6-3 足らないでしょうか
「……なるほどな」
ガキン、と一撃、交わって。
力で押し切るには得物の強度分、こちらが不利――そのことを感じ取ったジルは大きく後方に跳んで、それと距離を取った。
合わせた右手に、軽い痺れが残っている。
あの魔剣との剣戟を制した自分に、これほどまでの手応えを感じさせる存在……それが、目の前にいるとなれば。
もはや、その魔法陣を確かめるまでもなく、わかってしまう。
「〈十三門鬼〉――外典魔獣中位種と分類されるだけはある」
かちゃり、と眼鏡のブリッジを押さえて、飛び込めば。
竹林、豪雨、月のない夜――。町の南西に位置する暗闇の中で再び、ジルは火花を散らす。
すでに、伝令は送っていた。
自分とともにこの夜間警備に当たっていたひとりの門下生――彼には〈十三門鬼〉との接触の出鼻の時点で離脱してもらい、すぐさま町への連絡に走ってもらった。
鬼は、サミナトと戦ってからずっと、今日に至るまで姿を見せていなかった。
てっきりサミナトの毒死を待っているのだと思っていたけれど……。
「何か条件が――っと」
ぶおん、と一振り。
頭上すれすれに、鬼の回し蹴りを躱して。
まあいい、とジルは思う。
どういう目的でここに出てきたかは、どうだっていい。大切なのは、これを殺せば戦局が一気に楽になるということ。それから、
「――貰った!」
蹴りの躱しざま、下側から足を掴んで。
このまま持ち上げて、ひっくり返して潰して、胸倉を掻っ捌いてやると勢いよく力を込めて、立ち上がろうとすれば。
「な――、」
またこれか、と。
戦慄する程度には、事前知識があった。
『すり抜け』。
サミナトに不覚を取らせた、不可思議の術。こちらの攻撃を一瞬透かす、奇妙な現象。
それが。
こうしてがっちりと両手で相手の足を掴んでいる最中にも発生し、あったはずの感触は消えて。
立ち上がったジルは、無防備で。
その腹目掛けて、鬼の魔爪が、放たれる。
その直前、一本の矢が、飛来した。
「ギッ、」
「っぶね、」
ジルのちょうど、受けに回ろうとしていた腕と胴の間を潜って通る、鬼からは死角になるだろう一撃。
それもまた『すり抜け』てしまったけれど……しかしその一瞬だけで、ジルは体勢を立て直すに十分なだけの時間を得ることができたから。
「しっかりしてくださいよ、竜殺し」
再び距離を取れば、背後からそう、声が聞こえてくる。
もう、振り返らずともわかった。
「よかったのか。こっちの援軍で」
「確認しましたが、町の周縁部にはとりあえず、魔獣の姿はありませんでした。もし問題が出たら、そのときになってから爆速で戻ります。あなたほどじゃないですけど、このとおり足は速いんで」
でもその前に、と。
すらり、刀を抜いてひとり影、暗闇の中にぼうっと浮き上がるように、ジルの隣に並び出て。
「こいつをぶっ殺せるなら、それが一番ですから」
「ふたりで一気に、か」
チカノ。
彼女が、ジルの隣で、刀を構える。
向かい合うは、一匹の鬼だった。
四肢悉く死毒に塗れ、怪力地を割り、一目見るなら蛇をも射抜く――異形の魔獣。死を招く古の化生。
雷鳴落ちれば、稲光に照らされて。
嗤うような貌が、闇の中に不気味に浮かび上がる。
外典魔獣の証である魔法陣は左目に深く刻まれて。一方でサミナトが残したのだろう、その左肩の傷跡……それすらもう、ほとんど再生を終えている。
「――『すり抜け』の秘密は、掴めてないぞ」
「でも、秘密に限りがあることは確かです。無敵の魔獣なら、あのときお父さんにトドメを刺すのを躊躇う必要はなかった。……それに、これが最後の機会かもしれませんから」
やれることはやれるだけね、と。
呟いて今度は、チカノが飛び込んで。
火花散る散る、散って落ちては雨に消ゆ。
彼らふたりは……これと向き合って数秒も生きていられる人間がどれだけいるだろうかという凶悪な魔獣を相手に、刀剣交えて戦うけれど。
結局、今夜。
この場に起こることは、ふたつだけ。
ひとつは、彼らがこの〈十三門鬼〉を打倒できずに終わる、ということ。
『すり抜け』の怪技の絡繰り――それをふたりは見破ることができず、無為に剣戟を重ね、どうにか山際の方まで押し込んでいくのが精一杯だった、ということ。
もうひとつは。
最大戦力のふたりが、この鬼の相手にかかりきりになって。
誰を助けに行くこともできなくなる、ということ。
†
私が行きます、と。
咄嗟にチカノに伝えたのは、それでもやはり、間違いではなかったのだとクラハは思う。
だって、他に選択肢はなかった。
鐘が四回鳴ったとき――〈十三門鬼〉の出現が知らされたとき、チカノは判断を迫られたはずだった。
ついさっき目の前から消えた、イッカを追うか。
それとも、この対魔獣連合の強駒のひとつとして、現在交戦中だろうジルのところに、援軍として向かうか。
その判断を、チカノが瞬時、躊躇っていたのがわかったから。
躊躇わなければ、すぐにでもここを飛び出していただろう……そのくらいには反射神経に優れた人なのだと、この数週間で、理解していたから。
だから、申し出たのだ。
イッカの方には、自分が行く。だからチカノは、と。それが、彼女の決断を楽にするはずだと、そう思ったから。
だから、今はこうして走っている。
雨の中で――ついさっき、消えていったイッカ。彼の痕跡を探しながら、こうして必死に、追っている。
あのとき、目の前にあった決断の中では、最も間違いの少ないものだったはずであるし。
それに、気持ちの上でも。
そうしたいと、思うところもあったから。
「――あ、」
はたり、とその足が止まったのは。
イッカの痕跡が途絶えたからではない。むしろ、続いていたために。
町中から、北東方向の竹林へと。
その足跡は、伸びている。
「……入って、いったんだ」
少しだけ、クラハは躊躇った。
〈十三門鬼〉の出現。それと結びつくのは、およそ二週間前の、大規模な侵攻だ。
外縁部には、ただでさえ強力な野良魔獣が多いと聞いている。
そして自分がそれに十全に対処できる力を持たないということは――自分が知っているだけではない。ジルとチカノという、最も信頼できる剣士たち。そのふたりの采配によって、自分が外縁巡回の任を与えられていないということからも、よくわかる。
だから、ここから先に踏み込むことは。
明確な命の危険を伴うと、わかっていたけれど。
「迷ってたら――!」
それでも。
一度自分から言い出したことなのだから。適切に自分が対処すると、言ってのけたことなのだから。
今さらここで、命が惜しいごときのことが、引き返す理由になるはずもないと。
クラハはさらに、竹林の奥深くへと、足を踏み込んでいく。
ひどく暗い領域だった。
町中にいてすらすでに夜雨に陰り、あたりの視界を確保するのが困難だったけれど……今は、さらに深く。
灯りにしている魔法石の周り、ぼうっと浮かぶ雨の線は、千々に引き裂かれた魂のように白い。整備された道を行かなかったらしいイッカの追跡は、泥を蹴りつけながら進むもので、しばらくもすれば足先は濡れて冷たく、余剰の体力も段々と、奪われ始めている。
だから、その途中。
稲妻が地上で光るのを見れば――安心して、遠くから声をかけることだってした。
「イッカさん! ……イッカさん!!」
二度呼べば、稲妻が止まる。
今の声は、と聞き定めるような気配がしたから。
「イッカさん、」
もう一度、名を呼べば。
「…………クラハ、さん?」
どういう感情の乗った声なのだろう……少し震えたような、奇妙な声音で、名前は返ってきた。
暗がりで濡れそぼった彼の両腕には、微かな雷が光っている。
ただそれだけの仄かな光で照らされている……彼の表情は、はっきりとは窺うべくもなく。
何を言うべきなのか、クラハは結局、道中で準備することも能わなかったから。
まずは簡潔に、事実だけ。
「〈十三門鬼〉が出ました」
「――は、」
「南西方向――逆側で、チカノさんとジルさんが交戦中です」
それから。
これを言うのは卑怯だと、わかっていたけれど。
「戻ってください。今、ふたりが出た影響で町が手薄になっています。イッカさんに――」
「要らないよ、僕なんて」
ぽつり、呟かれた言葉だけれど。
それでクラハも声を止めてしまったのは、やはり、どこか聞き覚えのある言葉だったから。
「鬼には勝てない……見てたでしょ。クラハさんだって」
「…………それは、」
確かに、見ていた。
イッカが……自分より優れた力を持つイッカが、しかし〈十三門鬼〉と相対してはまるで力が足りず、鎧袖一触にあしらわれる様を。
嘘は吐けない。
イッカなら鬼にも勝てるだなんて、そんな言葉を、吐けるわけがない。
だって、力の誤魔化しは、死に直結する。
中途半端な優しさ、甘さ……それはささやかに湖面を凪ぐ代償として、命の支払いを求めてくることだってあるのだ。
だから、押し黙りかけて。
でも、と口をついたのは、会話を途切れさせてはいけないと、直感していたから。
「それならどうして、イッカさんはここにいるんですか」
「…………」
「この方向……北東方向は、前回の交戦後に〈十三門鬼〉が走り去った方向で、それにジルさんが、たびたび〈門の獣〉と遭遇している方角でもあります。……わかっていて、ここまで来たんじゃないんですか」
追跡していたときから、うっすら察していたことだった。
単にその場から逃れるだけだったら、もっといくらでも簡単な道があるし、辿る道筋だって、もっと脈絡がなくて構わない。
なのに、そうなっていなかったのは。
明らかに特定の方向へと痕跡が伸びていくのは、目的があってのことだろうと、予想していたから。
そして、それは――、
「ここにいるかもしれない〈十三門鬼〉を倒そうと、そう思って」
「…………できないって、自分でもわかってる」
ぽつり、そう呟いて。
やがて雨の中……諦めたように、イッカがこちらに近づいてくる。
「僕、強くないから。……そのせいでサミナト先生だって、」
その先を言葉にしなかったのは。
認めたくなかったからか……それとも、言葉にするのすらも嫌ったからか、わからなかったけれど。
もう、クラハには、イッカの気持ちの輪郭が読めていた。
罪悪感。
「……その。私が言えるようなことじゃないかも、しれませんけど」
強い焦り、申し訳なさ。
己の力が足りないがために誰かを傷付けてしまったこと……それをどうにか、償いたいという気持ち。
自分の場合は、できるはずのことだって十分にはできなかったけれど。
イッカは今、自分にできないことだとわかっていても、それをしようとしていたのだと。
そう、わかって。
でも――、
「ここにいても、何かを得られることは、ないと思います。単純に〈十三門鬼〉がここにいないというのも、そうですけど」
「…………」
「その……」
あなたの力が必要です、というのは。
ついさっき言いかけたことではあるけれど、やはりどうしても……イッカが町の防衛から外されていることを鑑みれば、嘘に聞こえてしまうと、わかったから。
「待ってると思います。チカノさんも、他の方々も」
「…………そんなわけ、ないよ」
ぐ、と強く。
イッカは、拳を握って。
「チカノ先輩は、僕のことなんか、見たくもないと思う」
「そんなこと――」
「だって、お父さんだよ!?」
大声で。
一瞬、雨粒だって止めてしまうような音量で、イッカは叫ぶ。
「サミナト先生は、だって、チカノ先輩の……」
そこで不意に、クラハは得心いったことがあった。
あのとき……屋敷から去る前の、イッカの態度。チカノの話を深く聞くでもなければ、感情の激しさの割に、彼女を直接糾弾する言葉は口にしなかったこと。
そして、本当にその去り際に至って、言い切らなかった言葉の続きが。
「……嫌っては、ないと思います」
キーワードは、家族で。
サミナトが倒れたことで、その原因となった自分は、チカノにと。
そうイッカが思っているのだと……ようやくクラハには、わかった。
家族というものに対する思い入れに、自分との差があるということも。
「その、私も、本当のところチカノさんが、イッカさんのことをどう思っているかはわかりません」
「…………だったら、なんで」
「迷っていましたから」
できるだけ、偏見や憶測が入らないように。
この場限りの無責任な嘘の慰めにならないように……可能な限り、目にしたものだけを。
「鐘が四回鳴り終わっても……チカノさんは、まだイッカさんを追うか、迷っていました。嫌いだったらそうはしないと、私は思います」
「……でも、先輩は結局……」
小さな声。
否定することは、やはり嘘になるから。
「私が勝手に引き受けたというのもありますけど……」
「…………」
「……迷っていたというだけでは、足らないでしょうか」
ふたり揃って、黙ってしまえば。
雨の音が、ひどく煩く聞こえてくる――鼓膜を揺らす。肌から熱を奪う。単調な刺激に、注意がぼやけていくような感覚がある。
けれど、今度は。
この沈黙を――クラハは悪いものとは、思わなかった。
ただ、迷っているだけで。
その先でイッカが示してくれるだろう答えを……不思議と、疑わなかった。
イッカが俯いて、服の袖で顔を拭う。
これだけの雨に濡れてしまえば、それはほとんど実用的な意味を持たない動作だったはずだけれど……しかし何か、もっと大切な意味を持っていたのだろうということは。
それから上げられた、イッカの表情から、読み取ることもできて。
彼がゆっくりと。
こちらに近付いてくるのを、クラハは。
見届ける前に、視線を外す必要があった。
ふたりのすぐ傍に、巨大な牛の魔獣が。
〈門の獣〉が、現れたから。