聞かなかったはずの言葉を。
一体誰から聞いていたのか、ということに。
「ちょっと待ってくれ。このへん一回、片付けてから行くから」
「はい。……あの、この便箋は」
「ああ。それはユニスに出すやつなんだ」
「明日、出してきましょうか」
「……これだけは本当に個人的なやつだから、実はいつも申し訳ないんだよな」
でもありがとう、と。
やっぱり、ジルは口にする。
「よし、準備オーケー」
「はい。それじゃあ、行きましょう」
部屋から出て、戸を閉めて。
ふたり月明かりの差し込む庭の傍を……ゆっくりと、歩いていく。
虫の声がする。池の水面がさざめく。庭石の少しだけ震える音がして……あとは、静かなばかりの夜だった。
「……未剣と秘剣の、ふたつがあるんだ」
そんな夜にジルが、囁いた。
「え――?」
「あ、悪い。脈絡なくて……剣術の話なんだけど、今、大丈夫か?」
「は、はいっ。大丈夫、です」
「ありがとう。……うちの流派の、技の話。名前がつくのは、そのふたつだけ。未だの剣と、秘めたる剣」
「未だの剣と、秘めたる剣……」
名前を、クラハは思い出す。
未剣〈爆ぜる雷〉。秘剣〈月の夢〉。それはどちらも、ジルが戦闘で見せたことのある剣技だけれど――、
「ヴァルドフリードさん……あの、先生とお呼びした方がいいんでしょうか」
「いい、いい。あの人、俺が師匠って呼ぶのも嫌がるんだ。上下関係が根本的に嫌いなんだよ。ガキとか何とか言って、上から来るくせに」
憎まれ口ながら、どこか親しみの込められた声で、ジルが言う。
「でも、そうだな。気付いたか」
「はい。ヴァルドフリードさんは、秘剣の名を〈天蓋落とし〉と」
「そう。未剣と秘剣は、使う人間によって違う技になるんだ。……型らしい型がないっていうのは、そういうこと」
どういうことなのだろう、と。
隣に立つジルを見上げれば、月明かりが彼の髪を白く、照らしていた。
「たとえばすごく単純な話として……クラハは、いつか俺とか師匠に、腕相撲で勝てるようになると思うか?」
「え、」
「ものすごく鍛えたとして」
本当は、考え込む必要もないような質問だったけれど。
ジルが訊くからには意味があるのだろうと、クラハは一旦、それを真面目な思考の場に上げてみて、それから。
「無理、だと思います。体格差を埋められるイメージが……」
「実際は結構、内功の鍛え方次第でその差も埋まるんだけどな。……でもやっぱり、鍛えやすいとかにくいとか、そういう話は出てくる。あとはイッカと比べてみるとわかりやすいかな。ふたりで一緒に同じくらいのトレーニングをしてたら、イッカの方が力は強くなる」
魔紋もあるし、と言われれば。
それはそうなのだろうと、事実としてクラハはそれを受け入れる。
けれど、その先があった。
「でも逆に俺は、今から全然知らない武器をよーいドンで一緒に練習し始めたら、クラハより絶対下手になると思う」
「え?」
「センスがないんだよ。身体能力はあるけど、剣術だってかなり無理やり鍛えて、師匠にモノにしてもらったんだ」
チカノとかとやったら、もう足元にも及ばない、と。
これもまた、単なる事実のようにジルが言うから、謙遜でも何でもないのだろうと、自然にわかって。
だから、意外だった。
「てっきりジルさんは剣の、あの、天才とか……」
「まるっきりダメじゃないんだろうけど、まあ、程遠いかな。センスでやってない分、教えるのには有利……だったらいいなと思ってるんだけど」
はい、とそれは素直に、クラハも頷いた。
教えてもらっているとき、曖昧になっている部分がほとんどない。それは教えられる側として、ひどく楽なものだったから。
「ありがとう。で、話は戻るんだけど……うちの流派はそういう風に、個人個人の適性が異なるってことを、すごく意識している」
「適性……」
「人によって何が得意かとか、何が不得意かとか……鍛えやすい、にくい、それから性格。そういうのを全部含めたものを、そう呼ぶとして」
たとえば、とジルは。
剣を構えるようなジェスチャーをして。
「師匠の〈天蓋落とし〉は……まあ見ればわかると思うけど、腕力と体重とを合わせて、一気に振り下ろす。もうちょっと細かい術理があるといえばあるんだけど、概して言うと圧殺技だな。結局あの人は、技としてはそれが一番強い」
「それが最も汎用性の高い、鍛え上げた手札ということでしょうか」
「お。覚えててくれたのか」
驚いたように、ジルは目を丸くするけれど。
はい、と頷いて返す。だって、忘れるわけがない。一番最初に――最高難度迷宮へと向かう馬車の中で、ジルに教えてもらったものだから。
「一方で俺の〈月の夢〉は――ちなみに、どう見えてる?」
「……高速剣技に、見えます」
「近い……というか、そっちが正解かもな。一応あれ、カウンターなんだけど」
カウンター、と。
その言葉がクラハには、まだピンとこない。彼が秘剣を使うときはいつも、相手が何かをするよりもずっと先に、勝負がついているように見えるから。
「技の起こりを捉えてるんだ。俺は目が良くて……いや、説得力がないかもしれないけど、本当に動体視力がいいんだ。呪いを受ける前はもっとよかったから、その名残もあって……それを使って技の起こり、相手が動き出そうとするのを読む」
「技の起こりは、相手の隙になるポイントですよね」
「そう。俺はここが一番合わせやすい。で、そこに身体能力の裏付けを以て、一気に突っ込む」
それが俺の秘剣、と言われれば。
なるほど、とクラハは頷いて返す。
「その人の最も得意としているものを、前に出す技が……」
「そう。だから、秘めたる剣。自分の中に秘めているものを理解して、組み合わせて、鍛え上げる。そういう剣だ」
自分の中に秘めているものを理解する。
それはきっと、とクラハは思う。
『自分自身のことに、もっと気付いてやる』こと。
ジルが言ったそれと、繋がっているのだと。
「秘剣を自ら見出せば、免許皆伝。だから俺が教えられる範囲の最終目標は、そこになる」
「……はい」
できるだろうか。
自分にだけは隠しようもなく、不安が湧いてくる。
だってきっと、それは一番、自分の苦手なことだから。
ジルに言われるまで……自分の長所なんて、ひとつも見ようと思わなかった。人よりもずっと、それが下手なのではないかと、そう思う。
期待してくれていると、声でわかるから。
それができなかったらどうしようと、思う気持ちはあって。
「で、本題はそっちじゃなくて」
「え?」
けれど。
彼は、少しだけ遠慮がちな声で、そう言った。
「秘剣がそうだとして、未剣……未だの剣が、どういう剣かって話になるだろ」
これはな、と。
そこで、不意に彼は、足を止めて。
真っ直ぐにこちらを見つめて、言う。
「師が弟子に、始まりとして与える技だ」
「始まり、ですか」
ああ、とジルは頷く。
「弟子を取った日から、師は観察を始める。どういう適性があるのか、どういう技があると便利か、どんな性質で、どういう風に戦いたがっているのか。そういうことを、見極める。そして秘剣を習得するまでの武器として、それからその習得への足掛かりとして、一つの技を与える」
それが未剣、と。
心の中で呟けば、それを見透かしたように、ジルは頷いて。
「迷っていたけど、今日決めた。
クラハの未剣――名付けて、〈追い風〉」
彼はそのまま、真剣な顔で。
「俺は正直、クラハとの距離や付き合い方を、測りかねてる」
「――っ、」
きっぱりと。
言われたことに動揺するけれど、しかしジルの声音は、それでも優しく。
「でも……」
そう、続けてくれる。
「そんなの、当たり前の話だったんだよな。師弟とか、恩とか借りとか、教育とか、影響とか。そういう枠に当てはめて右往左往するばかりで、結局クラハとろくに話もしなかった……理解するだなんて言葉、おこがましいけど。でも、そうやって理屈にこだわるあまり、あなたの人格を見ようとしてなかったんだから」
「それ、は……」
でも、きっと、と。
クラハは思う。自分は……自分は、そうではないのだろうか、と。
悪夢の中に現れる黒い影……あれは、そうだ。ジルの形を、していない。
本当のジルは、ずっとあの日のことを許したと言ってくれていたのに――自分はいつまでもその影を、自分の頭の中にある罪悪感を、彼の面影に重ねている。
だから、きっと。
「……私も。同じだったと、思います」
少しだけ、その返答に。
ジルは意外そうな顔をして。それから納得したように、「こんなことも知らなかったな」と言ってから。
「今でも、理屈は大事だと思う。でも、その理屈を通すために目の前のことを無視していいってことにはならないし、本当はその理屈だって、現実に対してそんなに狭量なものじゃないと思う。……だから、その。完璧な解決法を見つけたわけじゃないから、これからも多分、色々と迷惑……いや。迷ったり、迷わせたりすることも、あると思うけど」
躊躇いながら、それでも。
「俺なりに、あなたの話を聞きながら……何かを、与えられればと思う。あなたが俺に、たくさんの助けをくれるのと、同じように」
構えて、と。
ジルは腰の剣を一本抜いて、こちらに手渡してくる。
はい、とクラハがそれを、受け取れば。
ジルは、静かに。
けれど、ひたむきな声で。
「あなたには、剣技、魔法、神聖魔法……それぞれに、広範な適性がある。
一方で、どれかひとつが尖った汎用性を持っているわけじゃない。
間合いを測るのが上手い。
器用で、武器を扱うのが上手い。
相手より有利な立ち位置を探す傾向がある。
ただし、身体能力に突出したものがないために、それでも力負けになりがちだ。
心配になるくらい我慢強い。
控えめに見えるけれど、本当はすごく頑なだ。
恐れ知らずで足が前に出やすいから、きっとたくさんの窮地に遭う。
自暴自棄と紙一重だけれど……それでも、人を助ける勇気を持ってる。
だから――」
そして最後に。
ふ、とやわらかく笑って。
「この技が、あなたの助けになってくれると思う」
月明かりがはらはらと、風に乗ってふたりの頬を撫でていく。
青年の、穏やかな声が、もう一続きだけあって。
しばらくして。
その風を斬る音が、春の夜に響いた。