4-4 鬼
「四層での展開に切り替え完了しました!」
「よし! 気力体力切らすなよ! このまま殲滅を――」
「じ、ジル先生!!」
町の北部。
状況は、かなり良く進んでいた。
慣れないながらジルは陣頭指揮をこなしていたし――それに対する周囲の反応もよかった。足りない部分を補い合いながら……あれほど無数にいた鼠の頭数に、ようやく限りが見えてきた。
このまま気を抜かずに進めていければ、と考えていたところに。
飛び込んできたのは、町の中央から走ってきたひとりの門下生。
血相を変えて。
冷たい雨の中で白い息を吐きながら――ほとんどその場に膝もついていられないくらいの疲れようで、しかし懸命に、彼は叫んでいた。
「お、鬼が! 鬼が出ました!」
「は――?」
一瞬、ジルは呆気に取られる。
鬼。そんな現実感のない生物が――しかし瞬時に思い直す。自分は竜と戦ったこともある。外典に記された魔獣とも。魔剣に侵食された魔人とも。今更、鬼だけを取ってこの世にいるはずがないと声高に叫ぶ理由はどこにもない。
だから、建設的な質問。
「強いのか!」
「サミナト先生が抑え込んでいます! でも、あまりにも――」
「チカノは!?」
「今、別の門下生が呼びに行ってます!」
内心で舌打ちしたくなるような気持ちを、ジルは何とか抑え込む。
今、この場を抜けるわけにはいかない。
前線に攻撃的な魔法を使える人間がいないのだ。大規模火力は自分頼み。あと少し処理が落ち着けばとは思うが、しかし今このタイミングで抜けてしまえば、防衛線が崩壊しかねない。
「――あと三分でここを片付ける。その後だ!」
どれほどの相手なのかはわからない。
しかしサミナトほどの武術家であれば、すぐに敗北してしまうことはないはずだと――そう思うから、ジルは制限付きの回答をその門下生に出した。
こくこくと頷いたのを確認すれば、再びジルは、最前線で剣を振るう。
いまだ、鼠の透過の仕組み――障壁を通過できたり、あるいは攻撃をすり抜けたり、その理由は解明できていない。
チカノの方が先に片付けてサミナトの下に駆けつけてくれることを期待したいところではあるけれど――同条件ならやはり、難しいだろうと思うから。
とにかく素早く片付けねば、とジルは焦りつつ、未剣を繰り出す。
もしもこのとき、とは。
語っても、詮無いことである。
†
剣戟の音は重たく、一撃一撃が大気を揺らしていた。
震えた家屋の縁から雨垂れがどぼどぼと降り注ぐ――ガキン、ガキンと金低く鳴る音が響くたび、空気が歪み、その衝撃が目に見えるような錯覚が、クラハの視界に起こっている。
サミナトが。
鬼と対等に、斬り結んでいる。
それは、言い方を変えるなら。
ジルの師と同格と称されるサミナトと――鬼は、対等に渡り合っていた。
あまりにも、とクラハは思う。
強すぎる。そしてまた、急すぎもする。
あの鬼はつまり、明確に〈インスト〉を超えた強さを持つということだ。しかもイッカを相手に放った一撃と、今サミナトを相手に繰り出している連撃の威力が、まるで違う。クラハの目からはあまりにも格上すぎて正確な見積もりができないが……下手をすれば魔人にも、魔剣〈灰に帰らず〉の完全侵食状態にも届くほどのそれなのかもしれない。
立て続けに――。
滅王の復活が阻まれてそれほど日も経たないというのに、これほどの相手が現れた。
その事実を前にして、何も不吉を感じないというわけにはいかず――、
「君、こっちへ!」
沈みかけた思考は、その言葉に掬い上げられた。
腕を掴まれている――掴んでいるのは、先ほどクラハに笑いかけてきたひとりの門下生だった。
「巻き込まれるよ!」
「す、すみません!」
いつの間にか、門下生たちは遠巻きにサミナトと鬼の戦いを見ていた。
手出しができないとわかっているからだろう。聖職者たちも、また同じ。これほどの高度な戦闘を前にしては、サポートをするつもりで邪魔してしまうということだってありうる。
クラハもその『遠巻き』の一員になりながら。
サミナトの振るう剣を、見ていた。
「平気だよ。サミナト先生なら、きっと――」
信頼の籠った声色で、門下生が言う。
重い剣だ、とクラハは思っていた。
ジルのそれとはまた違う。そもそも得物は刀……片刃の剣だが、ジルの使うようなこだわりの感じられないそれとは、まるで異なる。
名刀なのだろう、と目利きせずともわかる。
普通の刀よりも二回りほどの大振り。そして、鬼の爪を受け止めてなお、罅のひとつも入る気配が見られない。
そしてそれを振るうサミナトの剣式もまた、ジルと異なっている。
ほとんど構えにブレがない――歩法も体軸の使い方も、クラハの目にはどこか奇妙なほどに映る。一足をただ歩くような動きのはずなのに、気付けば三足分遠くに離れている。鬼の剛腕と宙空に打ち合ってなお、次の瞬間にはあまりにも整った構えを取り直している。
崩れるということが、まるでない。
それは確かに、ジルをして『強い』と言わしめるだけの力量と見て取れた。
「――――ウゥウウ」
「甘い」
今も、また。
大上段から振り下ろされた鬼の爪を、下段からの払い上げで容易く脇へと逸らしてしまって。
サミナトが、真っ直ぐに突く。
鬼がそれを嫌って後方に大きく跳ぶ――けれど一筋、裂けきれなかった分の傷が、その胸に残る。
さらに流れるように、サミナトは次の動作に移る。
鬼ががむしゃらになって繰り出したような攻撃の全てを斬り払いながら、前へ後ろへ、まるで迷いなどないかのように攻め入り続ける。
これなら、と。
クラハが心の中で、思った瞬間。
「――げほっ、がっ!」
驚いて振り向く――視線の先にいたのは、教会信徒に囲まれて治療を受けるイッカの姿だった。
喉の奥に詰まっていた血を吐き出したらしい。その一声を機に、彼の瞳にくっきりとした意識が戻ったのがクラハにも確認できる。
よかった、とクラハは思う。
あの調子であればきっと、それほど深刻で、後に引くような怪我は残らないはず――それだけを確認して、再びサミナトと鬼の戦いに目を戻す。
鬼も、こちらを見ていた。
たった今。
イッカの状態が落ち着いたのを。それを、周囲の人間が見ていたのを。
鬼も、じっと。
その目を見開いて。
サミナトとの戦いの最中――こちらをじっと、見つめていた。
「あ――」
何かが、と。
直感だけが、クラハに教えてくれた。
何かが起こる。
何か良くないことが、これから起こる。
そしてそれはきっと――、
「――なッ!?」
サミナトがそこで初めて、動揺の声を上げた。
それもそのはずだった――サミナトが繰り出した攻撃を、鬼は避けなかった。防ぎもしなかった。
ただ受けた。
右の肩を半ば断ち切られるような形で、サミナトの振り下ろしをその身に受けた。
そして、無理矢理にサミナトの頭を飛び越えた。
「しまっ――」
何かをしなくては、とクラハは。
向かい来る鬼に、攻撃を仕掛けようとした。
剣は、きっと意味がない。
だったら魔法を――と考えても、咄嗟に詠唱できて、効果のあるものが見当たらない。
であるなら、あとは神聖魔法しかない。
どうにか障壁を形成しようとする。反応速度ではクラハが勝ち、形成速度では聖職者たちが勝つ。しかしそれは間に合わず、形成完了時点ですでに鬼は、間合いに入り込んでしまっている。
「え――?」
腕の一振りが。
イッカに、襲い掛かる。
「――させるかあッ!!」
それに、ほんの一瞬だけ遅れて、サミナトが割り込んだ。
見事、と言うほかない動きだった。
鬼のした予想外の動き……その意図をサミナトはすぐさま察知していた。イッカを狙っていることを理解した。だから剣を斬り上げて、鬼の爪を撥ねのけた。
そして、その後。
無理な姿勢になった自分を鬼が狙うこと――それもきっと、彼にはわかっていた。
だから一刀を振り抜いた後。
サミナトは、腰に提げたもう一刀をもまた、鞘から解き放って。
鬼の右脚、その先の爪が自分の左脇腹に抉り込まれようとするのを、防げる位置に置いた。
防げるはずの位置に、置いた。
「――――がッ」
そしてその真逆。
右の脇腹に、背後から。
鬼の左脚の爪を、抉り込まれた。
一瞬を支配していたのは、困惑だった。
あからさまな重症――それをサミナトが負ったこと。それももちろん、その原因のひとつではあるはずだけれど。
それよりも、もっとひどいこと。
「ギャハッ、ギャハハハハッハッ!!!!!」
たったいま、顔を歪めて嗤う鬼が、してみせた動きは。
誰の目にも、唐突にサミナトの目の前から消えて、背後から現れたようにしか見えなかった。
「ぅ、ォオオオおおおオオ!!!」
サミナトが叫ぶ。
脇腹に大穴を開けながら、口から血を吐き流しながら、刀を振るう。
けれど、もはやその剣速には、先ほどまでの冴えはなく。
鬼が避ける。
それもまた、消失と出現としか見ることのできないような、奇妙な動作で。
そして、再びその爪を振り下ろそうとして――、
「ギッ、」
大きく一足、鬼は飛びのいた。
トン、と遅れて響いたのは、矢がぬかるんだ地面に突き刺さる音。
鬼が見ている。
今度は、空の方。
一緒になって見てみれば、きっと誰しも同じものを見つけられたはずである。
雨の中、家屋の屋根の上で弓を手に立つ、女の姿。
チカノが、鬼に狙いを定めている姿。
トントントン、と立て続けに矢が放たれる。
「ギヒッ、」
鬼が飛びのく。
一瞬だけ、サミナトに再び目をやって。
それから迷いなどないかのように、チカノのいるのとは逆側――しかしジルのいる方角ともやや異なる。北東へと、逃げ出していく。
けれど。
果たして、助かったのはどちらの方だったか。
「先生!」
門下生の声に、鬼の背が見えなくなった後もじっとそちらを見ていたクラハが、はっと我に返る。
やがて、遠く離れた場所にいたチカノが、ここまでやってくる。
もう少し遅れて、北の状況を完全に落ち着かせたジルが、戻ってくる。
そして全員が全員、同じものを目にすることになる。
敗れたサミナトが。
雨の中、その腹から血を流して昏睡に落ちていく様を。
雨音は酷く煩く。
けれど後悔の足音は、それよりも一際大きく、そこにあった。