6-1 上手くいかない
「……あの、ジルさん」
余計なお世話かと思ったけれど、襖を挟んで声をかければ。
がたがたっ、と夕闇の向こうで、影が動くのがクラハの目にも見えた。
「え、ああ。どうした?」
「そろそろ夜番の時間になると思って、お声かけしました。すみません、お休みのところ」
うおマジか、と聞こえてきて。
どたどたた、と足音が響いて、ぱんぱんぱん、と何かを叩く音、よしかけてる、よし持った、という声。
すうっ、と最後に襖が開いて。
「完全に寝過ごしてた……起こしてくれてありがとな。助かった」
いえ、とクラハは首を横に振って応えた。
だって、別に自分がやる必要のある仕事ではなかった。本当に遅刻するような時間になったら、夜番を一緒にする門下生がジルを起こしに来ただろうから。
むしろ、こちらの心配を解消するだけのために必要以上に早くに起こしてしまったのではないか、ジルならば当番開始の三分前に起きたって持ち場に就くことは可能だったのではないか……そんなことを考えつつ、これも『ダメだったことリスト』に付け加えておこうとクラハが思っていると、
「クラハは今日は……昼番はなかったよな。何かしてたか?」
「え?」
唐突に、そんな言葉を投げかけられて、
「あ、いや。別に無理に訊き出そうってわけじゃないんだけど」
「いえ……あの、稽古場を借りて、少し剣を振っていました」
だいたい七、八時間くらいのこと。
明日への疲労の問題もあるし、ジルの十二時間の活動と比べれば、まるで大したことはないけれど。
「ああ。だと思って……どうだろう。何か気にかかることとか、訊いておきたいこととかないか?」
「え、」
「別に、具体的な技術のことでもいいし、トレーニング方法でもいいんだけど。何かこう、自分で『これがやりたいな』ってことで、まだ上手く見通しの立たないことがあれば。あ、あともちろん、今まで伝えたことの中で、『ここが上手くいかない』とか『ここがよくわからない』とか、そういうのでも」
どうだろう、ともう一度。
ジルから訊かれて……ほんの少し、クラハは考えたけれど。
足りないもの、できないもの。
できるようになりたいことが、多すぎて――。
「……その、すみません。今度、整理してからでもいいでしょうか」
「ああ、全然。ごめんな。なんかいっつもクラハの顔を見るたびにそれが気になっちゃって……それならちゃんと時間取って教えろって話なんだけど」
ごめんな、と謝られてしまえば。
とんでもないです、と肩を縮こまらせることしか、できなくて。
「もうちょっと軽い……軽いっていうとアレだけど。そういう事件なら、付きっ切りで教えられたんだけど、ごめんな。もう少し、これが一段落つくまでは待ってもらえるか」
「……もちろんです。あの、あまりお気になさらず」
そう言ってもらえると助かるよ、ありがとうとジルが微笑めば。
何も、言えなくなってしまって。ただ、「集合場所まで案内しますね」の言葉を吐くほかなくて。
ふたりで廊下に出ると、赤紫の、奇妙な色の夕焼けがある。
「お……なんかすごい色だな、今日」
「そうですね」
「なんか結構……景色は変わらなくても、こういうところで季節って流れてるんだな。春って感じで」
はい、と頷いて。
あまりにも面白みに欠けた返しだった、とクラハはこれも、『ダメだったことリスト』に書き加えようと覚え込んで。
夜番の伴をする門下生のところまでジルを連れて行って、こんな大したことのない、自己満足の仕事の報酬に、彼に頭を下げてもらって。
彼らが山の方へと歩いていく姿を見つめながら……クラハは、こう考えている。
顔を見るたびに、気を遣わせているなら。
自分が彼についている意味など、いったいどこにあるだろう。
†
やれることもなくなってしまったから、もう眠ってしまおうかと、そう思っていたころだった。
本当はもっと剣術の練習をしたい。早く強くなりたい。そう思うけれど……この状況で、有事の際に動けるだけの体力を残しておかないというのは、間違った選択だと思うから。
布団を敷きながら……灯りを消して、真っ青な部屋の中。ぽつぽつと降り出したらしい雨影が、障子紙の上を黒く墨のように流れていくのを見つめていると。
ああ、ジルに傘を渡すのを忘れていた、とクラハは思い出した。
明日の朝まで降っているだろうか、そのときはまた迎えに――いやそれも気を遣わせてしまうし、どうしてあのときちゃんとできなかったのだろう……もやもやとした気持ちを振り払うことはできず、半ば今夜の悪夢の存在を確信しながら、掛布団の下に身を潜らせて、目を瞑る。
ベッドと違って、床の上に直接敷かれた布団だから。
微かに――遠くで妙に慌ただしい足音のするのが、床を伝って、鼓膜を震わせた。
「――何……?」
目を開けて。
クラハはそのまま、より深く、耳を澄ませる。音のしている理由まではわからない。けれど、それがどの方向なのかくらいは掴めたから。
むくり、と起き上がって。
いつでも動けるようにと普段着のまま眠っていたから、そのままの服装で、部屋を出た。
歩けば歩くほど、その音の持つ意味がわかってくる。どうも、やけに切羽詰まっている。何か、よくないことの気配がする。
そんなことを思って進めば、不意に、その進路方向に幾人かの門下生たちが立ち止まっているのが見えた。
「何かあったんですか?」
「うお、」
背後から声をかけれは、彼らは驚いて仰け反って。
それから、クラハと同じ……この奇妙な騒ぎに対して、不安そうな顔をして答える。
「いやあ。向こうで何かあったみたいなんだけど。俺らは待機ってチカノ先生に言われちゃってさ」
「あ、でも待てよ。教会の人は通していいって……」
その場にいた全員が、クラハをじっと見た。
思わず、それに後ずさりしかけてしまったけれど。
「あれって神聖魔法が使える人なら、ってことでいいのか?」
「んじゃ、クラハさんも行ってもらっちゃった方がいいのかもな。使えるんでしょ?」
「はい。それほど強力なものではありませんが……」
俺らは欠片も使えないから、と門下生たちは言って。
んじゃどうぞ、と道を開けてくれる。
そうなると……果たして自分が行っていいものなのかはわからなかったけれど、ここまで言われて行かないのも嘘だろう、とクラハは思ったので、「すみません」と一言頭を下げて、彼らの横をすり抜けていく。
声は、部屋に辿り着く前から、もう聞こえていた。
「やばいやばいやばい! 応援まだ来ないの!?」
「連絡は今行って――チカノさん! もっと力を抑えて! 解毒が間に合わない――」
もう疑う余地など、どこにもない。
クラハはそれが緊急事態であることをはっきりと理解した途端、走り出していた。
その部屋へと続く戸は開け放たれ、だから、入室の躊躇いすら必要はない。
チカノと、ひとりの聖職者が懸命に向き合っていたのは、一人の男に対してだった。
サミナト。
ほとんど血の気を失った彼の顔を見れば――専門的で体系的な訓練を受けたわけでもないクラハだって、わかってしまう。
死にかけている。
「大丈夫ですか!? 手伝えることは!」
「クラ――」
手が足りないのだろう、とさっきまでの声を聞いて把握したからそう告げれば、一瞬チカノは目を見開いて、しかしすぐに状況を理解してくれたらしく。
「ここ!」
バンバン、と自分の隣の畳を叩きながら。
「座って! 補助入って!」
「はい!」
「治癒魔法使って、こっちの人の指示通りに!」
もうひとり部屋にいる聖職者は、顔を上げすらしない。
けれど彼もまた、間髪入れずに指示を飛ばしてくる。
「どのくらい使える!? 骨折いける!?」
「熱傷が限界です!」
「んじゃこっちの解毒符の発動代わって! 俺が治癒魔法でスイッチするから。いくよ、一、二、三!」
はい!と大きく声を出して。
クラハは先ほどまでやっていた聖職者に代わり、患部に当てた解毒符に魔力を通し、サミナトの回復に努める。
だいたいは、見てわかった。
サミナトが〈十三門鬼〉によってつけられた右脇腹の傷――そこから毒が、洩れ出ている。
およそ人間が耐えうる毒ではない……そのことを今、改めて見てクラハは思う。自分の手にある解毒符は強力で、おそらくこれを握っている限りほとんどの毒に影響されることはない。そのことがわかっていながらなお、この強毒は、視界に入れ続けることに恐怖を伴うほどのものだ。
今まで。
サミナトがこの毒を受けてなお、命を繋いでいたことが奇跡のように思われて。
だからつまり、今、その奇跡が期限切れを起こしかけているのだろう、と。
毒に耐えていたのはきっと、サミナトの並外れた内功の力があるからで……それがどういうわけか傷を受けて二週間近くが経ったこの日に、とうとう均衡を崩した。隣に座るチカノがやっているのは、その内功を外から制御して励起させるという、優れた武術家にのみ可能な行為で――、
「ごめん遅れた!」
ばっ、とそのとき、もうひとりの人間が現れた。
クラハは解毒符の扱いに集中するあまり、顔を上げてそれが誰なのかを確かめる余裕がない……けれどその人は「オッケー。もう大丈夫、ありがとう。代わるよ」と言って、こちらの手にある解毒符に、そっと手を添える。
その袖の意匠が目に入れば、ようやくそれが誰なのか、クラハにもわかる。
応援の聖職者だ。
「三つ数えたら手ぇ離してね。一、二、」
三、と声を揃えれば。
あとは、本職の時間になる。
「そっちもっと強めて。いや弱い弱いもっと、チカノさんの方に合わせて、偏るから。そうそうそう、そのくらい。こっち上げるよー」
顔だって覚えている。
この近隣支部の司祭を務めている人物……今のところこの対魔獣連合体では、もっとも治療に長けた人物だった。
もう少し、何かできることはないかと思ったけれど。
しかしどうも、彼女の指示は細かく、要求は高く、自分の出る幕ではないように思われる。
何か手伝うことはあるか、と訊くのも憚られて。
ああ、患部をよく見えるようにするために、湯と清潔な布くらいなら、いくらあってもありすぎることはないだろうから、と。
行って戻ってくれば、彼女は顔を上げて。
「気が利くぅ! そこ置いとい――いいや、助手やってもらっちゃお! 君も入って!」
「はい!」
右手で解毒符を押さえながら、左手で別の作業をする彼女から。
出されたとおりの指示を、クラハは懸命に行う。
その作業の終わるころには、もう日付が変わっていた。