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6-2 なんだよ、それ




「ふぁあああああ~……」

 と、何とも言えない声とともに部屋からチカノは出てきて。


「お疲れ様です」

 だから部屋の外で待っていたクラハは、心からの言葉として、そう伝えた。



 お、とチカノはこちらの姿を見つけるや、眉を上げて。

 それから深々と、頭を下げた。


「いやあ……ありがとうございます。クラハさん。おかげで助かりました」

「いえ。私は大したことは……あの、何かもし、用事があったりしたらと思って」


 終わってから……つまり、サミナトの容態が再び安定してから。

 チカノは部屋の中に残って、司祭と何事かを話している様子だった。


 クラハは一旦、一番最初に治療に当たっていた聖職者と同じタイミングで部屋の外に出たものの……このことが心配だからと、チカノが出てくるのを待ち構えていた。


「他の門下生の方々も遠ざけてらっしゃるようですし……あ、その。勝手にこの部屋まで来てしまってすみませんでした」

「やや、別にそれは平気ですよ。門下生を遠ざけたのはあんまりクラハさんとは関係ない理由なんで……むしろ適切に駆けつけてくださって助かりました」


 で、とチカノは。

 そこで言葉を切って、少しだけ胡乱な顔で、悩むようにしてから。


「用聞きかあ……いつもなら『大丈夫』って言っちゃうんですけど、今日はもう、時間が……」


 そうですよね、とクラハは相槌を打つ。

 だってもう、時間もずいぶん遅くなっている。チカノはこれからすぐに布団に入ったとしても、ジルとの交代時間までに取れる睡眠時間は、もう大したものではない。まして、起きているほとんどの時間を魔獣の警戒に当てる……そんなハードワークを毎日する彼女にとっては、その休養の時間こそが、貴重なものなのだから。


「何でも、もし私が役立てることがあれば」

「……なんか、あれですね。クラハさんって……あー。ちょっとジルが言ってたこと、わかるかも」

「…………?」


 こっち側で自制した方がいいんだろうなあ、とチカノは呟いてから、


「じゃあ、すみませんけど。部屋の片づけだけ、ちょっと手伝ってもらっていいですか」

「はい! あ、でも。ほとんど私が持ってきたもので、片付ける場所もわかっているので……大まかな指示だけもらえれば、私だけでも」

「……甘いもの好きですか?」

「え?」

「好きならあとで、金平糖をあげます」


 ええと、とクラハは戸惑うけれど。

 しかし、くれるというものを断るのも失礼だろうと思うので。


「あ、ありがとうございます……」

「いや、こっちこそありがとうですよ。じゃあちょっとだけ」


 再び襖を開けて、チカノとともにクラハは部屋の中に入る。

 二、三の注意点を教えられてしまえば、あとはもう、それだけで構わない。


 だから、「わかりました」と「おやすみなさい」を伝えて、お別れのはずだったのだけれど。


 どうしても、その人が目に入ってしまったものだから。


「……気になりますか?」

「あ、えと」

「お気になさらず。……まあ、ここまで手伝ってもらった人に何も言わないというのも不誠実でしょうから」


 説明しておきますね、と。

 チカノが言うのはもちろん、この部屋の中、再び穏やかな眠りに就いている、サミナトのことだった。


「門下生たちには詳しく言ってないですけど、まあ瀕死です」

「え――」

「言ってない理由は、士気が下がるから。……この人、今はこんなで説得力ないですけど、東国で一番強いって言ったらまず名前が上がるような人ですから。それが魔獣にやられて死にかけです、ってなると、今の状況だと色々マズいんです」


 これは、と彼女は言う。

 ジルと一緒に決めました、と。


「できるだけ隠しておこうっていうことで……聖職者の方たちには無理ですけどね」

「それじゃあ、私も勝手に……」

「いや、クラハさんは……まあいいですよ。口も堅そうだし、言わないでしょう?」

「はい。それはもちろん」

「となると後はクラハさん個人の士気の問題ですけど……別に、ジルの方が今のお父さんよりは強いですし、そのことをよく知ってもいるでしょうから。影響は少ないだろうという見積りです」


 それはきっと、と。

 クラハは客観的に、認めている。


 思い入れの話でもあるのだと思う。この道場で、ずっとサミナトに学び続けてきた武術家たち……彼らと比べて、自分のショックは比較的小さいのだろうと。


 自分の知る中で一番強い人物……その人の敗北に対する衝撃は、自分には降りかかることのないものなのだろう、と。


「で、今は発作が起こったので対応……ということです。もし私のいないときにそれが出たら、ジルが私の役をやってくれるってことで約束はしてるんですが、クラハさんもその場に居合わせたときは、気にしてもらえると助かります」

「はい。わかりました」

「あとは……」


 そう言って、チカノは指を折る。

 伝え忘れたことはないか、と確かめるように。


「うん。とりあえずそんなところかな。クラハさんの方では、何か気になることありますか?」

「あ、その……」


 訊くべきか。

 迷ってしまうようなことが頭に浮かんでいて、そういうことはまず口に出さない方が正解なのだと、クラハはわかっているのだけれど、それでも。


 状態の把握をしないことには、と思ってしまったから。


「この発作は、どのくらいの頻度で起こっているんでしょうか」

「そんなに多くはないですね。今回が一番大きくて、それまでは小さいのが二度三度とか……」


 でも、とチカノは。


「これからどんどん、多くなっていくとは思います」

「……毒の作用が、強まっているということですか」

「や。単純に父の体力の問題ですね」


 残念ながら、と表情は大して変えないままで、


「小康は父の内功込みで実現されているものですから。爺さん婆さんはだいたい内功お化けって相場が決まってるものですけど、いくらなんでも限界があります」


 ということは、と。

 口にするのを、クラハは躊躇った。今のチカノの発言……そこから簡単に想像できる、ひとつの到達地点が浮かんでいたけれど。


 いくらなんでも、眠っている本人を前にして。

 それを言うのはあまりにも配慮に欠けたことなのではないかと、そう思ったから。


「まあでも、今ご想像いただいただろう通り、」


 けれど、チカノは。

 そんなクラハの躊躇いの向こう側を、見透かしたように。


 はっきりと、こう言った。




「放っておけば、あと二週間くらいで、あの人は死にます」



「――――なんだよ、それ」




 声は。

 チカノからもたらされた情報に対する反応は。


 チカノからでも、クラハからでも――ましてや伏しているサミナトからもたらされたものでは、断じてない。


 けれど、その声を。

 クラハも、そしてチカノも。


「…………イッカ?」

 知っている。


 開け放したままの障子戸……人払いもしている状態で、まさかこの深夜に誰かが通りかかることもなかろうと思っていたから、油断していた。


 その向こうに、イッカが。

 軒の先。雨に打たれながら、立っている。


「ちょっと、」

 チカノが、まず動いた。


「何をそんな傘も持たずに……野良犬じゃないんですから。上がって乾かし――」

「どういうこと?」


 しかし、イッカはその呼びかけに頷くことはなく。

 ただ、濡れた前髪で目元を隠して……かたかたと震える手で、己の服をきつく掴みながら。


「サミナト先生が死ぬって、今、言ってたよね」

「……立ち聞きは……いや。気付かなかった、私も悪いか」


 疲労を堪えるように、目頭を指先で抓んで、チカノは言う。


「クラハさんにも伝えましたが、このことは他言無用で――」

「なんでクラハさんには言って、僕には黙ってるんだよ!!」


 だん、と。

 大きく音が響いたのは、板の間に彼が、上がってきたから。


「あなただけじゃありません。他の門下生たちだってそうです」

「話逸らさないでよ! 僕の話を今はしてるんだろ!」

「だから、あなたも門下生のひとりとして扱っているだけのことで、」

「他の門下生と違って、僕だけ待機させておいて? 嘘じゃん、そんなの!」

「それはあなたの怪我の回復を見てから判断――」


 することで、と続くはずだった言葉が、続かなかったのは。

 きっと今、チカノがイッカの表情を見てしまったからなのだろうと、クラハは思う。



「…………なんだよ、それ」


 泣いていた。

 それは怒りの発露ではなくて……子どもが悲しみの中にあるときと、同じ表情。



 クラハは、どうも。

 その涙に、心当たりがあるような気がして。


「……イッカ、」

 チカノが彼に、おそるおそると手を伸ばす。


「――チカノ先輩だって!」

 けれどそれは。

 ばち、と痛みを伴うはずの音とともに、差し伸べた先の手によって、弾かれて。


「僕のこと――っ」


 それ以上は、言葉にならない。

 涙を無理やり吞み込むようにして、イッカがさらに深く、顔を伏せる。


 次の瞬間には、もう彼は踵を返して、走り出していた。


「待ちなさい!」

 チカノはしかし、そう彼に声をかけながらも、もう手を伸ばすことはできず。


 クラハもまた、その速度に対応することはできなかったから。

 雨の重たく降り続けるこの暗夜……彼が塀を乗り越えて、この道場から出て行くのを、阻むことができなかった。


「……ああ、もう! なんつー間の悪い……!」

 声を上げたのは、チカノの方。


「すみません、クラハさん! 悪いんですけどちょっと私今から――」


 そして、その勢いのいい言葉が、途切れてしまった理由は。

 クラハにも、十分すぎるほどわかる。


「は――?」

「え――」

 カンカンカンカン、と。


 鐘の鳴る音が、四回を一区切りとして、何度も、何度も。

 それは、あらかじめ決められていた符号。この町の全てに警戒と避難を促すための、警報。



 二回なら、野良の魔獣の出現。

 三回なら、〈門の獣〉の出現。



 四回なら、当然――。




 雨のあまりにひどく降りしきる町の中で。

 クラハは遠く、山の中でジルが剣を振る音を、聞いたような気がした。




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