7-3 気付いて
覚悟は、していたつもりだった。
何を言われても、感情を表に出さないようにしようと。こちらの抱えている勝手な思いが、ジルにバレたりしないようにしようと。
そう思って、いたのだけど。
「え――?」
あまりにも。
あまりにも予想していない一言だったから――思わず。
戸惑いだけは、口にしてしまった。
「なんかその……すごいよな、クラハは。サポーターとしての仕事もすごく手際が良くて、旅を始めてから今が一番、まともな生活を送らせてもらってるし。改めて言うけど、ありがとうな」
深々と。
頭まで、下げられてしまって。
クラハは何も、答えられない。
だって、そんなことを言われると思っていなかったから……この期に及んで、そんなに、自分にありえないほど都合のいい夢は、見られなかったから。
でも、今。
都合のいい夢みたいなことを、目の前の人は、言っていて。
「あの、ジルさん、」
「ん?」
「あ、ええと、」
上手く、言葉にできない。
何を言葉にしようとしているのかすら、自分でわからない。
そんなことありません。何もできていません。自分は能力が低く、迷惑ばかりかけています。お世辞はいいです。慰めはいいです。気遣いは――なんて。浮かんでくる感情は、そんなどろどろとしたものばかりなのに。
目の前の人の口にする言葉が、あまりにも真っ直ぐだから。
どういうわけなのだろう……自分の気持ちすら、本当に思っていることすら、嘘や誤魔化しのように、思えてしまう。
言葉にできないまま、数秒が過ぎれば。
ジルが、そのまま続けてくれる。
「俺を引き合いに出されても嬉しくないかもしれないけど、その……」
「言え」
言い淀んだところを彼は、チカノに肘で脇腹を突かれて。
いちいち手を出すなよ、としかし、それを受け入れながら。
「クラハは俺にできない、たくさんのことができる。そういうのを傍で見てると、正直羨ましいなって思うこともあるよ」
「…………そんな、」
誰にでもできることです、と咄嗟に言いそうになったのを、クラハは止める。
だって、それは嫌みだから。ジルが自らできないと言っていること……それを『誰にでもできる』なんて軽く扱うことは、正しくないことだと思うから。
そうしたら。
心の行き場が、なくなってしまって。
「立ち回りも上手いし、判断能力もある。今回のことも、その場でやれることを適切にやってくれたと思うよ。だから、あまり俺からクラハに怒るようなことはないかな。怒れるような立場でもない、と思うし」
「あ、あのさ。ジル先輩」
小さな声で。
いまだ涙の跡の残る掠れた声で……イッカが。
こちらに一瞬目配せしてから、恐る恐るという調子で、ジルに向かって。
「それってクラハさんのこと、どうでもいいって言ってるみたい……」
「え!? いや、全然そんなことはないんだが……」
「いやそう言ってるでしょ」
ちゃんと怒れ、と。
チカノがその先を引き継いで。
「冷たすぎるでしょう。それで……縁起でもない話ですけど、クラハさんが死んだら『ああ、自分の判断の結果として死んだんだな』で終わらせるつもりですか」
「いや、そんなことはないけど……悪いことをしたわけじゃないだろ」
頑張って戦ってくれたんだから、とジルが眉間に皺を寄せる一方で。
チカノが、不意に、こっちを向いた。
「クラハさんは、どう思いますか?」
「え、」
「さっき、自分から頭を下げてたでしょう。何か自分で、悪いところがあると思ったからですよね」
「それやめろって――」
「うっせ。これはこれで会話の一種です。……どうですか。自分では何が悪くて何を注意されると……いや、」
ううん、とチカノは、首を振って。
「何を注意されて、何を心配されたかったですか?」
「……私、は――」
言うべきではないと思う。
けれど同時に、言うべきなのかもしれない、と思う。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていた。
自分が思い描いていなかった展開……それを急に突きつけられて、それで、今までの自分の認識がぐらつき始めてしまって。
だって、自分は――、
「能力が、低い、と」
隠していた言葉が、洩れ出して。
一度そうなってしまったらもう、止められなかった。
「ろくに結果を出せなくて、負けてばかりで、情けなくて――」
「……待て。待て待て待て」
焦ったような、ジルの声。
浅ましくも涙が出てしまいそうだったから、顔を上げることもできない。
「の……誰の話をしてるんだ、それ。俺か」
わたしです、とかろうじて、声を震わせないようにして答えれば。
ばたばた、と音がして、
「あなた、自分の弟子になんつーことを……!」
「違う! 俺はそんなこと一度も……言ってないと、思うんだけど」
「……クラハさん、僕のせい?」
ジルとチカノの声の隙間をくぐるようにして。
そっとイッカが、問いかけてくる。
「僕が、あのとき……」
「ちがい、ます」
そうではない、と。
ああ、やっぱり言うべきではなかった。自分の気持ちのひとつやふたつごときで、イッカの心に負担を与えてしまった……そう思ってしまったから、クラハは。
「もっと、全体的な、話で……」
近くに置いた、バッグから。
その証拠になるものを、取り出した。
『ダメだったことリスト』
分厚いそれを机の上に、差し出して。
「ひとつひとつのことじゃないんです。もっと、たくさんの――」
「やめなさい、こんなの」
きっぱりと。
チカノが、そう言う声が聞こえた。
「私が言うのも筋違いかもしれませんけど……やめなさい。こんなことをしても、自分の心を傷付けるだけです」
「……クラハさん、いつもこんなのつけてるの?」
イッカからの声にだけ、かろうじてコクリと頷いて。
それから、チカノには何を言うべきかと、考えているうちに。
「――ちょっとその中身、読ませてもらってもいいか?」
ジルが、そう言った。
「あ、いや。もちろん秘密のノートで人に見せたくないって言うんだったら全然――」
「大丈夫、です」
少しだけ、間が空いて。
自分で読むっつったんでしょ、というチカノの声と、どす、という鈍い音が入って。
それからぺらぺらと――紙の擦れる音を聞きながら。
クラハは、こう思っている。
失望される。
せっかくさっき……たとえ単なる気遣いだったとしても、褒めてもらったのに――と。
「……これ、途中からだよな。いつからつけてる?」
「……冒険者になって、二ヶ月目の日からです。最初の頃のものは、部屋の中に……」
「そっか。毎日つけてるのか?」
「ダメなことがあるたびに書き込んでいるので、結果的に……」
そうか、と声は優しく。
けれどページが――一ページ、また一ページと捲られるたびに。
自分の欠点と、失敗と。
いかにダメな人間かを、知られてしまうようで。
逃げ出してしまいたくなる。
それで、楽になってしまいたくなる。緊張のあまり、足と頭が痺れてきたような心地がして。ぼうっと、涙腺がおかしくなるような心地までしてきて。
ぱたり、とジルが。
ノートを閉じる、音がした。
「……ごめん。俺、全然クラハのこと、わかってなかったな」
「――っ」
恐れていた言葉が、やってくる。
「さっきは怒るところがないって言ったけど……前言撤回する。ある。明確に」
「……はい」
優しい人に、怒られるのは。
失望されるのは……ひどく怖い。そこに、何の逃げ場もないから。全てが己のせいで、自業自得だから。
それでも、受け止めなければならない言葉だからと。
膝の上でクラハは、固く拳を握って。
その言葉を、聞いた。
「あなたは自分自身の価値を、不当に低く評価している。
それはすべきじゃないと、俺は思う」
すぐにその拳を解くことは、できなかった。
言われたことの意味は理解できたけれど……実感はまるで、追い付いてこなかったから。
今、自分が言われたこと。
それに対していったい、どんな気持ちになったらいいのか、わからなかったから。
「さっきも言ったとおり、俺は今回のクラハの行動を評価してた。『死んでもいいのか』ってチカノは言うけど、目の前のイッカを見捨てずに立ち向かった勇気は、あなたの意志として尊重されて然るべきだと思うから。……でも、」
だって、おかしなことではないかと思う。
もう、誤解のしようがないのだから。たとえこれまでジルの目にたまたま自分の欠点が入ってこなかっただけだったとしても……ついさっき、自らその全てを伝えたのだ。
だったら、こんな言葉が。
どうして。
「自身の価値を不当に低く見積もって軽く扱っただけだっていうなら……師弟とかじゃなく。単にひとりの同行者として、それは良くないことだと俺は思うな」
「……不当、というわけ、では」
単なる気遣い、お世辞、建前の嘘……そう、切って捨ててしまうには。
やはりジルの声は、不思議な重たさを持っていて。
「じゃあクラハは、自分の『いいところ』って、どのくらい思いつく?」
「え――」
質問は、思わぬ角度から。
やはりそれにも、クラハは答えられないけれど。
それは別に、混乱したがためだけではなく。
おそらく、最初から――。
「あなたは自分の欠点だけを列挙する。それでいて、自分の美点はひとつも見ない。……自分自身をどう捉えるかっていうのは、結局のところ人の自由だ。でも、あなたの今の見方は、単なる事実の誤認だと思う」
「でも、『いいところ』なんて――」
「あるさ。今すぐだって、俺は百個でも二百個でも思いつけるぞ」
言えば、ジルは指折り数え始める。
「方向感覚がある。細かい旅の手配ができる。間合いの取り方が上手い。戦闘で平面的な構図を理解しながら動ける。困ったときに助けてくれる……っていうのは、ちょっと俺の自分本位だけど」
声が出ない。
何かを言うべきなのだと頭では思っているのに――心が、動いてこない。
理性は、いつもどおり。
自分の悪い面を直視しろと、言っているのに。
「本当はあまり、他人がこういうことに口を出すべきじゃないと、俺は思う。特に俺みたいな立場からイメージを押しつけることは、あなたの中にある自己像に大きく手を加えることでもあるわけだから。でも、あなたは自分自身の――」
不意にそこで、言葉は止まる。
それからジルが、立ち上がって。間に挟んだ机を回って、傍に膝をついて、屈みこんでくる。
「……クラハ、今。立てるか?」
「……え」
「パッと立ち上がれるか?」
言われて。
足を動かそうとして。
「あ――」
「ほら」
崩れ落ちそうになるのを、ジルが肩を掴んで止めてくれた。
「足、痺れてるんだよ。ずっと正座して……我慢、してたから」
ただの、錯覚だと思っていた。
単なる精神的な動揺が生み出した足の震えなのだと、そう思っていたけれど――。
ジルに言われるまで、クラハは、わからなくて。
「自分自身のことに、もっと気付いてやるべきだと思う。……それは今まであなたが身を置いていた環境や、そこで形成された性格のことを考えると、すぐには難しいかもしれないけれど」
畳の上に手を突いて。
ジルの手に助けてもらいながら、少しずつ、痺れていた足を崩して。
彼の腕を、手でぎゅっと握って、支えにさせてもらえば。
ようやく、顔を上げられて。
彼が言うのを、聞いた。
「その考え方があなたを傷付けるものなら、少しずつ、変わっていってほしい。
……俺でよければ、支えになるから」
ジルの頬に、真っ白な朝陽が当たって、輝いている。
夢みたいな人だと、クラハは、思った。