5-2 かなり厳しいな
「わ、」
ほんの少し郵便屋の中にいただけで、出てくるともう大雨になっていた。
ざあざあ、というよりどぽどぽ、という言葉がよく似合う。水桶を引っ繰り返したように、真っ黒い雲から大雨粒が降り落ちている。それらを叩きつけられる家々の屋根はなんだか痛そうで、ぼんやりとクラハは、少しのあいだ、その動きを止めた。
傘を持ってきてよかった、と。
ほんの少し外に出るだけだからと横着しないでよかったと……そう思ってから、ふと思い出す。ジルは果たして昨日の夜、傘を持って出掛けていただろうか、と。
「…………」
もしかしたら、もうとっくにずぶ濡れになってしまっているかもしれないけれど。
でも、そろそろ帰ってくる時間のはずだから。
傘を広げて、クラハは早足で道場への帰り道を行く。
そのあとすぐに、傘をもう一本持って、迎えに行こうと考えながら。
サミナトが倒れてから、もう、八日が経っていた。
†
かんかん、と鐘の音が聞こえてきて、周りの班員たちもそういう振舞いを始めたので。
どうやら当番が終わったらしいな、とジルは気が付いた。
「最後の最後で降られた~!」
「ジル先生は傘、持ってきてますか?」
場所は、町の中ではなく、その周囲の竹林。最も外縁を担当する巡回ルート上。魔法連盟からの援助のおかげで急遽設置することができた、簡易詰所の屋根の下。
当然もっとも危険が多くなるこのルート……それを引き受けるメンバーのほとんどは、若手と呼ぶことにも呼ばれることにも、何の反論も出ないような年齢帯に属していた。
それだけに、年の近いジルにも親しく接してくれていて――、
「いや。そもそもあんまり持たないから」
「えっ。それ、普通に雨の日どうしてるんすか」
「春夏秋はそのまま浴びることが多いかな。汚れとかも落ちて一石二鳥だし」
「えぇ……」「うちの犬とそっくり」
でも体温落ちて危なくないですか、とか。風邪引きませんか、とか。
そういう言葉に「冬は流石に雨宿りするし。風邪はもう八年くらい引いてない」と返して、へえ流石だなあ、ほんとうちの犬とそっくり、と感心されつつ。でも帰ったらお湯浴びてから寝た方がいいですよ、なんて心配をされつつ。
詰所の屋根を叩き続ける、自分たちを閉じ込めるようにして降る雨――その音に耳を澄ませながら。
さて、チカノにはどうやって報告したものか、と。
ジルは、その場にいる一人一人の顔色を、窺っている。
この人はまだ元気そう。あの人は疲労が溜まってきている。この人とこの人はもう一当番だけは入れそうだけれど、恐怖心が拭えていない――そんな風に。
次の当番表をチカノが決めるために必要になる情報を、集めていた。
「ジル先生、知ってますか? この世には魔法石っていうものがあって……お風呂とかそういうのにも使えるんですけど」
「知ってる知ってる」
「あ、風呂の概念は知ってるんだ」「じゃあなんで汚れたら雨を浴びるなんて発想に……」「嫌いなんじゃないの? うちの犬もそうだよ」
嫌いだからじゃなくて旅してるからだよ、とジルが反駁すれば。
いやじゃあ町の中にいるときくらい文明人らしい生活をしたらいいじゃん、とぐうの音も出ない返しを門下生にされて。
この人も連勤が続いているからそろそろ限界だな、と心の中だけで思ったりしている。
「先生、折角だし一緒に入ってかん?」
「こいつが傘持ってるんで」
「ああ。それなら……ってそれ、何人入ろうとしてるんだ」
「先生入れたら八人す」
「こいつら結局全員忘れてきたんですよ。信じられます? って、あ、先生もか」
差してないのと変わんないだろそれ、とジルが言えば。
本当にそれはそう、と彼らは笑って。
一人、とジルは思っている。
この七人のうち、明日も連続してこの当番に就くことができるのは――一人。傘を忘れずに持ってきた彼だけだ、と。
場合によってはもう少し人数を減らして防衛強度を下げることも視野に入れなければならないかもしれない……帰ったらチカノと話し合い、その結果如何によっては共同で連合体首脳部に提案しよう、と考えながら。
よし、と呟いてジルは立ち上がり。
「んじゃ帰――、」
お、とその途中で、言葉を止めた。
屋根の間際で押し合いへし合い、傘の取り合いをしていたやかましい門下生たちの向こう――道の先から、人影がひとつ、こちらに歩いてきている。
「あ、」
「お迎え来たじゃないすか」
クラハだ、と。
門下生たちからの言葉で裏付けられて。
「んじゃ私たち、先戻ってますね」
「道案内要らなそうですし~」
これは本当にそのとおりで、ジルは普段、巡回からの帰り道を当然、当番被りの門下生たちと同行することでなんとか迷わないように辿っている。けれど、クラハがこうして来てくれたなら、他の人間に頼る必要はないわけだし。
それに、この七人はどう考えても、わーっと走り出して道場まで向かおうとしている様子だったから。
「……気を付けてな」
「うぃーっす!」「了解です。そちらもお気を付けて!」
思ったとおり、だだだ、と七人は泥を跳ねて走っていった。
どう見てもあれ傘の意味ないだろ……とその背中を眺めていると、クラハとすれ違うあたりで一瞬全員が立ち止まる。何やら少しだけのやり取りがあって、頭を下げ合って、それからようやく、クラハがこちらにやってきた。
「すみません。あの、本当は傘、二本持ってきてたんですが……」
「見てた。追い剥ぎに遭ってたな」
「あ、いえ。私から言い出したことなので……」
ついさっきまで手に持っていた傘を、すれ違った七人に渡してしまって。
一本だけ、自分の差してきた傘だけを伴った状態で、彼女が。
「すみません。こちらはジルさんに使っていただいて……」
「ああ、それじゃ俺が持たせてもらうよ」
クラハの傘の下に、頭を屈めながら入り込んで。
ありがとうな、と言いつつその柄を握るのを請け負って、彼女に並んで、歩き出した。
「あ、あの。私が持ちますよ」
「そうか? でも俺の方が身長的に……あ、クラハが自分で持ちたいか?」
「いえ、そういうわけでは……あの、そっち側の肩が濡れて……」
「いや、これはたぶんさっき濡れたのが滴ってるだけだから」
まあ気にしないでくれと言いつつ、どうせこっちはもう濡れているからと内心だけで思いつつ、少しだけクラハの方に傘を傾けて。
それがあまり意識されないようにと、ジルは。
「クラハもそれ、足元すごいことになっちゃってるな」
「え? ……そうですね。結構こちらの道が、ゆるんでしまっているみたいで」
服の裾と靴。
そこに泥が跳ねてしまっているのを指摘して、目線を落とさせて。上向きに意識が向かないようにして。
それから、ゆっくり話を始めることにした。
「今日はクラハは……昼からチカノと一緒の当番だったよな」
「そうですね。チカノさんが物見台に立っている間、下の巡回で細かい異状がないかを確認するということで」
「で、確か夜に俺が起きて出てくまでが当番時間……ごめんな。休みの時間まで世話してもらっちゃって」
というかいいんだぞ、ともジルは伝える。
忙しいときだから、俺のことは気にしないでもらっても、と。
今この町では、二十四時間体制の警戒網が敷かれていて、それに自分もクラハも、しっかり組み込まれているのだから。
「いえ、大したことじゃありませんから。何でも言ってください」
「そうか? そう言ってもらえるのはありがたいけど……」
「それより、ジルさんこそ大丈夫ですか。ここ八日間、もうずっと夜の十二時間は巡回番に入りっぱなしで……」
疲れていませんか、と問われれば。
まあ正直、と素直に答えてしまう。
「……きついな。神経が削れる」
「やっぱり……」
「まあでも、そうならない戦いなんて、普通はないからな。俺とチカノは体力回復もクラハたちよりは上手いし、見た目ほど苦じゃないさ」
十二時間。
それがジルの、一日の当番時間だった。
そして、彼のいない残りの十二時間を埋めるように入るのがチカノで――当然、彼女の当番時間も、一日十二時間。
チカノは物見台の上から、ジルは巡回班の門下生たちとともに、町の外縁の竹林の中を。
交代交代で常に、魔獣への警戒のため、神経を尖らせている。
「クラハだって、かなりの時間、当番に入ってくれてるだろ」
「いえ、おふたりほどでは……」
「門下生たちと混ぜても稼働時間の上位五パーセントには入るし。前から思ってたんだが、クラハは体力すごいよな。短い運動体力もあると思ったけど、長期的なそれもかなりあると思う」
剣術を教える上でも、このあたりの基礎的な部分のトレーニングが省けるのはありがたい、と思いつつ、ジルは。
「だけど、たぶん段々状況はきつくなっていくから。休めるうちはよく体力を温存してもらった方がいい……かな」
「段々きつく……というと」
一瞬、クラハが周囲の雨に煙る竹林の小径を見回したのは。
おそらく誰かに聞かれたりしないように、という配慮だったのだと思う。
「……これから先、もっと厳しくなる見込みがある、ということでしょうか」
「……まあ、なる。士気が下がるから、他言はしないでほしいが」
ほぼ確実だ、と言わざるを得なかった。
ジルもまた、周囲に人の気配がないことはわかっていたけれど……一応、クラハに倣って周囲を見回してから。
「まず、サミナトを倒した〈十三門鬼〉がまだ潜伏してるだろ。これだけで、かなりきつい」
わかります、とクラハはそれだけで、素直に頷いてくれた。
「今のジルさんとチカノさんの十二時間交代の原因ですよね。おふたりのうちどちらかがいなければ、まず対抗できない……」
「そもそも俺とチカノでも、一対一ならまだ不覚を取る可能性もあるから、二人で当たりたいんだけどな。だけど……」
いつ〈十三門鬼〉が姿を現すか知れない以上。対応可能な人間がジルとチカノのふたりだけである以上。
どうやっても、完全な安全策を取り続けることはできない。
ジルとチカノのふたりが、危険を引き受けるしかなかった。
「あれから〈十三門鬼〉は姿を見せませんが……それはそれで、プレッシャーになっていますよね」
「ああ。……門下生たちも、それで精神が擦り切れてるみたいだしな」
さっきまで自分と共にいた七人のことを、ジルは思い出す。
彼らは、現状この町に残っている門下生の中でも、上澄みの実力を持つ武術家たちだ。
けれど、彼らはいずれも年若い――チカノが以前に言っていたとおり、この状況の開始時点で、道場の実力者たちの多くは東国各地に派遣されてしまっているのだ。残されているのは彼らのように、力こそあれまだ何か足りない部分のある門下生たちだけ。
彼らはいまだ精神的に未熟な側面を持つために、ここに残されており。
そして当然、そんな彼らは、師であるサミナトが倒れたこと、サミナトを倒した魔獣がいまだ潜伏して自分たちを脅かしているということに、動揺せずにはいられない。
「その上、〈門の獣〉もまだいますからね」
続くクラハの言葉にも、ああ、とジルは頷いた。
あの日、町を襲った鼠たち――〈門の獣〉。
一見あれらは、完全に駆逐されたかのように思えたけれど。
「別のタイプがな……」
リリリアから手紙で貰った『いっぱいいる』という外典の記述。
あれの表すところは今、ジルの中では『鼠がいっぱい』のイメージから、こういう形に切り替わっている。
つまり。
『いっぱい種類がいる』ということ。
「えーっと、確か最初の襲撃の次の日はなくて、その次が……」
「虎ですね」
「ああ、そうそう。あのでかいの」
〈門の獣〉を指定する特定の魔法陣。
それがどういうわけか……鼠以外の形態を持つ魔獣にも刻まれていることが、明らかになってきたからだ。
「さらに次の日が兎。それから二日襲撃がなくて、もう一昨日ですね。これが馬で、昨日の夜明け前に山羊でしたね。あ、今日は……」
「猿が出た。交戦時間が短かったから警報を出さずに済んだのは幸いだったんだが」
進歩がないのは何とも、と愚痴のように溢してしまうのは。
「あれから一体も倒せてないんじゃ、かなり厳しいな」
むしろ、もっと出てきてもらって。
少しでも相手の内情を探りたい、とジルが思っていたから。
「『すり抜け』の謎、ですね」
「ああ。これは本当にわからん。魔法連盟や教会とも協力して進めてるんだが、進捗が全く……」
リリリアとユニス宛ての手紙にも、書いたことだった。
『すり抜け』――自分とチカノが防衛戦で苦しめられ、かつ〈十三門鬼〉がそれを使ったことでサミナトに重傷を負わせた、その謎の仕組み。
魔獣が攻撃を『すり抜け』てしまうという、悪夢のような現象。
それは、いまだ解明ならず。
ここ数日、〈十三門鬼〉が姿を見せない間に現れた〈門の獣〉――もっぱらジルの役割はそれの対処ということになっているが――それの討伐すら、満足にできていない。
「町の中に踏み込んでくる気配がないのが救いだが……何にせよよくわからん。この状態で深追いもできないし」
「決め手がない以上、こちらから打って出るのも難しいですよね……」
一応、と。
クラハが懐から、小さなメモを取り出した。
「虎が東北東、兎が東、馬が北、山羊が北北東の方角で出現しています。先ほど門下生の方に訊いた限り、今日の猿は再び東北東で。〈十三門鬼〉が北東から出現したことを合わせると、このあたりに外典魔獣の潜伏地点があるんじゃないかと思いますが……」
すごいな、とジルは驚きと感嘆を込めて、
「ちゃんとメモしてるのか、そういうの」
「はい、一応……。ただ、鼠の場合は北と南の両側から攻め入られたので、単に出現場所は偶然の可能性もありますが」
いやいや、とジルは彼女の謙遜を否定せざるを得ない。
だって、自分には絶対にできないことだから。
「決め手がわかったら、そのまとめてくれたデータをもとに、その方角を山狩りするのがいいのかもな。……わかったら、の目途が立たないのが問題なんだが」
「そう、ですね」
言えば、クラハもメモを閉まって。
少しだけ、会話は途切れた。
雨の音がずっと激しく鳴り続けている……だからかえって、周囲の音がまるで届かない。雨にカーテンを引かれたようで、うるさくて、静か。そんな不思議な場所が、この傘の下のふたりだった。
すう、とクラハの息を吸う音が聞こえたと思えば。
そういえば、と彼女は。
「わからないと言えば……〈十三門鬼〉もですよね」
「ん?」
「あ、いえ。外典魔獣中位種、ということですと、当然すごく強力ということになりますよね。……その、それがどうして、あの再封印の夜に出てこなかったのかと」
そう思って、と最後はどういうわけか、自信なさげに声は小さくなっていったけれど。
確かにそのとおりなのだ、とジルは思う。彼女の指摘するところは、自分も何度か考えていた。
あの魔剣〈灰に帰らず〉と対峙した夜――滅王の復活しかけていた、危機の夜。
もしも〈十三門鬼〉が街の襲撃に参加していれば、必ずしも結果は同じとは限らなかっただろうということを。
であるなら、どうして今になって――ということを。
考えずには、いられず。
「……ああ。それは本当に、そのとおりだな」
そして同時に。
最も順当で、嫌な答えも、思い浮かんでしまっている。
つまり。
あの再封印の夜には、参加することのできなかった外典魔獣が、ここにいる。
あの夜の段階ではいまだ力を取り戻していなかった野良魔獣が――現在各地で活性化している野良魔獣たちと同じように、再び力を得ているのでは、と。
あの夜、終わったと思っていたはずの出来事は。
滅王の復活を目的とした、恐るべき一連の事件は――実はまだ、終わってなどいないのではないかと。
「気が――」
滅入ってくるよな、と言おうとして。
ふと、ジルは。
「……気が、どうしましたか?」
「あ、いや」
目の前の彼女に、弱音を溢しすぎていることに、気が付いた。
「気が滅入るようなことばっか言っちゃったな、って思ってさ。なんかごめんな、折角迎えに来てくれたのに」
たぶん、日頃から世話になっているからなのだと思う。
中央の街を旅立ってからというもの、もう一ヶ月。壊滅的な方向感覚やらをカバーするだけではなく、日常の様々なことまで助けてもらっており。
今日みたいに、傘を忘れているだろうから迎えに……なんてことまで、クラハがしてくれるものだから。
うっかりその流れの中で、クラハに頼りがちになっていた。
「状況が状況だから、あまり明るい話もできないけど……そっちはどうだ? 困ったこととかあれば、些細なことでも何でも聞かせてくれ。最近当番も被らなくて、話す機会もなかなか取れてないし」
けれどいま話したようなことは、戦闘領域が本分の自分が、主体となって解決すべきことなのだから。
むしろ、戦闘においては彼女の不安を和らげる役割につかなければならないのだから。
そういう面では頼りすぎてはいけないだろうと思って、そう訊ねれば。
「……いえ、大丈夫です! ジルさんも大変でしょうし、そちらにご注力していただければ」
しかしクラハは、しっかりとした態度で、そう答えてくれる。
実際、とジルは彼女を見た。
さっき見ていた七人の門下生たち……それと比べてもクラハには、それほど精神的な部分での消耗がないように思われた。〈インスト〉戦や〈門の獣〉戦など、伝え聞く限りでわかるとおり、精神的なタフさも、実行力も兼ね備えているのだろう。彼女にそのことへの賞賛を投げかけてもほんの控えめな謙遜が返ってくるのみだけれど、しかし客観的にはそう見える。
正直な話として、ジルはこう思う。
同行者が器用で、体力があり、かつ判断能力にも優れているということ――これはものすごく精神を楽にしてくれる、と。
だからこそ。
「……そうか。剣術指導も滞ってるのに、色々やってもらって悪いな。いつもありがとう。どこかで必ず、埋め合わせはさせてもらうから」
彼女に約束をした『剣を教える』ということ……これは誠実に果たさなければいけないと、強く思う。
しかし命あっての物種。まずは、目の前の危難を乗り越えることに集中しなければならず。
「……いえ。本当に、落ち着いたらで大丈夫です! ジルさんこそ、困ったことがあれば何でも言ってください」
頑張りますから、と応えてくれる彼女に。
救われる部分も、甘えてしまう部分も多くあり。こういう形が適切なのかと、いまだに悩んでいるけれど。
ありがとな、と。
もうこの旅が始まって何度目になるかわからない言葉を、ジルは呟いて。
大したことじゃありませんから、と。
これもまた、何度目になるかわからない言葉が、クラハから返されてきた。